第3話 秋の夜会に、わたくしはおりません
使いには、その場でお断りした。
「売れません」
「金子は用意があると申しております」
「金子の話ではないのです。等級を打てる者がこの工房におりません。等級のない蝋燭は夜会に出せません。ご存じでしょう」
使いは知っていた。知っていて来たのだ。知らないのは、坂の上の人たちだけだ。
翌日、マルタが工房に来た。
前掛けのまま坂を下りてきたらしく、髪が乱れていた。厨房のマルタが持ち場を離れるのは、六年見ていて二度目だった。
「奥様。いえ、あの」
「リーゼで結構です」
「厨房の裏の灯りが、点かないのです」
わたくしは手を止めた。
「二番目の棚の細いほうを、と申しました」
「それが、もう無くて。細いのから使ってしまって、太いのしか」
「太いのは煤が出ます」
「出ました。鍋に落ちて、昨日の晩の分を全部捨てました」
マルタは前掛けの端を握っていた。明日は秋の夜会で、厨房は日が落ちてから六刻動く。灯りが煤を吐けば、鍋の中身が全部だめになる。それは灯りの問題であって、同時にマルタの首の問題だった。
「広間には参りません」わたくしは言った。「厨房の裏だけです」
「それで、充分です」
わたくしは前掛けを取った。ハンナが顎で戸をさし、トビアスが鋏を包んで差し出した。
オルレンス公爵邸の厨房口は、坂の裏の細い道から入る。六年住んだ家に、裏から入ったのは初めてだった。
厨房は暑かった。竈が四つ、全部に火が入っている。使用人たちがわたくしを見て、目だけで会釈をした。誰も声をかけなかった。かけ方が分からないのだろう。三日前まで奥様で、今は裏口から来る誰かだ。
わたくしは裏の通路の燭台を見た。太い芯が、案の定、真っ黒に伸びている。
「これは、灯りが悪いのではありません」わたくしは鋏を出した。「切っていないだけです」
切ると、煙が止まった。それだけのことだった。
「それだけで」
若い下働きの娘が言った。言ってから、失礼を言ったという顔をした。
「それだけです」
「わたくしどもでも、できますでしょうか」
「できます。ただ、どこをどれだけ切るかは、置く場所で変わります。竈の近くは風があるので短く。奥の突き当たりは風が来ないので長く」
「同じ長さではないのですか」
「同じにすると、どちらかが必ず煙を吐きます」
娘は燭台を見上げた。同じに見えるものが、同じではないと知った顔だった。通路の突き当たりまで、十一本。全部切るのに四半刻もかからない。
最後の一本を切り終えたころ、広間のほうから、音がした。
最初は椅子を引く音だと思った。
次に、女の声がした。高い声だった。悲鳴というほどではない。何かに驚いて、それを笑いで隠そうとする声だ。それが二人になり、三人になった。
厨房の使用人たちが手を止めた。
「何か落ちたのでしょうか」
誰かが言った。わたくしは通路の壁に手を置いたまま、動かなかった。匂いで分かった。
煤だ。
蜜蝋の煤は、油の煤とは匂いが違う。甘い。喉の奥に残る。広間の十二本——いや、秋の夜会なら三十本は立てているはずだ——その全部が同時に煙を吐けば、天井まで上がった煤は冷えて、粉になって、ゆっくり降りてくる。
下には人がいる。秋の夜会だから、令嬢たちは薄い色を着ている。
白いものの上では、煤はよく見える。
わたくしは通路に立ったまま、聞いていた。
広間の音は、扉を二枚隔てるとほとんど届かない。それでも、何が起きているかは順番で分かる。まず驚きの声が上がる。次に、給仕を呼ぶ声が重なる。それから、布を叩く音がする。掌で肩を払う音は、乾いていて短い。あれは自分の衣装を払っている音だ。
誰かが窓を開けようとした。錠を外す音がした。開けてはいけない。風が入れば、煤は舞い上がってもっと広がる。
わたくしは口を開きかけて、閉じた。
言う相手がいない。
厨房の使用人に言っても、広間には届かない。家令に言うには、わたくしがここにいる理由を先に説明しなければならない。説明しているあいだに窓は開く。
六年のあいだ、この家の誰も、灯りのことでわたくしを呼びに来たことがなかった。呼ぶ必要がなかったからだ。灯りは点いていた。
今夜も、誰も呼びに来なかった。
窓が開いた音がした。声が、少し広がった。
廊下を走る足音がした。家令だった。厨房の戸を開けて、中を見て、それからわたくしを見つけた。
「奥様——」
そこで止まった。口が止まったのではなく、その先が無かったのだ。
わたくしはもう奥様ではない。だから、この人はわたくしに何も命じられない。頼むこともできない。頼めば、それは註文になる。註文には等級が要る。
「……失礼を」
「いいえ」
家令は一度だけ、深く頭を下げた。それから広間へ戻っていった。
ベアトリクス様が厨房に下りていらしたのは、そのすぐ後だった。
義母は扉のところに立ったまま、中には入ってこなかった。今度は入る理由がなかったのではない。裾に煤が付くからだ。
「あなた、なぜここにいるのです」
「厨房の裏の灯りを見に参りました」
「頼まれもせずに」
「頼まれました。厨房から」
義母はマルタを見た。マルタは俯いた。俯いた首の後ろが赤くなっていた。この人は明日、厨房から出されるかもしれない。灯りを頼んだからではなく、坂を下りたからだ。
わたくしは一歩前に出て、義母とマルタのあいだに立った。
「広間には参っておりません。等級のない者は出せませんので」
「見苦しいことを」義母の声は、少しも揺れなかった。「灯りの職人など、王都にいくらでもおります。明日にでも雇えばよいことです」
「そうですね」
「なら、お帰りなさい」
わたくしは頭を下げて、裏口から出た。
裏の道を半分ほど下りたところで、後ろから足音が追いついてきた。マルタだった。息を切らして、包みを差し出した。
「これを」
「お戻りなさい。見つかります」
「奥様。あの、リーゼ様。明日からは、どうすれば」
「切ってください。竈の近くは短く、奥は長く。今日ご覧になった通りです」
「広間のほうは」
「わたくしには、どうにもできません」
マルタは頷いて、坂を戻っていった。わたくしは包みを開けなかった。手が塞がっていると、振り返りにくい。
坂を上りきる前に、一度だけ振り返った。広間の窓は明るかった。夜会はまだ続いている。続けるしかないのだ。途中で灯りを落とせば、落としたことが噂になる。
三十本の蝋燭は、これから三刻、煙を吐き続ける。誰も切らないからだ。
工房に戻ると、ハンナが鍋の前で待っていた。
「どうだった」
「煤が出ました」
「ふうん」
ハンナは笑わなかった。かわりに、包みを受け取って中を見た。焼いた腸詰めが二本入っていた。まだ温かい。
「厨房から出たね」
「マルタです」
「あの人は分かってるんだ。灯りは料理の一部だってことをね」
ハンナは腸詰めを皿に置いて、鍋の縁を指で弾いた。
「で。灯りの職人なんぞ、明日にでも雇えると思うかい」
蜜蝋の煤は、天井まで上がってから冷えて落ちてきます。だから広間で煙が出たとき、最初に気づくのは鼻で、次が喉、最後が肩の上です。白い布は、いちばん最後に教えてくれます。
次回、公爵家が灯り係を雇います。三日で辞めます。
ブックマークをいただけますと、坂を下りる足がもう一往復ぶん軽くなります。




