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離縁いたしますので、公爵家の夜は今夜で終わります  作者: 雫石アイナ


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17/21

第17話 降りるひと

 法廷の三日前、アンネリーゼ様が三度目にいらした。


 今度は馬車ではなかった。辻馬車で坂の下まで来て、そこから歩いてきたそうだ。靴が汚れていた。歩き慣れていない汚れ方だった。


「昨日、ケラーの家へ戻りました」


 令嬢は椅子に座る前にそう言った。


「お戻りに」

「縁談を、お断りいたしました」


 わたくしは湯を出した。令嬢は両手で椀を持ち、しばらく湯気を見ていた。


「昨日の朝、お義母様に申し上げました。『わたくしには、灯りの見立てができません』と」

「見立ては、覚えれば」

「覚えます。教えていただきましたから、等級の読み方も置き方も、もう分かります」


 令嬢は椀を置いた。


「ただ、覚えても、あの家では使えません」

「なぜでございましょう」

「訊かれないからです」


 わたくしは、椀に湯を足す手を止めた。


「わたくしがあの家に入って、灯りの置き方を覚えて、毎晩、窓際を短く、扉口を長くしたとします。二年やったとして、それが帳簿に載りますか」

「載りません」

「三年やっても、載りませんね」

「載りません」

「では、六年やっても」


 わたくしは答えなかった。答えなくても、答えになっていた。


「わたくし、あの家で何ができるのだろうと、先日ここで申しました」令嬢は言った。「答えが出ました。何でもできます。ただ、何をしても、なかったことになります」


 湯気が二人のあいだで細く立っていた。


「お義母様は、なんと」

「『あなたは黙っていなさい』と、また仰いました」

「コンラート様は」

「何も仰いませんでした」


 令嬢は少し笑った。


「引き留められると思っていたのです。少しは。二月ほど通いましたから」

「ございませんでしたか」

「『そうか』と仰って、書類をご覧になりました」


 わたくしにはその場面がはっきり見えた。窓際の椅子だ。膝の上に書類がある。顔を上げずに「そうか」と言う。六年、同じものを見てきた。


「あの方は悪い人ではございません」わたくしは言った。

「はい。存じております」

「ただ、目の前のものを数えないのです」

「数えないというより」令嬢は少し考えた。「数え方をご存じないのだと思います。誰も教えなかったのでしょう」


 そうかもしれない。教えられる者は六年間、あの家の暗い部屋にいた。教えようとしなかったのは、わたくしのほうだ。


「これから、どうなさいますか」


 令嬢は姿勢を正した。


「ケラーの家に、蔵がございます。祖父の代からの目録が入っております。あれを整理しようと思います」

「目録を」

「誰も開けておりません。開けても、何が書いてあるか分からないからです。わたくしは、少しだけ分かるようになりました」


 令嬢は手帳を出し、こちらへ向けた。わたくしが描いた図が、写してある。線は歪んでいたが、丸の横の数字まで写してあった。


「一つだけ、お伝えしたいことがあって参りました」


 令嬢は手帳の別の頁をめくった。そこには見たことのない字が書いてあった。古い書き方の文字だ。


「昨日、蔵の目録の最初の頁だけ読みました。灯りの品目が並んでおりまして、そこに、こう」


 ——白蝋 一等 三十本


「白蝋」


 わたくしはその言葉を口に出した。聞いたことのない語だった。


「等級の一覧に、白蝋という等級はございません」

「ございませんね。わたくしも組合の表を見ました。一から五までで、白蝋という語はどこにも」

「目録の日付は」

「三十二年前です」


 三十二年前。


 わたくしは棚の帳面を思い返した。二十二年ぶんある。父が工房を継いだ年から始まっている。その前は、祖父の帳面だ。祖父の帳面は残っていない。火事で焼けたと聞いている。


