第12話 商談の間
通されたのは、商談の間だった。
六年住んだ屋敷で、わたくしがその部屋に入るのは初めてだった。玄関を入って右手。廊下のいちばん手前だ。出入りの商人と話をするための部屋だ。奥へは通さない。
わたくしは椅子に腰かけ、膝の上に帳面を置いた。工房の見積の帳面だ。ベアトリクス様が入っていらしたのは、それから四半刻後だった。その後ろからコンラートが入ってきた。
わたくしは立ち上がり、頭を下げた。
「ヴァイラント灯明工房でございます」
その言い方をすると決めていた。名前で名乗れば話が家の話になる。工房で名乗れば灯りの話になる。
「おかけなさい」
義母は正面に座った。コンラートは窓際の椅子に座り、脇の卓の書類を手に取った。こちらを見なかった。
「単刀直入に申します」義母は言った。「あなたの蔵にある蝋燭を、当家がすべて買い取ります」
すべて。
「値は言い値で結構です。組合の相場の二倍まで出します」
「お待ちください」
「三倍でも構いません。当家は困っておりません。ただ、面倒なだけです」
義母は面倒という言葉を値切るときと同じ顔で使った。
「二十二年前の契約は、生きております」わたくしは言った。
「存じております。調べました」
「では、ご存じのとおり、当家は——工房は、オルレンス家の求めに応じて灯明を納める義務がございます」
「そうですね」
「断りません」
「結構です」
義母は満足そうに頷いた。
「では、全部です」
わたくしは膝の上の帳面を開いた。
「蔵の中身を申し上げます。三年寝かせた蜜蝋が九段。うち一等が打てるのは三段でございます。この三段から作れる一等の蝋燭は、およそ四百本」
「四百」
「残りの六段は二等と三等になります。二等がおよそ六百本、三等がおよそ千百本」
「合わせて二千百本ですね。全部いただきます」
「お待ちください」
わたくしは帳面をもう一枚めくった。
「オルレンス家の年間のご入用は、およそ千四百本でございます。六年ぶんわたくしが作っておりましたので数は控えてございます」
「それが何か」
「二千百本は、一年半ぶんでございます。一年半で使い切れば、その先が空きます」
義母は少しも動じなかった。
「その先も、あなたが作るのでしょう」
「作れません」
「なぜ」
わたくしはそこで一度コンラートのほうを見た。書類を見ていた。頁をめくる音がした。
「蔵が空になるからでございます」わたくしは義母に向き直った。「今から搾って寝かせる蝋が使えるようになるのは、三年後です。二千百本を一年半で使い切ると、そのあと一年半、こちらから納められるものが何もございません」
「では、その一年半のあいだに、また買えばよいでしょう」
「どこからでございますか」
「王都に灯り師は四十人おります」
「おります。ただ、その四十人は、オルレンス家に卸せません」
義母の眉が、初めて動いた。
「専属の契約が生きているあいだ、他の登録灯り師は当家に手を出せません。組合の決まりでございます」
「では、解約なさい」
「解約には、双方の署名が要ります」
わたくしは帳面を閉じた。
「わたくしは、いつでも署名いたします。お求めであれば、本日この場で」
義母は何も言わなかった。
解約すれば、公爵家は他の灯り師から買える。ただし、寝かせた蝋を持っている工房は王都にほとんど無い。三年前の不作の年に北の谷まで人をやったのは、王都で一人だけだったからだ。
解約しなければ、ヴァイラントから買うしかない。買えるのは二千百本まで。そのあと一年半、何も無い。どちらを選んでも三年は縮まらない。
わたくしは、この計算を三日かけてやってきた。紙に書いて、ハンナに読ませて、二度書き直した。書き直すたびに答えは同じだった。公爵家に残された道は二つある。三年待つか、灯りの格を落とすか。
落とすほうは、たぶん選ばれない。落とせば夜会が減る。夜会が減れば人が来ない。人が来ない家は、格が下がる。格が下がった家に嫁ぐ令嬢はいない。
この家は、灯りで回っていた。誰もそれを知らないまま、六年、回っていた。
「……蝋を、いま搾らせればよいでしょう」
義母が言った。
「搾れます。当家の領地には蜂場がございます」
「ございますね。北の丘に三十群」
「では、そこから搾って、あなたのところで蝋燭にすればよろしい」
「できます。ただ、それは煤を出します」
「三年寝かせろと仰るのですね」
「はい」
「その三年を、当家が待たねばならない理由が分かりません」
義母は本当に分かっていなかった。わたくしはどう申し上げようかと少し考えた。
「お義母様。屋根の葺き替えには、乾かした葦をお使いになりますね」
「使います」
「刈ったばかりの葦で葺くと、どうなりますか」
「腐ります」
「同じでございます」
義母はしばらく黙っていた。それからこう仰った。
「屋根は、腐ってから葺き替えればよいのです。灯りは、今夜要るのです」
その通りだと思った。だから答えようがなかった。コンラートが立ち上がったのは、そのときだった。書類を卓に置き、初めてこちらを見た。
「二千百本、買い取る」
彼は言った。
「値は三倍でいい。一年半さきのことは、一年半さきに考える」
「お待ちください」
「何だ」
「一等の四百本は、お売りできません」
部屋の空気が変わった。
「なぜだ」
「王城から、冬至の夜会の打診を受けております。まだ正式ではございませんが、試しの三十本は納めました」
「王城が、こちらより先か」
「先ではございません。契約の順では、こちらが先でございます」
「では、こちらへ売れ」
「売れます」
わたくしは立ち上がり、頭を下げた。
「ただ、そうしますと、王城の冬至の大広間に、届く灯りが立ちません」
コンラートはわたくしを見ていた。六年この人の顔を見てきた。怒っている顔でも退屈している顔でもなかった。初めて見る顔だった。計算をしている顔だった。
「……考える」
彼はそう言って部屋を出ていった。
ベアトリクス様は動かなかった。座ったまま、卓の一点を見ている。この方は「考える」という言葉が嫌いだ。六年見ていて分かった。決めるのが当主の仕事で、考えるのは家令の仕事だと思っておいでなのだ。
「あなた」義母が言った。「わざと、こういう形にしたのですか」
「いいえ」
「三年前から、こうなると分かっていて」
「三年前、わたくしはこちらにおりました。この家の支度部屋で、毎晩十二本の芯を切っておりました」
義母は答えなかった。部屋を出るとき、家令が扉を開けてくれた。玄関まで送るという。出入りの商人には、ふつう家令はつかない。
「奥様。いえ」
「リーゼで結構です」
「厨房のマルタは、まだおります」
わたくしは足を止めた。
「そうですか」
「あの晩のことは、こちらで処理いたしました。灯りの不具合という形で」
「ありがとうございます」
「礼を言われることでは」家令は前を向いたまま言った。「不具合だったのは、本当のことですので」
わたくしは帳面を抱えて廊下を進んだ。玄関へ向かう途中で二階へ上がる階段が見えた。三階の書斎までは、そこからさらに二十七段ある。数えたことがある。灯りを持って上がる段数だから。
振り返らずに外へ出た。
刈ったばかりの葦で屋根を葺くと腐ります。乾かした葦を使うのは知恵ですが、その知恵は「刈ってから葺くまでに一年待つ」という形でしか実行できません。待つ以外の方法が無いものは、たいてい、待つ以外の方法が無いのです。
次回、当家は「全部」と仰いました。断りません。断らないまま、届きません。




