第20話 もう、遅いな
蔵は、判決の翌朝に開いた。
差し止めの札を剥がして、戸を引く。九つの段はそのままだった。誰も触っていない。わたくしは三年前の秋の段から樽を一つ出して、鍋にかけた。
冬至まで三日。六十八本はもう王城にある。あとは玉座周りの配置と、壁ぎわの燭台を一尺下げる作業だ。人手は王城が出す。わたくしは指図をしに行けばいい。
残りの一年半ぶんの蝋は、これから王室が押さえる。書類は明日届く。
「忙しくなるね」ハンナが言った。
「なります」
「職人を入れるかい」
「入れます。冬が明けたら」
三年前、この工房は職人を減らして畳む支度をしていた。増やす話をするのは、四年ぶりだ。コンラートが来たのは、その日の夕方だった。
前と同じだった。馬車は無い。従者もいない。外套の肩が濡れていた。坂の上のほうで雨が降ったのだろう。
「入ってもいいか」
「どうぞ」
今度は、ハンナが奥へ引っ込んだ。トビアスも一緒に連れていった。わたくしは呼び止めなかった。コンラートは椅子に座った。外套を脱がなかった。
「訊きたいことが一つある」
「はい」
「あの覚え書きの、最後の行だ」
彼は懐から紙を出した。書き写してきたのだ。
——書斎、一本。等級外。
「これは、何だ」
わたくしは椅子に座った。座ってから、少し考えた。答えなくてもよかった。答えても何も変わらない。ただ、この人は訊いた。訊かれたことには答える。それがこの三月、わたくしがやってきたことだ。
「書斎の蝋燭でございます」
「備えの箱から出していた」
「箱のものは、夜会用でございます」
わたくしは机の抽斗から、一本を出した。細くて、白い。焼き印が無い。
「これでございます。作り置きが一本だけ残っておりました」
コンラートはそれを見た。手には取らなかった。
「等級が無い」
「打てません」
「品が悪いのか」
「いいえ。規格に合わないだけです」
わたくしは蝋燭を作業台に立てた。
「等級の試験は、三刻でございます。三刻もって、煤を出さず、途中で炎が落ちない。それが一等の条件です」
「三刻」
「夜会は三刻で終わりますので」
彼は頷いた。
「あなたは、書斎で六刻お書きになります」
彼の手が、少し動いた。
「三刻の蝋燭は、三刻で消えるように作ってございます。長く保たせようとすれば、炎を小さくしなければなりません。小さい炎では手元が見えません。書き物にはなりません」
「では」
「六刻もって、手元が見える一本を、別に作っておりました」
わたくしは芯の先を指した。
「三つ撚りの芯に、平打ちを一本だけ混ぜてございます。こういう作り方は、等級の表にございません。表に無いものには、等級が打てません。ですから、等級外でございます」
コンラートは、何も言わなかった。
「売り物にはなりません」わたくしは言った。「買う方が、お一人しかおられませんので」
コンラートは、蝋燭を見ていた。しばらく、何も言わなかった。わたくしも言わなかった。工房の外を荷車が通っていく音がした。夕方の坂は、荷車が多い。
「六年か」
「六年でございます」
「毎晩か」
「毎晩でございます」
彼は目を閉じた。それから、開いた。
「書斎の蝋燭は、煤を出したことが無かった」
「出さないように作っておりましたので」
「私は、それを一度も」
そこで止まった。止まったところが、正確だった。この人は嘘をつかない。気づいていたと言えば嘘になる。だから言えなくなった。
「戻ってくれと言うつもりで来た」
彼は言った。わたくしは膝の上で手を組んだ。
「言えなくなった。昨日、支度部屋の覚え書きを読んだ。全部だ。二千二百日ぶんある」
「お読みになったのですか」
「読んだ。一晩かかった」
彼は自分の手を見ていた。指の腹に、蝋を押し出したときの黒い跡がまだ残っていた。三月前についた跡だ。もう落ちないのかもしれない。
「毎日、数字が違った。風の日は違う。人数が多い日は違う。窓を開けた日は、扉口の芯が一分長い」
「一分でございます」
「あれを、六年」
彼はそこで、初めて息を吐いた。
「私は昨日、初めて数え始めた。一晩で二千二百日ぶんを読んで、それで分かったのは、私が何も数えていなかったということだけだ」
わたくしは何も言わなかった。
「今から数え始めても、六年には追いつかない」
彼は顔を上げた。
「もう、遅いな」
その言葉を、彼は誰にも言わせなかった。自分で言った。わたくしはそれを、六年待っていたわけではない。三月前に諦めたことだ。諦めたつもりでいた。
それでも、聞いたときに、少しだけ息が楽になった。なぜ楽になったのかを、あとで考えた。
この三月、わたくしは一度も、この人に何かを認めさせようとしなかった。認めさせようとすれば、それは戦いになる。戦いになれば、勝っても負けても相手が要る。相手が要るということは、まだ繋がっているということだ。
だから、何もしなかった。何もしないままで済むように、蔵の段を数え、芯を撚り、註文を受けていた。
それでも、心のどこかで、この言葉を待っていたのだと思う。待っていたと認めるのが嫌で、待っていないふりをしていた。ふりは今日で終わりだ。
「遅うございます」
わたくしは言った。
「三年寝かせるものは、三年前に始めなければなりません。三年前に始めなかったものは、いま始めても三年後です」
「三年後には」
「三年後には、また別のものが要ります」
彼は頷いた。立ち上がって、外套の襟を直した。それから、作業台の一本を見た。
「それは」
「差し上げます」
わたくしは包んだ。紙に巻いて、紐で結んだ。
「六刻もちます。書き物には十分でございます」
「代金は」
「頂きません。売り物ではございませんので」
彼は包みを受け取って、両手で持った。
「……ありがとう」
「いいえ」
戸口で、彼は一度だけ振り返った。
「工房は、うまくいくのか」
「いきます」
「そうか」
それだけだった。彼は坂を歩いて上っていった。馬車は最後まで来なかった。ハンナが奥から出てきたのは、それからしばらく経ってからだった。
「行ったかい」
「行かれました」
「泣いてないね」
「泣きません」
ハンナは鍋に火を入れた。
「あんた、あの一本を六年作ってたのかい」
「作っておりました」
「言えばよかったのに」
「言えば、等級が打てないと申し上げなければなりません」
「打てないと言えばいいだろ」
「打てないものを毎晩作っていると申し上げますと、無駄なことをしていると思われます」
ハンナは鍋の縁を指で弾いた。
「思われたっていいじゃないか」
「そうですね」
いま言われれば、そう思う。六年のあいだは、そう思えなかった。無駄だと言われるのが怖くて、無駄でないと言い張るのも怖くて、だから何も言わずに毎晩作っていた。
トビアスが奥から出てきて、作業台の上を見た。包んだ一本が無いことに、すぐ気づいたらしい。こちらを見る。
「差し上げました」
少年は、しばらく作業台を見ていた。それから、鋏を二回鳴らした。良い、という意味だ。冬至まで、三日。
等級の試験は三刻です。夜会が三刻で終わるからです。それより長く保つ蝋燭は、規格の表に欄がないので等級が打てません。良すぎるものも、規格から外れると「等級外」になります。
次回、冬至の前日です。あの子が、初めて声を出します。
ブックマークをいただけますと、六刻ぶんの芯があと一本、撚り上がります。




