第3話 死者は嘘をつかない
床へ引き倒される直前、私は帳簿と手紙を胸へ抱えた。
頭の上を矢が通り過ぎる。
レナート卿の剣が軸を弾き、鏃が暖炉の石枠に当たった。紫色の火が噴き出し、脇机の縁へ這い上がる。
「遮断布を!」
彼が鞄の口をこちらへ向けた。
私は折り畳んだ布を引き出し、紙束を包んだ。レナート卿は壁際の防火砂を火元へかける。
煙が薄れたとき、私たちは二人とも机の陰にいた。
「怪我は」
「ありません。あなたは」
「大丈夫だ」
返事を聞いてから、やっと紙を確認した。
焦げていない。黒い封蝋の台紙も、小さな赤い封筒も、すべて揃っている。
「証拠も無事です」
レナート卿は息を吐いた。
すぐに窓の反対側へ移り、壁に身を隠したまま外を窺う。
「向かいの時計塔だ。明かりが消えた」
「追わないでください」
「追わない。お前を残して、もう一人いるかもしれない場所へは行けん」
彼は机の上の呼び鈴を鳴らした。
廊下に反響があったが、足音は返ってこない。
普段ならすぐ近くに控えているはずの衛兵の声もなかった。
「おかしいな。窓が割れた音が聞こえない距離じゃない」
レナート卿が扉を細く開けた。
廊下の向こうから、かすかに金属を引きずる音がした。やがて複数の靴音が続く。
「応援なら、先に名乗る」
彼は扉を閉め、内鍵をかけた。
「裏の階段へ出る扉が、隣の資料室にある。だが、そちらが安全か確かめたい。必要なものをまとめてくれ」
「はい」
私は焼却筒の容器を鞄へ入れ、窓際に落ちた鏃を耐熱袋へ収めた。
薄い鉄板に刻まれた管理番号が、煤の下から覗いている。
所属を決めつけるには早いが、支給記録を辿れる可能性はあった。
最後に、壁際の外套へ手を伸ばす。
濃紺の裾が、指先に引っかかった。
カイルが日々使っていた巡察用の外套だった。
以前、面会の席で袖口のほつれを教えたとき、彼は「見つけるのが早いな」と笑っていた。縫い直した糸だけが、少し明るい。
袖を畳もうとして、その継ぎ目に黒い粒が挟まっているのが見えた。
「……こちらにも」
棚に置かれた予備の乗馬靴を持ち上げる。底の溝に、似た黒い粒と黄色みのある泥が残っていた。
演習中に履いていた靴ではない。部屋へ戻ったときに脱いだものだ。
「何かあったのか」
「鉱滓に似た粒です。王都北の旧王立鉱山では、こうした黒い粒を含む土が出ます」
「あの鉱山は閉鎖されたはずだ」
「採掘は。地下の一部は軍の備蓄庫に転用されています。昨年、そこで亡くなった管理人の遺品を引き取りました」
私は靴底と袖口からそれぞれ少量を取り、別々の袋に入れた。
「ただし、同じ色の土はほかにもあります。これだけで場所は特定できません」
「帳簿にある倉庫と、結びつくかもしれないということか」
「はい。候補を絞る手がかりになります」
レナート卿は外套を受け取り、用意した保管袋を広げた。
「全部持っていこう。現物を残して、焼かれるわけにはいかない」
外套と靴を一つの袋へ、ただし触れ合わないよう紙で隔てて収める。
棚の黒革の手帳も見つけた。中をざっと開くと、巡察日誌だった。
数枚、角に妙な折れ方をした葉がある。
立ち止まりかけた私に、扉の外の音が届いた。
すぐ近くだ。
手帳を包んで鞄へ入れる。
「ここまでです。残りの家具は、現場ごと保全を頼みましょう」
私たちは回収した品を検分簿で照合した。
手紙、帳簿の写し、私信、罠の部品、鏃、採取試料、外套、靴、手帳。
急ぐときほど声に出す。無くしたことに後から気づいても、取り戻せない。
「君たち、開けろ」
扉の向こうで男が言った。
レナート卿が剣を下げずに問い返す。
「所属と氏名を名乗れ」
「長官命令だ。遺品を引き渡せ」
「命令書を扉の下から入れろ。こちらは正規の検分中だ」
沈黙。
次に聞こえたのは、錠へ硬いものを当てる音だった。
私は鞄の留め具を締めた。
口の中が渇いている。怖くないわけではない。指先の順番を間違えないよう、何をするかだけを考えた。
「レナート卿。資料室への扉は」
「開く。ただ、廊下へ出るまでに時間がいる。俺がここを止める」
彼はそこで私を見た。
「戦いになったら、机の陰へ。俺の届かない位置に出ないでくれ」
「分かりました」
剣を持つ手の甲に、細い切り傷がある。
硝子で切ったのだろう。本人は気づいていないらしかった。
「あなたも、後でその手を洗ってください」
こんなときに、と自分でも思った。
けれどレナート卿は一瞬だけ目を落とし、小さく頷いた。
「ああ。二人で、ここを出てからだ」
廊下の灯りが消えた。
扉の錠が割れる音がした。
私は机の陰へ膝をつく。
さっきまで行く手を塞いでいた背中が、今は、迫ってくる刃の前に立っていた。




