第2話 三年、寝かせてありました
ヴァイラント灯明工房の鍵は、三度目でようやく回った。
戸を引くと、埃が下りてきた。作業台も、蝋鍋も、壁の型枠も、三年前のままの位置にある。父が死んだ日の朝に置いたものが、置いた形のままそこにあった。
わたくしは鞄を床に下ろした。木箱だけは下ろさずに、作業台の端に載せた。
「三年ぶりに開けた戸にしちゃ、軽かったろ」
声は奥からした。
ハンナだった。父の代からの職人頭で、わたくしが十四のときから蝋鍋の前に立っている。前掛けは新しい。ということは、この人はときどきここへ来ていたのだ。
「油を差してくれていたのですね」
「錆びた鍵は開かないからね。開かない戸は、そのうち誰も開けなくなる」
ハンナは戸口のわたくしを上から下まで見た。旅の外套と、二つの鞄と、木箱。
「で。奥様がうちに何の用だい」
「奥様ではありません。昨日、離縁いたしました」
「そうかい」
それだけだった。慰めも、驚きもなかった。ハンナは前掛けで手を拭いて、顎で作業台をさした。
「なら奥様じゃなく、親方の娘として戻ってきたんだろ。手を動かしな。三年ぶんの埃は口じゃ落ちない」
わたくしは外套を脱いだ。
父は三年前の冬に死んだ。
急なことではなかった。半年臥せって、最後の月はもう蝋鍋の前に立てなかった。わたくしは公爵夫人だったので、月に一度しか来られなかった。来るたびに父は帳面をつけていて、来るたびに「工房は畳む」と言っていた。
畳んだと思っていた。註文は断り、職人は減らし、看板は下ろした。父の名の焼き印だけが、わたくしの手元の六日分に残っていた。
だから、地下の蔵の戸を開けたときは、しばらく声が出なかった。
棚が、埋まっていた。
蜜蝋の塊が段ごとに並んで、それぞれに札が下がっている。札には日付がある。いちばん古いものが三年前の秋。いちばん新しいものが、父が死ぬ二か月前の夏。
「……三年」
「三年だよ」ハンナが後ろで言った。「親方は畳むと言いながら、蝋だけは寝かせ続けた。灯心草も、毎年夏に刈らせてた。わたしはずっと、何のためかと訊いてた」
「父は何と」
「『使う者が要るときに、無かったら間に合わない』」
良い灯りは、急には作れない。
蜜蝋は搾ったばかりだと水気と雑味が残る。それを三年寝かせて、ようやく煤の出ない蝋になる。灯心草も同じで、前の夏に刈って干したものでなければ撚りが締まらない。焦って作った灯りは、必ず途中で煙を吐く。
つまり、今日から始めても、良い蝋燭が手に入るのは三年後だ。金を積んでも変わらない。誰が積んでも変わらない。
わたくしは棚のいちばん手前の札に触れた。日付の下に、父の字で数字が書いてある。等級の見込みだ。
この蔵は、三年前から始まっていた。
三年前の秋。父が臥せった月だ。
あの頃わたくしは公爵夫人で、月に一度しか坂を下りてこなかった。父は帳面をつけていて、工房は畳むと言っていた。畳むと言いながら、蝋を寝かせ始めていた。
なぜ、とは訊けなかった。もう訊けない。
「その箱かい」
ハンナが階段の上から言った。作業台に載せたままの木箱を見ている。
「はい」
「開けないのかい」
「開けます。いずれ」
嘘ではない。ただ、今日ではない。父が最後に「持っていけ」と言ったのはこの箱で、そのとき父はもう字が書けなかった。だから中身は、まだ誰にも読まれていない。
「好きにしな」ハンナは肩をすくめた。「ただし言っとくけどね。蔵に蝋があっても、あんたはまだ一本も売れないよ」
「登録ですね」
「そう。等級を打てるのは組合に登録した灯り師だけだ。親方の焼き印は、親方が死んだ日に効力が切れてる」
