第9話 託されたバトン
『エルマ。レナート。
先に謝っておく。こんな手紙を、読ませることになってすまない』
私は声に出して、その一行を読んだ。
隣でレナート卿が口を引き結ぶ。
『大げさな備えだったと笑って、この手紙を自分で破れたら一番いい。だから、書くべきか随分迷った。
だが、言わずに済ませてきたことが、あまりに多い』
紙の途中に、インクの滲んだ跡があった。
書いては止まり、また書いたのだろう。
『エルマ。最近の返事が素っ気なかったのは、君に飽きたからではない。
俺を調べる者が君の勤務先にまで来たと知って、会うのを避けた。親しくないと見せれば君を遠ざけられると思った。
今は、それだけで守れるはずがなかったと思う。君には事情を知る権利があったのに、俺が勝手に決めた。すまなかった』
最後の面会延期の手紙を思い出した。
冷たいと感じたことまで、間違いだったと言わなくてよかったのだ。
カイル自身が、そのやり方を悔いていた。
『君と話していると、俺が見過ごしていた物に気づく。
古い花瓶の使い道や、誰かが何度も縫い直した袖のこと。俺は、君の話を聞くのが好きだった。
返事が短いからといって、会えて嬉しくないとは思っていない。俺も、肝心なことはうまく言えなかった』
文字が滲んだ。
私は一度読むのを止め、瞬きをした。
『君を愛している。
もし帰れたら、こんなところに書くより先に、顔を見て言う。そのときは、もう一度君に婚約を申し込みたい。家同士の約束ではなく、君の返事を聞きたい』
喉の奥から、小さな息が漏れた。
愛していたのかと聞かれれば、まだ答えに迷う。
好きだった。会った日は、帰り道が少し明るかった。次はもっと話せると思っていた。
その続きを失ったことが、今は何より悲しかった。
私は読みかけの紙を机へ置いた。
「少しだけ、待ってください」
「ああ」
レナート卿は急かさなかった。
夜明け前の詰所で、私たちはしばらく、何もしないで座っていた。
やがて私は手巾を畳み、紙を持ち直した。
『レナート。お前にも腹を立てられるだろうな。
正式な報告が一度潰れたあと、誰にも頼れないと思い込んだ。中央憲兵隊へ直接行く方法だってあったのに、確かな証拠を揃えてからと考えて、遅れた。
もし俺が戻らなかったら、その判断は真似するな。助けを呼んでくれ』
「遅いんだよ、馬鹿」
レナート卿の声が震えた。
「帰ってきてから、怒らせろよ……」
彼の右手が、顔を覆った。
私はしばらく迷ってから、彼の袖口に指を添えた。
どう慰めればいいか分からない。
それでも、一人で泣かせたくはなかった。
『二人とも、もし調査を引き継いでくれるなら、無理に二人きりで抱えるな。
真実を届けてほしい。でも、それで君たちの一生を使い切らないでほしい。
エルマには、安心して仕事をできる日があってほしい。レナートには、剣を抜かずに笑う日があってほしい。
俺を忘れなくてもいい。俺のために、先へ進めなくなる必要もない』
紙の最後へ目を落とす。
『二人のこれからを、俺の遺言で決めることはできない。
ただ、腹が減ったら食べて、疲れたら眠って、嬉しいことがあったら誰かに話してくれ。
俺の好きな人たちに、そうして生きていてほしい』
読み終わった。
文字の先には、もう何もなかった。
私たちを結びつける約束も、幸せになるための期限も、書かれていない。
カイルはただ、私たちに明日があることを願っていた。
「……私、この手紙を読んで、少しほっとしました」
レナート卿が顔を上げた。
「そう思ったあとで、また悲しくなりました。許してもらいたかったのか、会いたかったのか、自分でもうまく分からなくて」
「両方でも、いいんじゃないか」
目元を拭った彼が言う。
「俺は、怒っているし、寂しい。あいつが俺たちを心配してくれたことは嬉しい。全部ある」
私は頷いた。
どれか一つを選んで、正しい感情として机に並べる必要はなかった。
窓の外が、薄く明るくなる。
朝の交代勤務へ向かう兵の声がした。世界は、私たちが手紙を読んでいる間にも動いていた。
「エルマ」
レナート卿が私の指先を見た。
まだ、彼の袖を掴んでいた。
「この先も、話をしに行っていいか。事件の確認だけでなく」
頬が温かくなった。
さっき握った手の感触が、戻ってくる。
「どんな話を、ですか」
「今日食べたものとか。読みかけの本とか。……思いつくのが、その程度で悪いが」
私は少し笑った。
「それなら、私にもお話しできることがあります」
彼の表情が緩んだ。
まだ恋と呼ぶには、いろいろな気持ちが絡まっている。その名を急いで決めなくても、この人にまた会いたいことだけは、認めてもよかった。
ノックの音がした。
朝食の盆とともに、中央憲兵隊の士官が入ってくる。
「王宮へ至急の報告を上げます。長官は夜明け前に帰庁し、今回の件を違法な武器庫襲撃と報告したようです」
レナート卿が背を伸ばした。
「こちらの報告は」
「法務尚書のもとへ直送します。あなた方にも、原資料の説明をお願いします」
私はカイルの私信を畳んだ。
公的な告発文とは別の袋へ入れる。
「この手紙は、証拠の束には綴じません」
士官は頷いた。
レナート卿も、何も求めなかった。
持ち主にもう断りを取れない手紙だからこそ、公開する範囲を慎重に決めたい。
秘密をすべて暴くことが、私の仕事ではない。
私は朝食のパンを一切れ取った。
レナート卿も、湯呑を持ち上げた。
受け取った願いに応えるために、まずは二人とも、朝食を食べた。




