第14話 帳面に無い支払い
組合への回答は、その日のうちに書いた。
——蔵の蜜蝋はすべてヴァイラント灯明工房の所有。届出は三年前の秋より当工房名義。
書記は写しを取って帰った。それで済むと思っていた。
済まなかった。
三日後に来たのは、法官の使いだった。封蝋のついた書状で、中身は申し立ての写しだ。申立人はベアトリクス・ドゥ・オルレンス。
ハンナが読んで、途中で声を出した。
「持参金だって」
「持参金でございますか」
「読みな」
わたくしは受け取って、目を通した。
——三年前の秋、ヴァイラント灯明工房が北の谷より購入したる蜜蝋につき、その代金の出所を明らかにされたし。当家より嫁したる者の持参金の一部が、実家へ還流したる疑いあり。事実であれば、当該蜜蝋の所有は当家に帰する。
わたくしは書状を膝に置いた。
「還流」
「言い方だね」ハンナが言った。「要は、あんたが実家に金を回したって話だ」
「回しておりません」
「そりゃそうだろうさ。あんたが回せる金なんか無かったんだから」
その通りだった。公爵夫人には、屋敷の中で使う金はある。ただ、それは家令を通す。家令の帳面に載る。載らない金は、動かせない。
「証明すればいいんだよ」ハンナが言った。「三年前の支払いが、工房の金から出てたってね」
「はい」
「帳面を出しな」
工房の表の帳面は、蔵の上の棚にある。二十二年ぶんが並んでいて、背に年が書いてある。わたくしは三年前の一冊を抜いた。
秋の頁を開いた。
北の谷。蜜蝋。数量、九十樽。
書いてある。買ったことは書いてある。
わたくしは指で行をなぞった。数量の右に、支払いの欄がある。空白だった。
「……ハンナ」
「なんだい」
「支払いが、書いてありません」
ハンナが覗き込んだ。それから、頁をめくった。次の頁も、その次も。三年前の秋、工房は九十樽の蜜蝋を受け取っている。受け取った記録はある。代金を払った記録が、どこにも無い。
「未払いってことかい」
「未払いでしたら、催促が来ております。三年、来ておりません」
「じゃあ払ってる」
「払っております。ただ、この帳面から出ておりません」
わたくしは前後の頁を見た。同じ秋、工房は他に何も買っていない。註文も断っている。職人も減らしている。売り上げは前の年の四分の一だ。
その状態で、王都でいちばん高い蝋を九十樽。
金が、どこかから来ている。
その日の午後、わたくしは組合会館へ行った。シュタイン様は在室で、今度はすぐに通してくれた。
「差し止めが来たそうだな」
「もうご存じですか」
「法官の書記が朝いちばんに照会に来た。三年前の届出の写しを持っていった」
シュタイン様は椅子の背にもたれた。
「言っておくが、私は口を出さん」
「存じております」
「組合は所有の争いには入らんのだ。入れば必ずどちらかの味方になる。それをやると二十年前に戻る」
「はい」
「ただし」
シュタイン様は帳面を指で叩いた。
「三年前の届出は、ヴァイラント灯明工房の名で出ている。誰が金を出したかは書いていない。届出に必要が無いからだ。あちらはそこを突いてきている」
「証明できなければ、負けますか」
「負けはせん。証拠が無いのは向こうも同じだ」シュタイン様は顔を上げた。「ただ、判が下りるまで蔵は動かん。冬至には間に合わんな」
それが目的なのだ。勝つ必要は無い。止めればいい。
その夜、わたくしは棚の帳面を全部下ろした。二十二冊。一冊ずつ、支払いの欄だけを追った。ハンナが灯りを持ち、トビアスが読み終わった冊を積み上げた。
三年前の秋より前は、きれいに揃っていた。仕入れの日付と、支払いの日付が対になっている。父は几帳面な人だった。
三年前の秋から、対が崩れる。仕入れだけが書かれて、支払いの欄が空く。それが五回。九十樽の蜜蝋、灯心草の刈り賃、干し場の借り賃、樽の代金、運び賃。
全部、あの蔵に関わるものだ。
「誰かが払ってるね」ハンナが言った。
「はい」
「心当たりは」
「ございません」
父に貸す人がいるとは思えなかった。工房は畳む前提だった。畳む工房に金を貸す者はいない。
考えられるのは三つだ。一つ、父の私財。ただし父は工房と家の財布を分けていなかった。分けていれば、この帳面に「私」の欄がある。無い。
二つ、誰かの立て替え。だとすれば三年のあいだに一度は取り立てが来る。来ていない。三つ、誰かが払って、返せと言っていない。
三つ目が本当なら、それは貸したのではない。出したのだ。
わたくしは灯りを近づけて、九十樽の行をもう一度見た。数量の欄の字が、少しだけ震えている。前後の行より弱い。この頃の父は、もう手に力が入らなかった。
その手で、九十樽と書いた。
「親方は、あんたが戻ることを知ってたのかね」ハンナが言った。
「知るはずがございません。三年前、わたくしは離縁など考えておりませんでした」
「考えてなかったのかい」
「考えておりませんでした」
本当だ。あの頃は、まだ支度部屋の仕事に意味があると思っていた。六年のうちの、前の三年は、そう思っていた。
夜半を過ぎて、わたくしは最後の一冊を閉じた。残っているものは、もう一つしかない。
作業台の端の、木箱だ。
三月前、坂の上から持って下りて、そのまま置いてある。埃が薄くかぶっている。わたくしは箱の前に立った。
「開けないのかい」ハンナが訊いた。
わたくしは手を伸ばして、止めた。
父が「持っていけ」と言ったとき、あの人はもう字が書けなかった。言葉も切れ切れだった。持っていけ、とだけ言って、それきり眠った。
三日後に死んだ。
中身を見れば、父が最後に何を考えていたかが分かる。分かってしまえば、もう分からない状態には戻れない。
三月のあいだ、わたくしはその状態を、少しだけ大事にしていたのだと思う。開けなければ、父はまだ何か言おうとしている途中でいてくれる。
「明日にします」わたくしは言った。
「三月、明日にしてきたね」
「はい」
ハンナは何も言わずに灯りを消した。
翌朝、法官からの二度目の書状が来た。今度は日取りが入っていた。十日後、王都の商事法廷。所有権の確認と、それに伴う仮の差し止め。
わたくしは書状を持って、しばらく戸口に立っていた。
申し立ての中身は、たぶん通らない。持参金の還流という話には証拠がいる。証拠は向こうにも無い。無いから「明らかにされたし」と書いてある。
通らないと分かっていて出す申し立てには、別の目的がある。
書状の下のほうに、それが書いてあった。
仮の差し止め。つまり、判が下りるまで、蔵の蝋を動かすなということだ。
動かせなければ、蝋燭は作れない。作れなければ、オルレンス家の三百本も、王城の百二十本も、どちらも納められない。
「十日だね」ハンナが言った。
「十日でございます」
「木箱は」
わたくしは作業台のほうを見た。
トビアスが、その前に立っていた。少年は箱に手を触れずに、耳を近づけている。中で何かが鳴るはずはない。紙しか入っていないはずだ。
それでも、あの子は聞いていた。
こちらを見て、鋏を二回、鳴らした。
几帳面な帳面は、崩れた場所がよく目立ちます。仕入れと支払いが対になっている二十二年ぶんの中で、対が崩れているのは五行だけでした。隠すつもりなら、もっと上手に隠せた人です。隠すつもりが無かったのだと思います。
次回、公爵家が自前で蝋燭を作らせます。搾りたての蝋で。




