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離縁いたしますので、公爵家の夜は今夜で終わります  作者: 雫石アイナ


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12/15

第12話 商談の間

 通されたのは、商談の間だった。


 六年住んだ屋敷で、わたくしがその部屋に入るのは初めてだった。玄関を入って右手。廊下のいちばん手前だ。出入りの商人と話をするための部屋だ。奥へは通さない。


 わたくしは椅子に腰かけ、膝の上に帳面を置いた。工房の見積の帳面だ。ベアトリクス様が入っていらしたのは、それから四半刻後だった。その後ろからコンラートが入ってきた。


 わたくしは立ち上がり、頭を下げた。


「ヴァイラント灯明工房でございます」


 その言い方をすると決めていた。名前で名乗れば話が家の話になる。工房で名乗れば灯りの話になる。


「おかけなさい」


 義母は正面に座った。コンラートは窓際の椅子に座り、脇の卓の書類を手に取った。こちらを見なかった。


「単刀直入に申します」義母は言った。「あなたの蔵にある蝋燭を、当家がすべて買い取ります」


 すべて。


「値は言い値で結構です。組合の相場の二倍まで出します」

「お待ちください」

「三倍でも構いません。当家は困っておりません。ただ、面倒なだけです」


 義母は面倒という言葉を値切るときと同じ顔で使った。


「二十二年前の契約は、生きております」わたくしは言った。

「存じております。調べました」

「では、ご存じのとおり、当家は——工房は、オルレンス家の求めに応じて灯明を納める義務がございます」

「そうですね」

「断りません」

「結構です」


 義母は満足そうに頷いた。


「では、全部です」


 わたくしは膝の上の帳面を開いた。


「蔵の中身を申し上げます。三年寝かせた蜜蝋が九段。うち一等が打てるのは三段でございます。この三段から作れる一等の蝋燭は、およそ四百本」

「四百」

「残りの六段は二等と三等になります。二等がおよそ六百本、三等がおよそ千百本」

「合わせて二千百本ですね。全部いただきます」

「お待ちください」


 わたくしは帳面をもう一枚めくった。


「オルレンス家の年間のご入用は、およそ千四百本でございます。六年ぶんわたくしが作っておりましたので数は控えてございます」

「それが何か」

「二千百本は、一年半ぶんでございます。一年半で使い切れば、その先が空きます」


 義母は少しも動じなかった。


「その先も、あなたが作るのでしょう」

「作れません」

「なぜ」


 わたくしはそこで一度コンラートのほうを見た。書類を見ていた。頁をめくる音がした。


「蔵が空になるからでございます」わたくしは義母に向き直った。「今から搾って寝かせる蝋が使えるようになるのは、三年後です。二千百本を一年半で使い切ると、そのあと一年半、こちらから納められるものが何もございません」


「では、その一年半のあいだに、また買えばよいでしょう」

「どこからでございますか」

「王都に灯り師は四十人おります」

「おります。ただ、その四十人は、オルレンス家に卸せません」


 義母の眉が、初めて動いた。


「専属の契約が生きているあいだ、他の登録灯り師は当家に手を出せません。組合の決まりでございます」

「では、解約なさい」

「解約には、双方の署名が要ります」


 わたくしは帳面を閉じた。


「わたくしは、いつでも署名いたします。お求めであれば、本日この場で」


 義母は何も言わなかった。


 解約すれば、公爵家は他の灯り師から買える。ただし、寝かせた蝋を持っている工房は王都にほとんど無い。三年前の不作の年に北の谷まで人をやったのは、王都で一人だけだったからだ。

 解約しなければ、ヴァイラントから買うしかない。買えるのは二千百本まで。そのあと一年半、何も無い。どちらを選んでも三年は縮まらない。


 わたくしは、この計算を三日かけてやってきた。紙に書いて、ハンナに読ませて、二度書き直した。書き直すたびに答えは同じだった。公爵家に残された道は二つある。三年待つか、灯りの格を落とすか。

