第8話 最後の封蝋
地上の蓋は、夜露で冷たかった。
肩で押すと、茂みの向こうへ少し開いた。私は這い出し、すぐに腕を伸ばす。
「右手を」
レナート卿が私の手を掴んだ。
全部の体重を支えることはできない。それでも、彼が縁へ肘をかけるまで、私は手を離さなかった。
上がりきった彼と二人で蓋を閉め、外側の保守用掛け金を下ろす。
長くは持たないだろう。
土の下から、誰かが扉を叩く音がしていた。
演習場を見渡すと、南に監視小屋、北に低い林がある。
略図に載っていた事故通報盤は、梯子の出口から数歩先に立っていた。
「ここで警報を鳴らします」
「我々の居場所も分かるぞ」
「憲兵隊にもです。地下に武装兵がいて、負傷者も出ました。救援を求める理由があります」
レナート卿が盤の表示を確認した。
送信先は演習場の警備室と、中央憲兵隊の北方面詰所。別々の回線になっている。
「監察部だけでは止められない。やろう」
彼が職章を当てて発信者を登録し、私が保護蓋を開けて警報柄を引いた。
夜空へ、赤い光が立ち上った。
低い鐘が三度ずつ鳴り、離れた監視小屋でも明かりが点く。
私は添えられた伝声管へ、七号倉庫の場所、武装集団、魔導槍の不正搬出、そして負傷者がいることを告げた。
「発信者はエルマ・ベルリッツ。レナート・アルヴィスト卿と同行しています。合流地点を、北口から事故通報盤へ変更してください」
返答を待つ間、私は彼の左肩に清潔な布を当てた。
浅く見えても、動くたびに血が滲む。
「押さえていてください。もう少しで、手当てを受けられます」
レナート卿は右手で布を押さえた。
「お前の手も、開いている」
右手の包帯に赤い点があった。
夢中で蓋を押したせいだろう。
「では、二人分ですね」
そう返すと、彼は痛そうな顔のまま、ほんの少し笑った。
林の方から合図笛が聞こえた。
屋敷の護衛が一人、もう一人を支えて現れる。待機中に見張りに気づかれたが、追手を引き離してここまで回ってきたという。
負傷した護衛を座らせ、私たちは小屋の石壁を背にして救援を待った。
永遠のようだったが、時計で見ると十分ほどだった。
馬蹄の音とともに、憲兵隊の旗が坂を上がってきた。
先頭には、王宮で会った当直士官がいた。
「報告を受けて、途中から進路を変えました。歩ける者は、後方の救護馬車へ」
私は彼に略図を渡した。
主坑道、荷馬車道、点検通路。外に出ている箱の位置も書き加える。
「長官がいました。運送書類は、倉庫奥の机です」
「その証言は記録します。まず現場を確保する」
兵が二手に分かれて走り出す。
私たちは身を隠して去るのではなく、名前と証拠を渡して、その場を引き継いだ。
***
北方面詰所の客室に落ち着いたとき、窓の外はまだ暗かった。
医官によると、レナート卿の肩は縫合を要する裂傷だった。腕を吊り、しばらく剣は控えるよう念を押される。
護衛の負傷は足の打撲で済み、私の掌も洗い直して包帯を替えた。
「かすり傷、と言わなくてよかったですね」
私が湯を差し出すと、彼は気まずそうに受け取った。
「言いかけた」
「聞こえなくて、幸いでした」
彼の無事を確かめても、胸の奥の震えは収まらない。
医官が出ていき、扉が閉まったところで、私はようやく尋ねた。
「痛みますか」
「痛む」
隠さない返事が、少し嬉しかった。
嬉しいと思った自分に驚き、私は膝の上で手を揃えた。
「私を通すために、あなたがあそこへ残ったから」
「二人で出るためだ。扉を開けたのは、お前だろう」
レナート卿がこちらを見る。
「引き返す判断は、もっと早くできたかもしれない。そこは俺も検討する。だが、この傷をお前一人の責任にはしない」
涙が出そうになった。
無事に帰れた安心と、自分の知らないところでこの人が死んでしまう怖さが、一緒に押し寄せる。
「もう、増やしたくありません」
「何を」
「返事の来ない手紙を、読む仕事を。あなたの分まで」
言葉にしてしまってから、目を伏せた。
婚約者を亡くしたばかりの私が、こんなふうに誰かを引き留めてよいのか分からなかった。
しばらくして、彼の右手が私の前へ差し出された。
「握っていても、いいか」
私は無傷の左手を、その上へ置いた。
「俺も、お前に返事をしてほしい」
大きな手が閉じる。
力任せではない。私が離そうと思えば離せる、その程度の強さだった。
「だから、次も応援を呼ぶ。一人で片付けようとしない。お前にも、そうしてほしい」
「……はい」
手を繋いでいる間に、湯呑の湯気が薄くなった。
それ以上の言葉はなくても、離すのが惜しかった。
扉が叩かれた。
連絡役が、倉庫確保の第一報を持ってきた。
地上の一箱と地下の十一箱を押さえ、逃げ遅れた運搬人と兵を拘束したという。長官は搬出路から離脱したらしく、まだ身柄を確保できていない。
「それから、昨夜ご依頼の事故資料です。カイル卿の馬具と蹄鉄は、獣医官の保管庫に残っていました。廃棄を止め、封印を追加したとのことです」
詰所で最初の事情聴取を受けた際、私は事故に関わる物を一式残してほしいと依頼していた。
間に合った。
足りない証拠は、まだ取りに行ける。
「ありがとうございます。朝、再検分を申請します」
連絡役が出ていくと、レナート卿は鞄を見た。
「安全な場所に着いたな」
何のことか、すぐに分かった。
私は保護袋から、小さな赤い封筒を出した。
『エルマとレナートへ。安全な場所で』
私たちは机に並び、彼の名も確かにそこにあることを、もう一度見た。
レナート卿が台紙を押さえ、私が箆を封の下へ差し込む。
赤い封蝋が、静かに外れた。
今度の手紙には、告発すべき相手の名も、武器の番号もなかった。
最初に書かれていたのは、謝罪だった。




