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離縁いたしますので、公爵家の夜は今夜で終わります  作者: 雫石アイナ


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3/9

第3話 秋の夜会に、わたくしはおりません

 使いには、その場でお断りした。


「売れません」

「金子は用意があると申しております」

「金子の話ではないのです。等級を打てる者がこの工房におりません。等級のない蝋燭は夜会に出せません。ご存じでしょう」


 使いは知っていた。知っていて来たのだ。知らないのは、坂の上の人たちだけだ。


 翌日、マルタが工房に来た。


 前掛けのまま坂を下りてきたらしく、髪が乱れていた。厨房のマルタが持ち場を離れるのは、六年見ていて二度目だった。


「奥様。いえ、あの」

「リーゼで結構です」

「厨房の裏の灯りが、点かないのです」


 わたくしは手を止めた。


「二番目の棚の細いほうを、と申しました」

「それが、もう無くて。細いのから使ってしまって、太いのしか」

「太いのは煤が出ます」

「出ました。鍋に落ちて、昨日の晩の分を全部捨てました」


 マルタは前掛けの端を握っていた。明日は秋の夜会で、厨房は日が落ちてから六刻動く。灯りが煤を吐けば、鍋の中身が全部だめになる。それは灯りの問題であって、同時にマルタの首の問題だった。


「広間には参りません」わたくしは言った。「厨房の裏だけです」

「それで、充分です」


 わたくしは前掛けを取った。ハンナが顎で戸をさし、トビアスが鋏を包んで差し出した。


 オルレンス公爵邸の厨房口は、坂の裏の細い道から入る。六年住んだ家に、裏から入ったのは初めてだった。


 厨房は暑かった。竈が四つ、全部に火が入っている。使用人たちがわたくしを見て、目だけで会釈をした。誰も声をかけなかった。かけ方が分からないのだろう。三日前まで奥様で、今は裏口から来る誰かだ。

 わたくしは裏の通路の燭台を見た。太い芯が、案の定、真っ黒に伸びている。


「これは、灯りが悪いのではありません」わたくしは鋏を出した。「切っていないだけです」


 切ると、煙が止まった。それだけのことだった。


「それだけで」


 若い下働きの娘が言った。言ってから、失礼を言ったという顔をした。


「それだけです」

「わたくしどもでも、できますでしょうか」

「できます。ただ、どこをどれだけ切るかは、置く場所で変わります。竈の近くは風があるので短く。奥の突き当たりは風が来ないので長く」

「同じ長さではないのですか」

「同じにすると、どちらかが必ず煙を吐きます」


 娘は燭台を見上げた。同じに見えるものが、同じではないと知った顔だった。通路の突き当たりまで、十一本。全部切るのに四半刻もかからない。

 最後の一本を切り終えたころ、広間のほうから、音がした。


 最初は椅子を引く音だと思った。

 次に、女の声がした。高い声だった。悲鳴というほどではない。何かに驚いて、それを笑いで隠そうとする声だ。それが二人になり、三人になった。


 厨房の使用人たちが手を止めた。


「何か落ちたのでしょうか」


 誰かが言った。わたくしは通路の壁に手を置いたまま、動かなかった。匂いで分かった。


 煤だ。

 蜜蝋の煤は、油の煤とは匂いが違う。甘い。喉の奥に残る。広間の十二本——いや、秋の夜会なら三十本は立てているはずだ——その全部が同時に煙を吐けば、天井まで上がった煤は冷えて、粉になって、ゆっくり降りてくる。

 下には人がいる。秋の夜会だから、令嬢たちは薄い色を着ている。


 白いものの上では、煤はよく見える。


 わたくしは通路に立ったまま、聞いていた。

 広間の音は、扉を二枚隔てるとほとんど届かない。それでも、何が起きているかは順番で分かる。まず驚きの声が上がる。次に、給仕を呼ぶ声が重なる。それから、布を叩く音がする。掌で肩を払う音は、乾いていて短い。あれは自分の衣装を払っている音だ。