 落とすほうは、たぶん選ばれない。落とせば夜会が減る。夜会が減れば人が来ない。人が来ない家は、格が下がる。格が下がった家に嫁ぐ令嬢はいない。


 この家は、灯りで回っていた。誰もそれを知らないまま、六年、回っていた。


「……蝋を、いま搾らせればよいでしょう」


 義母が言った。


「搾れます。当家の領地には蜂場がございます」

「ございますね。北の丘に三十群」

「では、そこから搾って、あなたのところで蝋燭にすればよろしい」

「できます。ただ、それは煤を出します」

「三年寝かせろと仰るのですね」

「はい」

「その三年を、当家が待たねばならない理由が分かりません」


 義母は本当に分かっていなかった。わたくしはどう申し上げようかと少し考えた。


「お義母様。屋根の葺き替えには、乾かした葦をお使いになりますね」

「使います」

「刈ったばかりの葦で葺くと、どうなりますか」

「腐ります」

「同じでございます」


 義母はしばらく黙っていた。それからこう仰った。


「屋根は、腐ってから葺き替えればよいのです。灯りは、今夜要るのです」


 その通りだと思った。だから答えようがなかった。コンラートが立ち上がったのは、そのときだった。書類を卓に置き、初めてこちらを見た。


「二千百本、買い取る」


 彼は言った。


「値は三倍でいい。一年半さきのことは、一年半さきに考える」

「お待ちください」

「何だ」

「一等の四百本は、お売りできません」


 部屋の空気が変わった。


「なぜだ」

「王城から、冬至の夜会の打診を受けております。まだ正式ではございませんが、試しの三十本は納めました」

「王城が、こちらより先か」

「先ではございません。契約の順では、こちらが先でございます」

「では、こちらへ売れ」

「売れます」


 わたくしは立ち上がり、頭を下げた。


「ただ、そうしますと、王城の冬至の大広間に、届く灯りが立ちません」


 コンラートはわたくしを見ていた。六年この人の顔を見てきた。怒っている顔でも退屈している顔でもなかった。初めて見る顔だった。計算をしている顔だった。


「……考える」


 彼はそう言って部屋を出ていった。


 ベアトリクス様は動かなかった。座ったまま、卓の一点を見ている。この方は「考える」という言葉が嫌いだ。六年見ていて分かった。決めるのが当主の仕事で、考えるのは家令の仕事だと思っておいでなのだ。


「あなた」義母が言った。「わざと、こういう形にしたのですか」

「いいえ」

「三年前から、こうなると分かっていて」

「三年前、わたくしはこちらにおりました。この家の支度部屋で、毎晩十二本の芯を切っておりました」


 義母は答えなかった。部屋を出るとき、家令が扉を開けてくれた。玄関まで送るという。出入りの商人には、ふつう家令はつかない。


「奥様。いえ」

「リーゼで結構です」

「厨房のマルタは、まだおります」


 わたくしは足を止めた。


「そうですか」

「あの晩のことは、こちらで処理いたしました。灯りの不具合という形で」

「ありがとうございます」

「礼を言われることでは」家令は前を向いたまま言った。「不具合だったのは、本当のことですので」


 わたくしは帳面を抱えて廊下を進んだ。玄関へ向かう途中で二階へ上がる階段が見えた。三階の書斎までは、そこからさらに二十七段ある。数えたことがある。灯りを持って上がる段数だから。


 振り返らずに外へ出た。

 刈ったばかりの葦で屋根を葺くと腐ります。乾かした葦を使うのは知恵ですが、その知恵は「刈ってから葺くまでに一年待つ」という形でしか実行できません。待つ以外の方法が無いものは、たいてい、待つ以外の方法が無いのです。

 次回、当家は「全部」と仰いました。断りません。断らないまま、届きません。

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