第17話 降りるひと
法廷の三日前、アンネリーゼ様が三度目にいらした。
今度は馬車ではなかった。辻馬車で坂の下まで来て、そこから歩いてきたそうだ。靴が汚れていた。歩き慣れていない汚れ方だった。
「昨日、ケラーの家へ戻りました」
令嬢は椅子に座る前にそう言った。
「お戻りに」
「縁談を、お断りいたしました」
わたくしは湯を出した。令嬢は両手で椀を持ち、しばらく湯気を見ていた。
「昨日の朝、お義母様に申し上げました。『わたくしには、灯りの見立てができません』と」
「見立ては、覚えれば」
「覚えます。教えていただきましたから、等級の読み方も置き方も、もう分かります」
令嬢は椀を置いた。
「ただ、覚えても、あの家では使えません」
「なぜでございましょう」
「訊かれないからです」
わたくしは、椀に湯を足す手を止めた。
「わたくしがあの家に入って、灯りの置き方を覚えて、毎晩、窓際を短く、扉口を長くしたとします。二年やったとして、それが帳簿に載りますか」
「載りません」
「三年やっても、載りませんね」
「載りません」
「では、六年やっても」
わたくしは答えなかった。答えなくても、答えになっていた。
「わたくし、あの家で何ができるのだろうと、先日ここで申しました」令嬢は言った。「答えが出ました。何でもできます。ただ、何をしても、なかったことになります」
湯気が二人のあいだで細く立っていた。
「お義母様は、なんと」
「『あなたは黙っていなさい』と、また仰いました」
「コンラート様は」
「何も仰いませんでした」
令嬢は少し笑った。
「引き留められると思っていたのです。少しは。二月ほど通いましたから」
「ございませんでしたか」
「『そうか』と仰って、書類をご覧になりました」
わたくしにはその場面がはっきり見えた。窓際の椅子だ。膝の上に書類がある。顔を上げずに「そうか」と言う。六年、同じものを見てきた。
「あの方は悪い人ではございません」わたくしは言った。
「はい。存じております」
「ただ、目の前のものを数えないのです」
「数えないというより」令嬢は少し考えた。「数え方をご存じないのだと思います。誰も教えなかったのでしょう」
そうかもしれない。教えられる者は六年間、あの家の暗い部屋にいた。教えようとしなかったのは、わたくしのほうだ。
「これから、どうなさいますか」
令嬢は姿勢を正した。
「ケラーの家に、蔵がございます。祖父の代からの目録が入っております。あれを整理しようと思います」
「目録を」
「誰も開けておりません。開けても、何が書いてあるか分からないからです。わたくしは、少しだけ分かるようになりました」
令嬢は手帳を出し、こちらへ向けた。わたくしが描いた図が、写してある。線は歪んでいたが、丸の横の数字まで写してあった。
「一つだけ、お伝えしたいことがあって参りました」
令嬢は手帳の別の頁をめくった。そこには見たことのない字が書いてあった。古い書き方の文字だ。
「昨日、蔵の目録の最初の頁だけ読みました。灯りの品目が並んでおりまして、そこに、こう」
——白蝋 一等 三十本
「白蝋」
わたくしはその言葉を口に出した。聞いたことのない語だった。
「等級の一覧に、白蝋という等級はございません」
「ございませんね。わたくしも組合の表を見ました。一から五までで、白蝋という語はどこにも」
「目録の日付は」
「三十二年前です」
三十二年前。
わたくしは棚の帳面を思い返した。二十二年ぶんある。父が工房を継いだ年から始まっている。その前は、祖父の帳面だ。祖父の帳面は残っていない。火事で焼けたと聞いている。
「王城にはございますか」令嬢が訊いた。
「分かりません」
「お調べになりますか」
「冬至が終わりましたら」
令嬢は頷き、立ち上がった。
「本日は、これで」
「お送りいたします」
