第2話 二重底の告発状
封筒を置く場所を作ろうとして、レナート卿が机の書類へ手を伸ばした。
その手は途中で止まった。
「……触る前に、聞くべきだったな。どこならいい」
「脇机の上をお願いします。白い布を敷いてください」
彼が布を広げる間に、私は封筒を両面から記録した。
黒い封蝋には八角形の軍用印。私の名の下に、小さく「告発資料在中」とある。
宛名だけを読んでいられる手紙ではなかった。
「カイルは、お前を信頼していたんだな」
レナート卿の声は低かった。
「なのに俺は……」
「封を開けます。立ち会っていただけますか」
「ああ」
軍の証拠保全用封蝋は、無理に剥がすと紙へ消去剤が染み出す構造になっている。
権限を持つ整理官の職印を認証板へ当て、検知灯が緑に変わるのを待つ。記録された封印時刻は、カイルが死ぬ前日の深夜だった。
解除用の銀箆を差し込み、封蝋を台紙ごと持ち上げた。
中から出てきたのは、告発文と帳簿の写し。それに、赤い封蝋の小封筒が一通。
小封筒には「エルマとレナートへ。安全な場所で」とあった。
「こちらは後にしましょう」
宛名を彼にも示してから、別の保護袋へ収めた。
今度こそ普通の私信だった。それまで公の記録にする必要はない。
帳簿の写しには、日付と製造番号が細かく並んでいる。
私は見覚えのある備品記号を指した。
「新型魔導槍、改弐型。廃棄扱いにされたものを、カイル卿が抜き出して調べたようです」
レナート卿が身を乗り出した。
「百二十本……全部、配備前の新品じゃないか」
「半年かけて、少量ずつ廃棄に回したことになっています。ところが、焼却施設の受領番号がありません」
余白に、カイルの調査が書き込まれていた。
運送商会、倉庫の呼称、買い手を示す符丁。国境で摘発された密輸団の取調記録と照合し、帝国北部の反乱勢力へ売られる疑いがあると記されている。
「まだ国外へは出ていない、とあります。買い手の支払いが遅れ、一括引き渡しを待っているようです」
「これだけあれば、国境の守備隊が襲われる」
彼は机につきかけた拳を、ゆっくり下ろした。
私は告発文を開いた。
『エルマ。これを俺から直接渡せなかったなら、何かが起きたのだと思う。
今、近衛の兵站局と監察部の一部が、新型魔導槍を不正に持ち出している。添付したものは俺が取った写しだ。処分伝票の原本と、番号の一致する槍を押さえてほしい』
整った文字が、下の行へ進むほど詰まっていく。
『告発書を通常の経路で出した翌日、俺の机が調べられた。返送された受領控えには、ゴドウィンの印があった。誰まで話が通じているか分からない。
レナートは国境の査察から戻っていない。軍の通信も信用できず、私邸へ送った使いも途中で引き返した。俺自身が会いに行こうとしたが、明日の演習勤務は変更を認められなかった』
「俺が戻ったのは、昨日の夜だ」
レナート卿が呟いた。
「街道で馬車が壊れたという使いが来たと、家令から聞いた。カイルの使いだったのか……」
私は先を読んだ。
『明日は騎士団長へ直接話すつもりだ。危険は承知しているが、生きて報告を通すために行く。
この封筒は、俺が戻ったら回収する。二重底は以前から使っていたものだ。机に危険な仕掛けはしていない。無理に開ける必要はないが、もし手が加わっていたら、その痕跡も残してほしい』
脇机の保護容器の中で、焼却筒が鈍く光った。
レナート卿もそれを見た。
「誰かが、あいつの帰らない机に……」
「手紙の封印時刻より後に仕掛けられた可能性が高いです。入退室記録と部品を調べれば、もっと絞れます」
言い切るには足りない。
けれど、事故死として閉じてよい案件では、もうなかった。
『エルマ。君が、公のものと私物を決して取り違えないことを知っている。だから頼みたい。
レナートが戻っていれば、独立した中央憲兵隊への連絡を頼んでくれ。監察長官への定例報告には載せないでほしい。今の俺には、その席さえ安全だと言い切れない』
「長官まで、か」
バルツァー伯爵。
レナート卿の直属の上司であり、近衛の監察を統括する人物だった。
『二人とも、写しだけを持って誰かに斬り込むな。俺の記録にも間違いはあり得る。確かめてから動いてほしい。
そして、危険なら一度退いてくれ。証拠を届ける人間まで死んでしまっては、何にもならない』
そこで、公的な告発は終わっていた。
私は紙を押さえたまま、しばらく息を整えた。
戻ったら回収する。
その一文が離れなかった。
死ぬための手紙ではない。生きて帰るつもりの人が、帰れなかった場合に備えた手紙だった。
「エルマ」
レナート卿が、私に向き直った。
「悲しんでいないと決めつけて、仕事まで妨げた。すまなかった」
頭が下がる。
礼儀としてではなく、私の返事を待つために、彼は動かなかった。
「……手紙が見つからなければ、同じことを言いましたか」
聞いてから、喉が痛くなった。
普段なら飲み込む言葉だった。
彼はすぐに答えなかった。
「分からない。だから、なおさら俺が悪い。あいつに愛されていた証拠がなければ、お前を侮辱してよかったわけじゃない」
私は手元を見た。
誤りを認める声に、言い訳は続かなかった。
「今すぐ、気にしていないとは言えません」
「ああ」
「でも、調査にはあなたの力が必要です」
レナート卿が顔を上げた。
「私の検分と、あなたの調査を互いに確認すること。独断で誰かを裁かないこと。守れますか」
「守る」
彼は抜剣する代わりに、検分簿を引き寄せた。
立会人の欄に署名する。
その下に、自らの妨害で検分が遅れた事実まで書き加えた。
「まず、証拠の写しを作ろう。憲兵隊への連絡は、屋敷の使いを立てる。軍の伝令は使わない」
私は小さく頷いた。
信頼できるかどうかを決めるのは、これからだった。
時計塔が、午後七時を告げる鐘を打ち始めた。
その鐘の途中で、窓の外に小さな赤い光が灯った。
こちらを向いた鏃の発光だと分かったときには、レナート卿の手が私の肩を引いていた。
硝子が砕けた。
私たちが今、残すと決めたばかりの紙へ、火が飛び込んできた。




