72章 二つの誤算―――約10万時間前
―――少し休んだ方がいい、ベアト。君まで倒れては大変だ。
愛称で呼び掛けた夫の心配も尤もだ。昏睡状態の息子への付き添いなど無意味だと、自分自身一番よく分かっている。だが、
―――それに君だって傷を負った上、複雑骨折までしているんだ。安静にしていないと化膿してしまう。
ズキッ!ギブスと包帯で二倍の太さになった利き腕が痛みを発した。
―――キイイイィィィッッッ!!!!『キム!!!』
暴力的なスピードのトラックに硬直した息子を庇い、私の右腕はタイヤに轢かれた。裂けた皮膚。飛び散る血肉と骨片。そして無情にも―――頭から道路に叩き付けられた我が子。
三日間で何十回も自動再生された記憶は、未だ擦り切れる事無く鮮明だ。この『眼』のせいだろうか。夫達から説明されるまでも無く現場の全情報を、医師も知らぬ自身の傷の後遺症すらも既に把握し切っていた。一見重傷だが、神経は奇跡的に繋がっている。痕は残るが、すぐに問題無く動かせるようになるだろう。しかし、
―――じゃあ、僕はそろそろ行くよ。これから保険会社の人と会う事になっている。―――ああ、加害者はあれからずっと留置所だ。前科もあるそうだし、すぐに起訴されるだろう。
目の前で昏々と眠る、息子の具合だけはどれだけ目を凝らしても分からなかった。私に似た顔立ちと、夫譲りの常識的な頭脳と性格を持ち合わせた、極普通の少年の安否だけは……。
(安定した呼吸に、眼球や指も頻繁に動いている。何時目覚めてもおかしくはないけれど、何故こうも胸が苦しいの?)
これがクランの言っていた愛着?いや。睡眠すら殆ど摂れないこの状態は、寧ろ執着に近、
「ん……ぅ……」「キム!!?」
瞼がゆっくり開き、エメラルド色の瞳が私を捉える。その瞬間―――懐かしくも恐ろしい感覚に、寝不足の身体から力が、そして不覚にも腰までもが抜けてしまった。




