第4話 三日で辞めた灯り係
公爵家は、その翌日に灯り係を雇った。
話はハンナが持ってきた。ハンナの姪が坂の上の洗い場で働いていて、洗い場は屋敷じゅうの噂の集まる場所だ。
「南門のグレーベという男だ。腕は悪くない。等級も持ってる」
「では、解決ですね」
「三日だね」
ハンナは鍋を洗いながら言った。わたくしは型枠を並べる手を止めた。
「三日、とは」
「三日で辞める。賭けてもいい」
ハンナは正しかった。三日目の夕方に、当のグレーベが工房へ来たからだ。
背の高い、手の荒れた男だった。戸口で帽子を取って、しばらく中を見回していた。壁の型枠と、鍋と、蔵へ下りる戸を。
「ヴァイラントの娘さんですか」
「はい」
「オルレンス家の契約は、こちらですね」
「はい」
男は肩を落とした。落としたというより、確かめて安心したように見えた。
「三日、屋敷にいました。よく燃える蝋は置いてあるんです。芯も悪くない。ただ、置いてある分は日にちが切ってあって、それが六日で終わる」
「五日目でしたね」
「五日目です。六日目からは何もない。註文を出そうとしたら、組合に止められました」
わたくしは椅子を勧めたが、男は座らなかった。
「先約のある家の仕事は受けられない。二十年前の決まりです。わたしはそれで食えている口ですから、破るわけにはいかない」
「破らないでください」
「破りません」男は少し笑った。「だから辞めます。あの家に必要なのは灯り係じゃない。契約を解く署名です」
「そう申し上げてください」
「申し上げました。三度」
男は帽子をかぶり直した。
「『そのようなものは無効だ』と仰いましたよ。無効かどうかを決めるのは、あの方じゃないんですがね」
翌朝、グレーベは荷をまとめて坂を下りた。
残りの理由は、その日の午後に工房へ来た組合の書記が説明していった。書記はまだ若く、義理堅い顔で、帳面を持っていた。
「ヴァイラント工房に、確認したいことがございまして」
「どうぞ」
「オルレンス公爵家との専属契約は、生きておりますか」
わたくしは父の帳面を出した。三年前の秋で書き込みが止まっている、あの帳面ではない。工房の表の帳面のほうだ。契約の頁は、二十二年前の日付で始まって、解約の記載がない。
「生きております」
「やはり」書記は溜息をついた。「グレーベがそれで辞めました」
組合には、古い決まりがある。
ある家に専属の灯り師がついているあいだ、他の登録灯り師はその家の仕事を受けられない。二十年前まで、王都の灯り師は家ごとの奪い合いを繰り返していた。仕事を横から取り、値を崩し、腕の悪い者が安さで入り込んで、貴族の屋敷で火事が二度出た。それで決まりができた。
先約のある家には、手を出さない。
「解約なさればよろしいのでは」わたくしは言った。
「そう申し上げました。公爵家は、なさいません」
「なぜ」
「解約には、双方の署名が要ります。工房側の署名は、ヴァイラントの代表者が」
書記はそこで言葉を切った。それから、帳面をめくる振りをした。
「——代表者は、あなた様でございます」
つまり、こういうことだ。
公爵家が他の灯り師を雇うには、まず工房との契約を解かなければならない。契約を解くには、わたくしのところへ来て、頭を下げて、署名を求めなければならない。
道は、開いている。ふさいでいるのは決まりではない。
「公爵家は、何と」
「『そのようなものは無効だ』と」
「無効ではありませんね」
「無効ではございません」書記は帳面を閉じた。「わたくしどもは、書いてあるものしか見ません」
書記が帰ったあと、ハンナが鼻を鳴らした。
「頭を下げりゃ済む話だ」
「下げないでしょうね」
「下げないね。あの家は、下げ方を知らない」
わたくしは契約の頁を見ていた。父の字だ。二十二年前、わたくしが四つのときに書かれている。
父はこの契約を、解かないまま死んだ。臥せっているあいだ、帳面はいつも枕元にあった。解こうと思えば解けた。娘が公爵夫人になった年に解いてもよかった。
解かなかった。
「親方はね」ハンナが言った。「あんたが公爵家に入るとき、この頁を開いてしばらく見てた」
「何か仰いましたか」
「『この家に一本入れておく』って」
「一本」
「意味は訊かなかった。訊いても言わない人だった」
わたくしは頁を閉じた。木箱は、まだ作業台の端にある。
その夜、蔵に下りて札の日付を数えた。
三年前の秋から、父が死ぬ二か月前の夏まで。段は九つ。搾った季節ごとに分けてある。夏の蝋は色が濃く、秋の蝋は白い。混ぜてはいけない。混ぜると燃え方が揃わない。
九つの段を、父は一人で積んだことになる。臥せる前の半年で。
わたくしは段のあいだにしゃがんで、しばらく動かなかった。
この蔵の中身を全部使い切るには、たぶん三年かかる。三年かけて使い切ったころには、次の三年分が要る。だから灯り師は、常に三年先の自分のために蝋を寝かせる。
父はもう三年先を持っていなかった。それでも寝かせた。
その日の夕方から、工房には人が来はじめた。
最初は坂下の靴屋だった。次に、井戸端で話を聞いた仕立屋。それから宿屋の下働き。みんな同じことを言った。
「等級の無いのでいいので、売ってもらえませんか」
靴屋は、両手を前掛けで拭きながら言った。
「うちは獣脂を使ってるんです。安いですから。ただあれは煙が目に来る。夜に細かい針目を見ようとすると、一刻で涙が出ます」
「蜜蝋は高いでしょう」
「高いです。等級のついたやつは、一本で獣脂の十本ぶんだ。だからいつも諦めてました。あいだが無いんですよ、あいだが」
仕立屋も同じことを言った。宿屋の下働きも言った。
貴族の夜会には等級が要る。しかし町の家には要らない。要らないのに、これまで町の人は等級つきの高い蝋燭か、煙の出る安い獣脂かの二択だった。あいだが無かった。
蔵には三年ぶんの蜜蝋がある。等級は打てない。だが、蝋燭にはなる。
「売れるじゃないか」ハンナが言った。
「売れます。ただし、夜会には出せません」
「出さなきゃいけないのかい」
「いいえ」
わたくしは言ってから、少し黙った。
六年、夜会のことばかり考えていた。何時に始まって、何時に終わって、どの席に誰が座るか。灯りはそのために作るものだと思っていた。
靴屋は、夜に革を縫う。仕立屋は、夜に針を持つ。宿屋は、夜じゅう客を通す。その人たちの夜のことを、わたくしは一度も考えたことがなかった。
戸が鳴ったのは、日が落ちきったころだった。この時刻に来る客はいない。ハンナが顔を上げ、トビアスが作業台の陰から出てきた。
戸を開けると、外套の男が立っていた。年は三十の手前。旅の埃はついていないから、坂の上でも下でもない、王都の中心から来た人だ。
男は帽子を取って、名乗りもせずにこう言った。
「三年前の秋に搾った蜜蝋を、こちらでお持ちだと伺いました」
組合の決まりというのは、たいてい昔の事故から生まれます。腕より安さで仕事を取る者が増えると、最後には火が出ます。だから「先約のある家には手を出さない」は、灯り師を守る決まりではなく、屋敷を守る決まりです。
次回、名乗らない客が蔵の話をします。なぜ三年前の秋だと知っているのでしょうか。




