第16話 あと二年と七月
木箱の蓋は、釘で打っていなかった。
紐で、結んであるだけだった。三月のあいだ、わたくしはそれを解けなかった。解こうと思えば、いつでも解けたのに。
解いた。
中には帳面が一冊と、折りたたんだ紙が一枚。蝋燭は一本も入っていない。
帳面は薄かった。工房の帳面より小さくて、表に何も書いていない。開くと、最初の頁に日付があった。三年前の、九月。
——北の谷、九十樽。到着。色よし。匂い浅し。蕎麦混じり。
——寝かせ始め。
その下に、数字が一つ。
——三十六
次の頁も日付だった。十月。
——樽七番、上に白い粉。拭う。
——三十五
わたくしは頁をめくった。十一月。三十四。十二月。三十三。毎月、一行か二行。蝋の様子と、その下に、数字。
数字は、毎月一つずつ減っていた。
ハンナが後ろから覗き込んだ。
「何を数えてるんだい」
「月です」
「月」
「三十六月。三年でございます」
三年寝かせるまでの、残りの、月数だ。父は、毎月それを一つずつ減らしていた。
わたくしは頁をめくり続けた。
一月。二月。三月。字が、少しずつ変わっていく。最初のうちは、工房の帳面と同じ、几帳面な字だ。春を過ぎたあたりから、線が震えはじめる。夏になると、二行が一行になる。
——樽三番、よし。
——二十九
秋。
——粉、無し。
——二十六
冬。字が大きくなっている。手元が見えなくなっていたのだ。
——よし
——二十三
その先は、数字だけの頁が続いた。蝋の様子を書く余裕が、無くなったのだろう。数字だけが、月に一つずつ減っていく。
二十二。二十一。二十。
最後の頁で、手が止まった。
字は、もう字の形をしていなかった。線が二本と、丸が一つ。それでも、読めた。それだけは、読めた。
——あと二年と七月
わたくしは、しばらくその頁を見ていた。
二年と七か月。父は、その二年七か月を、見られないと知っていた。医者が三月と言ったのを、わたくしも聞いている。父も聞いている。知っていて、それでも、数えていた。
自分がいないところで、その蝋が使えるようになる日まで、あと何月あるかを。
ハンナが何も言わなかった。トビアスが灯りを持ったまま動かなかった。わたくしは帳面を閉じて、それから、もう一度開いた。開いて、最後の頁をもう一度見た。
——あと二年と七月
いま、三年と三月が経っている。
「間に合ったよ」ハンナが言った。
わたくしは頷いた。頷いたが、しばらく声が出なかった。
父は、わたくしが戻るとは思っていなかったはずだ。三年前、わたくしは公爵夫人で、離縁など考えてもいなかった。父もそれを知っていた。
では、誰のために数えていたのか。
たぶん、誰のためでもない。
三年寝かせなければ良い灯りにならない。だから寝かせる。使う者がいるかどうかは、そのあとの話だ。父はそういう順番でものを考える人だった。
寝かせておけば、いつか誰かが使える。使う者が要るときに、無かったら間に合わない。
わたくしは、その「誰か」だった。なるつもりが無かったのに、なっていた。
折りたたんだ紙のほうは、証書だった。
土地の売買証書の写しだ。三年前の、九月の日付。売主、ヨハン・ヴァイラント。工房の敷地、三百坪。
わたくしは金額の欄を見た。金貨で百四十枚。九十樽の蜜蝋と、灯心草の刈り賃と、干し場の借り賃と、樽と、運び賃。全部合わせて、それくらいになる。
父は、この工房の土地を、売っていた。
工房の建物は、そのまま建っている。ということは、いま我々は借りている。地代の記録は工房の帳面に——あった。年に金貨二枚。「地代」とだけ書いてあった行を、わたくしは何度も見ていた。見ていて、誰への地代かを確かめなかった。
買主の欄に、名前があった。