「王城にはございますか」令嬢が訊いた。

「分かりません」

「お調べになりますか」

「冬至が終わりましたら」


 令嬢は頷き、立ち上がった。


「本日は、これで」

「お送りいたします」

「坂の下まで歩きます。歩くと、道の灯りがよく見えますので」


 戸口で、令嬢は振り返った。


「ヴァイラント様」

「はい」

「わたくし、あの家に入っていたら、あなたのことを憎んでおりました」


 わたくしは少し驚いた。


「間違いなく憎んでおりました。前の奥様が有能だったせいで自分は何もできないのだと。そう思うほうが楽ですから」

「……はい」

「入らなくて、よかったです」


 令嬢は頭を下げ、坂を下りていった。その背中を見ながら、一つだけ確かめておきたくなった。


「アンネリーゼ様」


 令嬢が振り返った。


「白蝋の目録は、どなたの署名でございましたか」


 少し離れていたので、令嬢は声を張った。


「ケラーの祖父と、もうお一人。レーゲン、と読めました」


 わたくしは道の上に立ったまま、令嬢の背が坂の角へ消えるのを見ていた。レーゲン。王城の燭台方と同じ姓だ。三十二年前の目録に、その名がある。あの方はまだ生まれていないか、生まれて間もない頃だろう。


 その夜、ハンナが酒を出しながら言った。


「あの令嬢、ずいぶん変わったね」

「変わっておられません」わたくしは言った。「最初から、できないことをできないと仰る方でした」


 できないと言える人は、少ない。できると言わなければ立場が無い場所にいると、人は言えなくなる。あの方は、立場のほうを降りた。


 わたくしは六年、できないと言わなかった。訊かれなかったからだ、と思っていた。ただ、訊かれなくても言えたはずだ。「灯りには三年かかります」と、一度でも申し上げていれば、あの人は帳簿に欄を作っただろうか。作らなかっただろうか。

 試さなかったのは、わたくしだ。


「そんな顔をするんじゃないよ」ハンナが酒を注ぎ足した。「言ったって同じさ」

「同じでしたでしょうか」

「同じだね。あの手の家は、言われて分かるくらいなら、最初から訊いてる」


 わたくしは答えなかった。どちらにしても、確かめる機会はもう無い。


「あの家、これで嫁の当てが無くなったね」

「なくなりました」

「困るのは向こうだ」

「困りますね」


 わたくしは少しも嬉しくなかった。嬉しくないことに、自分で少し驚いた。三月前なら、たぶん嬉しかった。


 その晩は遅くまで流した。六十八本のうち、焼き印を押せる状態まで仕上げたのが五十本。残り十八本はまだ層が足りない。七度流して七度冷ます。三日あれば間に合う。


 トビアスが層を数え、ハンナが冷ましの刻を計った。わたくしは芯を吊った。誰も冬至の話をしなかった。話しても数は増えない。


 夜半を過ぎたころ、レーゲン様の使いが来た。書付が一枚。


 ——調度方、確定を三日繰り上げる旨。冬至十三日前。


 若い男で、息が上がっていた。王城から走り通してきたらしい。


「今から戻られますか」

「戻ります。今夜のうちに、というお言いつけでしたので」

「今夜のうちに」

「明日の朝では遅い、と」


 朝まで待てば、この一枚は明日の紙になる。今夜のうちに知っていれば、今夜のうちに数え直せる。それだけのことだ。

 それだけのことに、あの方は人ひとりの夜を使った。


 三日。法廷は四日前だ。繰り上がった締切は、法廷の一日前になる。わたくしは書付を作業台に置いた。


「勝っても、間に合わないね」ハンナが言った。

「間に合いません」

「向こうも、それを知って動いてるのかい」

「調度方は知りません。宮中の都合でしょう」


 誰かが意地悪をしたわけではない。三年の壁も、四日の差も、誰の悪意でもない。ただ、そうなっている。だから動かない。

 「できません」と言える人は、思っているより少ないものです。言えなくなるのは能力のせいではなく、言えない場所にいるせいです。場所のほうを降りるという手は、たいてい最後まで思いつきません。

 次回、法廷です。その前に、王城から知らせが来ます。

 ブックマークをいただけますと、三十二年前の目録がもう一頁めくれます。

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