第15話 五度、高うございます
差し止めの申し立てには、書き落としがあった。
気づいたのはハンナだ。二日目の朝に註文の帳面をめくっていて、手を止めた。
「三百本」
「はい」
「あんた、これ作れないよ」
「作れません。蔵が動かせませんので」
「じゃあ誰が困るんだい」
わたくしは帳面を見た。
オルレンス家、三百本。発注書は正式なものだ。判が押してある。納期は一月以内。その蔵を、オルレンス家自身が止めた。
「向こうは、自分の註文を止めたんだね」
「そうなります」
「気づいてるのかい」
「気づいておられないと思います」
義母の狙いは、王城への納品を止めることだった。冬至までに蔵が動かなければヴァイラントは王城に納められない。それだけを見て申し立てを出された。
同じ蔵から出るはずだった三百本のことは別の紙に書いてある。別の紙のことは、別の日に考える。この家はいつもそうだ。
わたくしは組合の書記に、書面を一通出した。
——差し止め期間中、オルレンス家御発注の三百本は納品不能。納期の延長を求む。
返事は来なかった。
公爵家が北の丘の蜂場に人をやったのは、その四日後だ。
話はまた洗い場から回ってきた。三十群の巣を全部潰して蝋を搾らせたそうだ。冬に入る前の巣を潰すと春に戻らない。三十群を一度に潰すのは、来年の蜜を捨てるのと同じだ。
「急いでるね」ハンナが言った。
「急いでおられます」
「搾りたてで作らせる気だ」
「作れます。蝋燭にはなります」
なる。ただ、燃やすと分かる。
わたくしはその四日を、註文の蝋燭を作って過ごした。宿屋。桶屋。仕立屋。油屋。工房の前の道に、夕方になると人が並ぶようになっていた。等級の要らない客だ。差し止めは蔵にかかっている。既に流してある蝋には、かかっていない。
ハンナが数を数えて、渋い顔をした。
「流してある分は、あと十日で尽きる」
「尽きますね」
「そのあとは、蔵が開くまで何も作れない」
「はい」
町の客は待ってくれる。宿屋のザイデルは「一月でも二月でも待つ」と言った。待てないのは、冬至だけだ。
アンネリーゼ様が工房へいらしたのは、その八日後の朝だった。前と同じ馬車で、前と同じように一人で来た。今度は手土産を持っていない。かわりに、包みを一つ持っていた。
「これを、見ていただきたくて」
包みの中には、蝋燭が三本入っていた。太い。色が濃い。持っただけで分かった。柔らかすぎる。
「昨夜の夜会で使ったものです」
「お作りになったのは」
「屋敷の者です。南門から職人を二人、日雇いで」
わたくしは一本を手に取り、指で押した。跡がついた。
「昨夜、どうなりましたか」
「二刻もちませんでした。それから、煙が」
「白い煙でしたか。黒でしたか」
「……白でした。甘い匂いの」
わたくしは鋏を出し、一本を横に切った。断面を、アンネリーゼ様に見せた。
「ここをご覧ください」
断面には細かい穴が散っていた。真ん中に大きな空洞が一つある。
「空気でございます」
「空気」
「蝋を流すときの温度が高すぎますと、冷えるあいだに中の水気が抜けて、こうなります」
「水気」
「搾ったばかりの蜜蝋には、水気が残っております。三年寝かせるのは、それを抜くためです」
令嬢は断面に顔を近づけていた。手帳を出し、絵を描き始めた。
「では、寝かせずに作ると、必ずこうなるのですか」
「必ずではございません。温度を下げれば、少しは減ります」
「では、下げれば」
「下げると、今度は固まりません」
わたくしは切った断面を指した。
「水気の多い蝋は、冷めるのが遅いのです。ゆっくり冷ますと形が崩れます。速く冷ますと空洞ができます。どちらも駄目でございますので、職人は温度を上げて、速く流します。上げれば必ず空洞ができます」
「どうすればよいのですか」
「どうにもなりません。三年前に寝かせておく以外に」
令嬢は、鉛筆を止めた。
わたくしは三本目を作業台に立て、火を点けた。
炎が上がる。上がりきらずに横へ流れた。ぱち、と鳴った。二度、三度。白い煙が上がり、天井のほうへ捻れていった。