フーゴ・シュタイン。
わたくしは証書を灯りに近づけた。判は本物だ。日付も、金額も、証人の署名も揃っている。値は、相場より高くも安くもない。同情でも、搾取でもない。ただの取引だ。
「あの男が」ハンナが低く言った。「知ってて黙ってたのかい」
「黙ってはおられません。中庭で仰いました」
「なんて」
「『不作の年にあそこまで人をやった同業は、王都で一人だけだ』と」
あれは、知っているという意味だった。買った本人なのだから、知らないはずがない。それでも、あの方は保証の判を押した。押したあとで、こう仰った。私はあんたの蔵が邪魔だ、それは変わらん、と。
邪魔だと言いながら、三年前に土地の代金を払っていた。払ったから蝋が買えた。買った蝋が、いま、あの方の卸を減らしている。
「趣味が悪いね」
「商売だと仰るでしょうね」
わたくしは証書をたたみ直した。
この一枚があれば、三年前の代金の出所は説明がつく。持参金ではない。工房の土地だ。売主は父で、買主は組合長で、証人は法官の書記が二人。
持参金の還流という話は、これで消える。
「勝つね」ハンナが言った。
「勝ちます。ただ、判が下りるのは四日後です」
「四日後から冬至の締切まで、六日」
「六日でございます」
六十八本。あと五十二本。勝っても、足りない。
◇
コンラート・ドゥ・オルレンスが支度部屋の扉を開けたのは、その夜のことだった。
二階の廊下の突き当たり、階段の裏。六年間、そこに部屋があることは知っていた。入ったことは一度もなかった。入る用が無かったからだ。
中は、思っていたよりも、狭かった。
窓が一つ。作業台が一つ。壁に棚が三段あって、そこに道具が並んでいる。鋏が四種類と、長さの違う定規。麻の束が、乾き具合ごとに吊るしてある。
彼はその一つを手に取って、指で撚りを確かめた。何を確かめているのか自分でも分からなかった。撚りが強いのか弱いのか、比べる相手を知らない。
作業台の上に、綴じた紙の束があった。
開くと、日付が並んでいた。毎日、欠かさず、六年ぶん。一日ぶんの記載は短い。
——十四日。晩餐、八時より十一時。窓際三本、短。扉口二本、長。中央七本、平打ち。
図が添えてある。長い卓と、窓と、扉。燭台の位置に丸が打ってあって、丸の横に数字が書いてある。どの丸にも、違う数字が入っていた。
彼は頁をめくった。次の日も、その次も、同じ形式で、続いている。数字は毎日違う。風の日は違う。人数が多い日は違う。
二千二百日ぶん。
彼は最後の頁を開いた。三月前の日付だ。離縁の日。
——十二本、切り終わり。
その下に、もう一行あった。
——書斎、一本。等級外。
彼は、その行を読んだ。それから、もう一度読んだ。
等級外というのは、売り物にならないという意味だ。それは知っている。等級のない蝋燭は夜会に出せないと、この三月で嫌というほど聞いた。
書斎の蝋燭は、備えの箱から出していた。備えの箱には焼き印がある。
なぜ、別に一本あるのか。
彼は綴じた紙を持ったまま、しばらく立っていた。窓の外は暗い。この部屋の窓は北を向いていて、屋敷でいちばん暗い側にある。夜の支度をする部屋なのだから、それでいいのだろう。
彼は、この部屋に灯りが灯っているところを、一度も見たことがなかった。
六年間、毎晩ここに人がいた。その人は、この暗い部屋で、他の部屋を明るくするための計算をしていた。
三十六から一つずつ減っていく数字が、三年ぶん並んでいました。書いた人は、それが零になる日にいないと知っていました。それでも毎月、一つ減らしていました。
次回、後妻候補の令嬢が、ご自分で降ります。
ブックマークをいただけますと、あと一月ぶん、数字が減ります。