「坂の下まで歩きます。歩くと、道の灯りがよく見えますので」
戸口で、令嬢は振り返った。
「ヴァイラント様」
「はい」
「わたくし、あの家に入っていたら、あなたのことを憎んでおりました」
わたくしは少し驚いた。
「間違いなく憎んでおりました。前の奥様が有能だったせいで自分は何もできないのだと。そう思うほうが楽ですから」
「……はい」
「入らなくて、よかったです」
令嬢は頭を下げ、坂を下りていった。その背中を見ながら、一つだけ確かめておきたくなった。
「アンネリーゼ様」
令嬢が振り返った。
「白蝋の目録は、どなたの署名でございましたか」
少し離れていたので、令嬢は声を張った。
「ケラーの祖父と、もうお一人。レーゲン、と読めました」
わたくしは道の上に立ったまま、令嬢の背が坂の角へ消えるのを見ていた。レーゲン。王城の燭台方と同じ姓だ。三十二年前の目録に、その名がある。あの方はまだ生まれていないか、生まれて間もない頃だろう。
その夜、ハンナが酒を出しながら言った。
「あの令嬢、ずいぶん変わったね」
「変わっておられません」わたくしは言った。「最初から、できないことをできないと仰る方でした」
できないと言える人は、少ない。できると言わなければ立場が無い場所にいると、人は言えなくなる。あの方は、立場のほうを降りた。
わたくしは六年、できないと言わなかった。訊かれなかったからだ、と思っていた。ただ、訊かれなくても言えたはずだ。「灯りには三年かかります」と、一度でも申し上げていれば、あの人は帳簿に欄を作っただろうか。作らなかっただろうか。
試さなかったのは、わたくしだ。
「そんな顔をするんじゃないよ」ハンナが酒を注ぎ足した。「言ったって同じさ」
「同じでしたでしょうか」
「同じだね。あの手の家は、言われて分かるくらいなら、最初から訊いてる」
わたくしは答えなかった。どちらにしても、確かめる機会はもう無い。
「あの家、これで嫁の当てが無くなったね」
「なくなりました」
「困るのは向こうだ」
「困りますね」
わたくしは少しも嬉しくなかった。嬉しくないことに、自分で少し驚いた。三月前なら、たぶん嬉しかった。
その晩は遅くまで流した。六十八本のうち、焼き印を押せる状態まで仕上げたのが五十本。残り十八本はまだ層が足りない。七度流して七度冷ます。三日あれば間に合う。
トビアスが層を数え、ハンナが冷ましの刻を計った。わたくしは芯を吊った。誰も冬至の話をしなかった。話しても数は増えない。
夜半を過ぎたころ、レーゲン様の使いが来た。書付が一枚。
——調度方、確定を三日繰り上げる旨。冬至十三日前。
若い男で、息が上がっていた。王城から走り通してきたらしい。
「今から戻られますか」
「戻ります。今夜のうちに、というお言いつけでしたので」
「今夜のうちに」
「明日の朝では遅い、と」
朝まで待てば、この一枚は明日の紙になる。今夜のうちに知っていれば、今夜のうちに数え直せる。それだけのことだ。
それだけのことに、あの方は人ひとりの夜を使った。
三日。法廷は四日前だ。繰り上がった締切は、法廷の一日前になる。わたくしは書付を作業台に置いた。
「勝っても、間に合わないね」ハンナが言った。
「間に合いません」
「向こうも、それを知って動いてるのかい」
「調度方は知りません。宮中の都合でしょう」
誰かが意地悪をしたわけではない。三年の壁も、四日の差も、誰の悪意でもない。ただ、そうなっている。だから動かない。
「できません」と言える人は、思っているより少ないものです。言えなくなるのは能力のせいではなく、言えない場所にいるせいです。場所のほうを降りるという手は、たいてい最後まで思いつきません。
次回、法廷です。その前に、王城から知らせが来ます。
ブックマークをいただけますと、三十二年前の目録がもう一頁めくれます。