 誰かが窓を開けようとした。錠を外す音がした。開けてはいけない。風が入れば、煤は舞い上がってもっと広がる。

 わたくしは口を開きかけて、閉じた。


 言う相手がいない。

 厨房の使用人に言っても、広間には届かない。家令に言うには、わたくしがここにいる理由を先に説明しなければならない。説明しているあいだに窓は開く。

 六年のあいだ、この家の誰も、灯りのことでわたくしを呼びに来たことがなかった。呼ぶ必要がなかったからだ。灯りは点いていた。

 今夜も、誰も呼びに来なかった。


 窓が開いた音がした。声が、少し広がった。


 廊下を走る足音がした。家令だった。厨房の戸を開けて、中を見て、それからわたくしを見つけた。


「奥様——」


 そこで止まった。口が止まったのではなく、その先が無かったのだ。

 わたくしはもう奥様ではない。だから、この人はわたくしに何も命じられない。頼むこともできない。頼めば、それは註文になる。註文には等級が要る。


「……失礼を」

「いいえ」


 家令は一度だけ、深く頭を下げた。それから広間へ戻っていった。


 ベアトリクス様が厨房に下りていらしたのは、そのすぐ後だった。

 義母は扉のところに立ったまま、中には入ってこなかった。今度は入る理由がなかったのではない。裾に煤が付くからだ。


「あなた、なぜここにいるのです」

「厨房の裏の灯りを見に参りました」

「頼まれもせずに」

「頼まれました。厨房から」


 義母はマルタを見た。マルタは俯いた。俯いた首の後ろが赤くなっていた。この人は明日、厨房から出されるかもしれない。灯りを頼んだからではなく、坂を下りたからだ。

 わたくしは一歩前に出て、義母とマルタのあいだに立った。


「広間には参っておりません。等級のない者は出せませんので」

「見苦しいことを」義母の声は、少しも揺れなかった。「灯りの職人など、王都にいくらでもおります。明日にでも雇えばよいことです」

「そうですね」

「なら、お帰りなさい」


 わたくしは頭を下げて、裏口から出た。


 裏の道を半分ほど下りたところで、後ろから足音が追いついてきた。マルタだった。息を切らして、包みを差し出した。


「これを」

「お戻りなさい。見つかります」

「奥様。あの、リーゼ様。明日からは、どうすれば」

「切ってください。竈の近くは短く、奥は長く。今日ご覧になった通りです」

「広間のほうは」

「わたくしには、どうにもできません」


 マルタは頷いて、坂を戻っていった。わたくしは包みを開けなかった。手が塞がっていると、振り返りにくい。


 坂を上りきる前に、一度だけ振り返った。広間の窓は明るかった。夜会はまだ続いている。続けるしかないのだ。途中で灯りを落とせば、落としたことが噂になる。

 三十本の蝋燭は、これから三刻、煙を吐き続ける。誰も切らないからだ。


 工房に戻ると、ハンナが鍋の前で待っていた。


「どうだった」

「煤が出ました」

「ふうん」


 ハンナは笑わなかった。かわりに、包みを受け取って中を見た。焼いた腸詰めが二本入っていた。まだ温かい。


「厨房から出たね」

「マルタです」

「あの人は分かってるんだ。灯りは料理の一部だってことをね」


 ハンナは腸詰めを皿に置いて、鍋の縁を指で弾いた。


「で。灯りの職人なんぞ、明日にでも雇えると思うかい」

 蜜蝋の煤は、天井まで上がってから冷えて落ちてきます。だから広間で煙が出たとき、最初に気づくのは鼻で、次が喉、最後が肩の上です。白い布は、いちばん最後に教えてくれます。

 次回、公爵家が灯り係を雇います。三日で辞めます。

 ブックマークをいただけますと、坂を下りる足がもう一往復ぶん軽くなります。

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