第5話 不器用な手のひら
アルヴィスト公爵家の客用談話室は、蜂蜜と薪の匂いがした。
家令が二人分の湯を運び、隣の客室には着替えを用意したと告げた。廊下には護衛と、憲兵隊から来た連絡役が控えている。
扉の閉まる音を聞いた途端、私の指が震え始めた。
鞄の留め具に爪が当たり、小さな音が続く。
両手で押さえても、止まらなかった。
「少し、鞄を置かないか」
レナート卿が向かいの椅子を引いた。
「品物は封じてある。今、手を離しても大丈夫だ」
言われたとおり、脇の台へ置く。
何も抱えていなくなった手を、どこへやればよいのか分からなかった。
「情けないですね。現場では、動けたのに」
「俺も、初めて人に斬りかかられた夜は、杯を持てなかった」
彼は自分の右手を見た。
手の甲の傷には、詰所で貼られた白い布がある。
「動けた後で怖くなることはある。無事に出られたんだから、今は震えていてもいいだろう」
慰め方の上手な人ではない。
その分、私の震えを止めるためだけの言葉には聞こえなかった。
手当てに来た屋敷の医師が、私の掌を洗い直した。
鞄の留め具で擦った傷は浅かったが、打ったところが腫れている。翌日は細い道具を長く握らないこと、痺れが出たらすぐ知らせることを言い置いて、医師は席を外した。
包帯のない左手にも、古い細かな傷が残っていた。
私は袖で隠そうとした。
「……見苦しいでしょう」
レナート卿は、私の手を見てから顔を上げた。
「痛かっただろうとは思う」
思いがけない返事だった。
「傷を誇れとは言わない。減らせるなら、その方がいい。だが、それでお前の手を見苦しいと思ったことはない」
胸の奥へ、ゆっくり温かいものが沈んだ。
仕事で傷ついた手を見て、私が痛かったことまで考える人は少なかった。
彼は医師の残した保湿用の軟膏を指した。
「蓋を開けようか」
「お願いします」
蓋を外し、私が取りやすい位置へ置く。
ほんのそれだけの手つきが、戦っていたときより慎重だった。
「次長は、身の回りのお世話がお好きなのですか」
「得意だったら、そんなに不思議そうな顔はされていない」
うっかり、息が笑いの形になった。
彼がこちらを見たので、私は湯呑へ目を落とした。
「エルマ。さっきの言葉のことで、もう一つだけ」
私は指を止めた。
「悲しみ方まで、俺が決めることじゃなかった。泣かないのも、今泣くのも、お前が決めていい」
火の音が、やけにはっきり聞こえた。
「……私は、そう教わりませんでした」
父は、遺族の前で顔を動かすなと言った。
泣けば同情で判断が歪み、笑えば死者を軽んじたと思われる。幼い私が初めて現場で泣いたとき、父は私を廊下へ連れ出し、頬を打った。
以来、何も顔に出さないのが、正しい仕事の仕方になった。
「カイル卿の前でも、そうでした。何かをいただいても、まず礼状の形式を考えてしまうのです。嬉しいと言うより先に」
膝の上の手に目を落とす。
「最後の面会を延期されたとき、ほっとしてしまいました。また何も話せない自分を見なくて済むと。そのまま、もう……」
続きが出てこなかった。
レナート卿は慰めを急がなかった。
湯呑の持ち手をこちらへ向け直してから、ぽつりと言った。
「一度だけ、あいつから聞いたことがある。婚約が決まった頃だ」
私は顔を上げた。
「花を持っていったら、お前が花瓶を調べ始めたと」
「……鉛を含む釉薬でした。飲食に使わないよう、お伝えしたのです」
「そうか。あいつは、心配してもらえたと喜んでいた」
レナート卿は暖炉へ目を向けた。
「その後は俺の出張が続いて、あいつともゆっくり話せなかった。今日、お前を責める前に、なぜあの顔を思い出せなかったんだろうな」
私にも思い出せた。
講釈ばかりしてしまったと後悔している隣で、カイルが花瓶を窓辺へ移していた。
水差しと間違わない場所にしよう、と笑っていた。
「花は……押し花にして、残してあります」
口にした途端、鼻の奥が痛んだ。
「手紙に書けばよかったです。まだ、持っていますと」
頬へ、一筋だけ涙が落ちた。
慌てて拭こうとした私へ、レナート卿が手巾を差し出す。
何も言わない。
泣いている私を確かめるようにも、ようやく泣いたと安心するようにも見なかった。
その沈黙が、ありがたかった。
***
少し休んでから、私たちは手帳を開いた。
そろそろ日付が変わる。医師の指示どおり、重い物や細い金具はレナート卿に扱ってもらった。
「ここを、押さえていただけますか」
「これくらいか」
「もう少し左です」
言葉が短くても、伝わるようになっていた。
彼の指が移動するたび、同じ場所を見るというのはこういうことなのかと思った。
四十二頁の角で、手が止まった。
端が内側へ二度折られている。隣の葉の四十四頁、その次の葉の四十六頁にも、同じ折り目があった。
「開く頁の目印か」
「目印ではあります。でも、読む場所を示しているとは限りません」
私は鞄から下敷きを取り出した。
昔、修復中の古地図をカイルへ見せたことがある。裂けて別々になった線を、薄紙を重ねてつなぎ直したのだ。
『これは秘密の手紙にも使えそうだな』
『位置を合わせる印が要ります。例えば、角を二度折るとか』
私の話は退屈だと思い込み、途中でやめてしまった会話だった。
彼は、覚えていてくれた。
「ランプをこちらへお願いします。印のついた葉の余白を、透かしてみたいのです」
レナート卿が灯りを寄せる。
紙の下に、ごく細い線が浮かんだ。
言えなかったことは、もう直接は届かない。
けれど、届いていた言葉もあったのだと、その折り目が教えてくれた。