「わたくしは登録がありません」
「公爵夫人だったからね。夫人は職に就けない。あんたは六年、父親の名で作ってたことになってる」
六年ぶんの夜は、父の名で数えられていた。父が死んでからの三年は、誰の名でもなかった。
物音がしたのは、そのときだった。
作業台の陰から、少年が出てきた。十三かそこらで、丈の合わない前掛けをしている。わたくしを見て、それから一歩下がった。
「トビアスだよ」ハンナが言った。「去年から置いてる。口はきかない」
「口が」
「きけないんじゃない。きかないんだ」
少年は答えなかった。かわりに、わたくしが試しに灯した一本の前へ来た。膝を折って、炎の高さに耳を寄せる。触れそうなほど近い。
それから、作業台の芯切り鋏を取った。何も言わずに、芯を三分の一だけ切った。
炎が、真っ直ぐに立った。
わたくしは息を止めた。今わたくしが切ろうとしていた長さと、同じだった。トビアスは鋏を置いた。置いてから、刃を二回、軽く鳴らした。
「二回は『良い』だ」ハンナが言った。「一回は『まだ』。それだけ覚えときな」
「音で分かるのですか。炎の」
「らしいよ。わたしには聞こえない」
少年は前掛けの裾を握って、また作業台の陰へ戻っていった。
その子が消えたあと、ハンナが低い声で言った。
「去年の春に、南門のほうから流れてきた。前にいた工房は無くなってる」
「潰れたのですか」
「さあね。わたしが知ってるのはそこまでだ」
「訊かないのですか」
「訊いたよ。一度だけ」ハンナは鍋を磨く手を止めなかった。「そのあと三日、鋏も持たなかった。だからやめた」
わたくしも訊かないことにした。かわりに、決めたことが一つある。あの子に「話しなさい」とは言わない。話さなくても伝わる方法を作ればいい。灯りの仕事は、もともと口が要らない。
その日の午後、わたくしは鍋に火を入れた。三年ぶんの埃を落とし、型枠を洗い、蝋を溶かした。手が覚えていた。六年公爵家にいたが、やっていたのは同じことだった。ただ、註文書がなかっただけで。
鍋を覗いて、わたくしは火を落とした。
「五度高いわ。捨てて」
「五度」ハンナが鍋の縁を指で弾いた。「見ただけで分かるのかい」
「分かります」
「親方と同じことを言うね」
鍋を捨てて、二度目を溶かした。今度は通った。型枠に流し、芯を吊り、冷ますあいだに次の型を洗う。ハンナが数を数え、トビアスが冷めた順に並べ替える。誰も指図をしていないのに、順番が揃っていく。
六年ぶりに、隣に人がいる場所で蝋を扱った。公爵家の支度部屋は一人だった。一人でも回った。回っていたから、誰にも見えなかった。
「十二本」ハンナが言った。「昔の親方の一日分と同じだ」
「体が覚えているようです」
「覚えてるのは体だけじゃないだろ」
わたくしは答えなかった。トビアスが最後の一本を並べ終えて、鋏を二回鳴らした。
日が落ちた。
工房の窓は西向きで、坂の上の公爵邸がよく見える。三階の端の窓には、まだ灯りがあった。あれは六日分の五日目だ。
戸を叩く音がしたのは、そのときだった。
開けると、オルレンス家の使いが立っていた。夜のうちに坂を下りてきたのだろう、息が上がっている。使いはわたくしを見て、それから帽子を取った。
「明後日の夜会の分が、足りないそうでございます」
蜜蝋を寝かせるのは、水気と雑味を抜くためです。搾りたての蝋で作った蝋燭は、火をつけると途中でぱちぱちと音を立てて、煙を吐きます。だから良い蝋燭屋の価値は腕ではなく、まず蔵の中身にあります。
次回、明後日の夜会が来ます。工房の蔵には蝋がありますが、売れない理由があります。




