第19話 訴えは通りません
コンラートは、戸口で足を止めた。
工房の中を見ている。鍋。型枠。吊るした麻の束。蔵へ下りる戸。それから床を。床には、蝋の粉が薄く積もっている。掃いても、翌日にはまた積もる。
「入ってもいいか」
「どうぞ」
ハンナは奥へ引っ込まなかった。鍋の前に立ったまま、動かない。トビアスは作業台の陰に入ったきり出てこない。コンラートは椅子に座らなかった。立ったまま外套の内から綴じた紙の束を出した。
「これは、君のものだ」
支度部屋の、覚え書きだった。六年ぶん、毎日の。
「持ってきてくださったのですか」
「置いていくべきものではないだろう」
わたくしは受け取った。表紙が擦れている。手に持ったまま坂を下りてきたのだ。
「用件を伺います」
「三百本、納めてほしい」
「差し止めが出ております」
「取り下げる。明日の朝いちばんに」
わたくしは、束を作業台に置いた。
「取り下げていただいても、納められません」
「なぜだ」
「本日、王室御用達をお受けいたしました」
ハンナが火を落とす音がした。
「……いつだ」
「本日の午後でございます」
「条件は」
「蔵の在庫は全量、王室が押さえます」
コンラートはしばらく黙っていた。それから椅子を引いて座り、こう言った。
「二十二年の契約はどうなる」
「果たせなくなります」
「破るのか」
「破りません。王室の求めは、貴族の契約に優先いたします。そう決まっております」
彼は、組んだ手を見ていた。
「決まっているのか」
「決まっております」
「知らなかった」
その一言を、彼は責める調子では言わなかった。ただ知らなかったと言った。わたくしは湯を出した。コンラートは椀を持ったが、口はつけなかった。持ったまま、しばらく置かなかった。
「一つ、訊いていいか」
彼は言った。
「なぜ、三年なのだ」
わたくしは、手を止めた。六年のあいだ、この人はその質問をしなかった。三月前まで灯りは点いていた。点いているものについて人は質問しない。
「搾ったばかりの蜜蝋には水気が残っております」わたくしは言った。「水気のある蝋は火にかけると中で泡になります。泡は蝋燭の中に穴を残します。穴のあるところまで燃えると、そこで炎が落ちます」
「三年で抜けるのか」
「三年で抜けます。二年半では抜けきりません」
「半年の差が、そんなに出るのか」
「出ます。抜けきらない蝋は煤を出します。夜会でお使いになれば天井まで上がり、冷えて、落ちてまいります」
彼は、椀を置いた。
「白いものの上では、よく見える」
「はい」
彼は、自分の手を見ていた。
「秋の夜会のあと、令嬢方の衣装を三着、当家で弁償した」
「さようでございますか」
「あのとき灯りが悪いと思った。品が悪いと。だから南門から職人を呼んだ」
「呼ばれました」
「呼んだ職人が作ったものも同じだった。それでようやく、品ではないと思った」
わたくしは、何も言わなかった。
「三年か」
「三年でございます」
「今から搾って、三年後だな」
「はい」
彼は、立ち上がった。
「一年半、当家に灯りは無い」
「解約なさいませ」
わたくしは言った。
「専属の契約を解約なされば、他の灯り師から買えます。三年ものを持つ工房はございませんが、二年ものならございます。二年ものは煤が出ます。ただ、少なくとも落ちません」
「解約には、双方の署名が要ると聞いた」
「本日この場で、いたします」
わたくしは、机から紙を出した。解約書は、もう書いてあった。三月前から、用意していた。コンラートはそれを見た。それから署名した。
わたくしも、署名した。二十二年の契約はそれで終わった。紙一枚と、二つの名前で。
「では」
彼は戸口で立ち止まった。何か言いかけて、やめた。それから外へ出て坂を歩いて上っていった。馬車は、呼ばなかった。戸を閉めてから、ハンナが息を吐いた。
「謝らなかったね」
「謝られても困ります」
「困るかい」
「困ります。謝られると、こちらが何か返さなければなりません」
わたくしは解約書を二つに折って、帳面に挟んだ。
「あの人は、三年の話を訊きました」
「訊いたね」
「六年、一度も訊かれませんでした」
訊かれていたら、答えていた。答えていたら、あの家に灯りの欄ができていたかもしれない。もし、という話をしても仕方がない。仕方がないと分かっていても、少しだけした。
法廷は、翌日の午前だった。
商事法廷の部屋は狭く、窓が高い位置にあった。灯りは天井から吊るした古い燭台が四つ。二等の、三つ撚りだ。よく保つ。よく保つが、卓の上が見えない。書類を読む部屋の灯りではない。
申立人の席に、ベアトリクス様が座っていた。コンラートはいなかった。法官が申し立ての要旨を読み上げ、それからわたくしに証拠を求めた。
わたくしは、証書を出した。三年前の九月。土地の売買。売主ヨハン・ヴァイラント。買主フーゴ・シュタイン。金貨百四十枚。証人は法官の書記が二名。
法官が読み上げているあいだ、義母は一度も顔を上げなかった。
「買主のシュタイン氏より、書面が届いております」
法官が、別の紙を取り上げた。
「——当該土地は三年前に相場価格で購入したものであり、以後の地代は毎年ヴァイラント灯明工房より受領している。売買代金の出所については当方の関知するところではないが、支払ったのは当方であり、受け取ったのはヨハン・ヴァイラントである。オルレンス公爵家からの入金は、当方の帳簿に一件も存在しない」
法官は、紙を置いた。
「申立人。反論はございますか」
義母はしばらく黙っていた。それからこう仰った。
「……蜜蝋の代金の出所を問うたのであって、土地の話はしておりません」
「土地を売った代金で蜜蝋を買った、という主張でございます」わたくしは言った。「金貨百四十枚。九十樽の蜜蝋と、灯心草の刈り賃、干し場の借り賃、樽と運び賃。帳面がございます」
法官が帳面を受け取った。工房の表の帳面と、父の薄い帳面の両方だ。薄いほうの最後の頁で、法官の手が止まった。
——あと二年と七月
法官はしばらくそれを見ていた。それから静かに閉じた。
「申し立ては却下します。差し止めも解きます」
義母は立ち上がった。こちらは、見なかった。部屋を出るとき、扉のところで一度だけ足を止めてこう仰った。
「あなた、当家に一本も納めないつもりですね」
「納められません」
「同じことです」
「同じでございますね」
義母は、出ていった。法官が帳面を返してくれた。二冊とも、丁寧に揃えてあった。
「ヴァイラント殿」
「はい」
「差し止めの期間について、こちらから申し上げることはございません。ただ、記録には残ります」
「記録」
「申し立てが却下された場合、その理由が判決に残ります。今回の理由は『代金の出所が明白であり、申立人の主張に根拠がない』です」
法官は、書類を揃えた。
「これは公開されます。組合の帳面にも写しが回ります」
つまり、王都の灯り師四十人が、この判決を読む。誰が誰を、根拠なく止めようとしたかが、紙に残る。
義母は、たぶんそこまで考えておられなかった。あの方は帳面に残るものと残らないものの区別を、灯りのときと同じようにお持ちでない。
廊下で一つだけ思い出した。あの方はあの秋の夜会の晩、裾に煤がつくからと厨房に入ってこなかった。その裾の心配は、これからずっと要らなくなる。
法廷の灯りは、たいてい書類を読むのに向いていません。天井から吊るしてあるので、手元に影が落ちます。誰も文句を言わないのは、灯りは点いていれば良いことになっているからです。
次回、あの人がもう一度、坂を歩いて下りてきます。今度は一人で。