「五度、高うございます」わたくしは言った。
「五度」
「流したときの温度が、五度ほど高うございました」
「見て、分かるのですか」
「炎で分かります」
トビアスが陰から出てきて、炎の高さに耳を寄せた。それから鋏を一回鳴らした。
まだ、という意味だ。この蝋燭は、あと二年半、まだだ。
令嬢はしばらく炎を見ていた。それから静かに言った。
「金貨百二十枚を、当家は惜しみました」
「はい」
「三十群の巣を潰して、日雇いを二人雇って、出てきたのがこれなのですね」
「はい」
「三年は、買えないのですね」
わたくしは火を消した。
「買えません」
令嬢は手帳を閉じた。閉じてから、膝の上でしばらく指を組んでいた。
「わたくし、この話をお義母様に申し上げました」
「なんと仰いましたか」
「『では、三年寝かせた蝋を持っている工房から買えばよい』と」
わたくしは笑わなかった。笑うところではない。
「そのとおりでございますね」
「はい。そのとおりです。ただ、その工房が、いま差し止められております」
令嬢は顔を上げた。
「申し立てをなさったのは、お義母様です」
「存じております」
「ご自分で止めた工房から買おうとしておいでです。わたくしはそれを申し上げました」
「なんと」
「『あなたは黙っていなさい』と」
令嬢は、そこで初めて少しだけ笑った。困った笑い方だった。
「わたくし、あの家で、まだ一度も役に立っておりません」
その日の午後、レーゲン様が工房へ来た。
「差し止めの話は、聞きました」
「ご迷惑をおかけいたします」
「迷惑ではありません。ただ、日を申し上げに来ました」
レーゲン様は帽子を取らず、戸口に立ったまま言った。
「王城の調度方は、冬至の十日前に灯りを確定させます。それまでに百二十本が入らなければ、別の工房で組みます」
「十日前」
「差し止めの法廷は、その六日前です」
六日。勝てば、四日で百二十本。一等の蝋燭は七度流して七度冷ます。四日では、六十本が限度だ。
「間に合いません」
「間に合いませんね」レーゲン様は頷いた。「ですから、今日から作ってください」
「蔵が動かせません」
「蔵は動かせません。ですが、蔵の外にあるものは動かせます」
わたくしは顔を上げた。
「差し止めの対象は届出のある蜜蝋です」レーゲン様は言った。「既に蝋燭になったものは、届出の対象外です」
レーゲン様は敷居の内側へ一歩入りかけて、そこで止まった。それから、戸口へ戻った。
「わたしは、何も申し上げておりません」
「伺っておりません」
「結構です」
戸が閉まった。蔵を見に来たときは、あの方は下まで下りてこられた。今日は敷居も跨がない。跨げばそれは、王城が差し止めの最中の工房に肩入れしたことになる。ご自分で仰ったとおりだ。
仰ったとおりのことを、この方はその日のうちに言いに来た。使いではなく、ご自分で。
工房には作りかけの蝋燭がある。註文用に流して、まだ焼き印を押していないものだ。数えたことがなかった。
「ハンナ」
「数えるよ」
その晩、三人で数えた。棚の奥、乾かし場の梁、型枠のあいだ。註文用に流したまま、註文が来なかったもの。試しに作って置いたもの。焼き印を押していないから、まだどこにも属していないもの。
一等になるのは、六十八本だった。
「五十二本、足りない」ハンナが言った。
「足りません」
「六日で、どうにかなるかい」
「なりません」
わたくしは六十八本を数え直した。数は変わらなかった。足りないものを何度数えても、足りない。それでも数え直すのは、数え間違いであってほしいからだ。
搾ったばかりの蜜蝋には水気が残っています。だから流すときに温度を上げないと固まらず、上げれば中に空洞ができます。どちらを選んでも失敗するので、職人は失敗しない側を選べません。「腕の問題ではない」という失敗が、世の中にはあります。
次回、木箱を開けます。三月、開けずにおいたものです。
ブックマークをいただけますと、数える手がひとつ増えます。




