第1話 冷酷な遺品整理官
「お前のような冷血女に、あいつの遺品は触らせない」
執務机の前に立つ男は、私の道具鞄を見てそう言った。
近衛監察部次長、レナート・アルヴィスト卿。濡れたような黒髪も、襟元の銀の留め具も、いつもなら隙なく整えられている。今は片方の袖が折れ、目の下に濃い影が落ちていた。
昨日の午後、彼の親友が死んだ。
近衛騎士団長補佐、カイル・クロイツァー卿。演習中、馬とともに崖から転落したという。
私の婚約者だった人だ。
「故カイル卿の私物検分に参りました。遺族代表であるお母様の委託書と、人事局の任命書です」
差し出した書類に、レナート卿は目を落とさなかった。
「訃報を聞いて最初にすることが、それか」
「今朝、任命を受けました。こちらの封鎖解除を待っていたため、伺うのが遅くなりました」
窓の外では、最後の夕日が時計塔の向こうへ沈もうとしている。
朝から何度も読み返した委託書には、カイルの母の小さな字が添えられていた。
あの子の大切にしていたものを、どうかあなたの手で。
私はその一行を、レナート卿に見せなかった。
仕事の許可を得るために使いたい言葉ではなかった。
「お前は、あいつの婚約者だったんだろう」
「はい」
「なら、少しは悲しんだらどうなんだ」
返事をするまでに、ほんの少し間が空いた。
彼には、それさえ冷淡に見えたかもしれない。
「私が泣いている間にも、記録は失われます」
私は王宮遺品整理官、エルマ・ベルリッツ。
亡くなった官吏や騎士の私物を調べ、機密と形見を分け、返すべき相手へ返すのが仕事だ。
日記や手紙に立ち入るため、死者の秘密を売る女だと陰口を叩かれることもある。けれど、私たちが選り分けなければ、家族への手紙まで軍の焼却炉へ送られてしまう。
カイルとの婚約は家同士が決めたものだった。
一年の間に二人きりで会った回数は多くない。それでも彼は、私の仕事を口にするときだけは、周囲のように声をひそめなかった。
『今日は何を、その人の家族へ返せた?』
先月、そんなふうに聞いてくれた声を思い出す。
鞄の留め具に触れた指が滑った。私は握り直した。
「物証の選別は、今しかできません。泣くのは……片付けを終えてからにします」
「よくそんな言い方ができるな」
レナート卿が机を背にして立った。
「俺が保管する。お前は帰れ」
「次長。任命を取り消す権限は、あなたにはありません」
私は書類を脇机に置き、職印を示した。
天秤と鍵の紋章。小さな印だが、その持ち主が従うのは王室服務規程であって、目の前の騎士の機嫌ではない。
「ご懸念があるなら、立会人として記録してください。私が婚約者であったことも、利益相反としてすでに申告しています。検分結果は別の整理官が再確認します」
「規程、規程と……」
「それが、持ち主のいなくなった物を守ります」
彼は唇を引き結んだ。
私を睨む紫紺の目が赤い。眠っていないのだろう。私も昨夜は、寝台に腰を下ろしたまま朝を迎えた。
同じ朝を迎えたとは、この人には言えなかった。
部屋の入り口で、破られた封鎖票が揺れている。
死亡当日の夕刻に施された近衛の封印。その上から、今朝の日付の監察部の再封印が重ねられていた。
「ここは、一度開けられていますね」
「事故の調査でゴドウィン査察官が入った。機密書類の有無を確認しただけだと聞いている」
「入退室簿は、後ほど照合します」
私は道具鞄を開け、薄い白革の手袋をはめた。
レナート卿が、机の上に散らばる書類へ手を伸ばす。
「だったら、せめてあいつの手紙くらいは俺が――」
彼の指が右側の引き出しの取っ手にかかった。
薄闇の中、木の継ぎ目に細い光が走った。
「動かないで!」
レナート卿の手が止まる。
「その位置のまま。引き出しを引かないでください」
私は鞄から小型灯と拡大鏡を取り出した。
取っ手の下に木屑が残っている。古い机なのに、削り口だけが白い。隙間へ灯を向けると、内側を横切る銀糸と、その先に接続された小さな筒が見えた。
「焼却筒です。糸が引かれると、引き出しの中へ火が噴き出します」
「……何だと」
「顔を近づけていたら、あなたも火傷を負っていました」
彼の喉が動いた。
私は固定具で取っ手を支え、銀糸が引かれない位置に薄い楔を差し込んだ。
「誰が、こんなものを」
「まだ分かりません。机を開けようとする人間か、机の中身を狙った仕掛けです」
「カイルが、自分で……?」
私は削り屑と、引き出しの縁の浅い傷を見比べた。
「少なくとも、長く据えてあったものには見えません。設置した人物は、調べてから判断しましょう」
「見れば、すぐに分かるものじゃないのか」
「物は嘘をつきません。でも、読み取る私たちが間違えることはあります」
細工の目的も、作り手も、物を見ただけですべて分かるわけではない。
分からないことを、分かったことにしない。
父に教わった言葉のうち、今も守っているものの一つだった。
「机の左へ回って、廊下を見ていてください。誰も入れないように」
レナート卿は初めて、言い返さずに動いた。
私は遮断布を筒の下に敷き、魔力の供給部を専用の留め具で挟んだ。検知針が振れなくなったことを確かめ、筒と銀糸を接続部ごと外す。
小さな金属音。
それが鳴り終わるまで、息をしていなかったことに気づいた。
「解除できました」
部品を番号札とともに保護容器へ収める。レナート卿に時刻を読み上げてもらい、検分簿へ記した。
開いた引き出しには、手袋と筆記具しかない。
けれど、底板までの深さが、外から測った寸法より浅かった。
「二重底か」
「はい。こちらは古い加工です。先ほどの焼却筒とは、作られた時期が違います」
底板の留め金に解錠針を当てる。
小さな蓋が外れ、その下から黒い封蝋を施した封筒が現れた。
表書きを見た瞬間、指を止めた。
少し右上がりになる、見慣れた筆跡。
『我が愛する婚約者、エルマ・ベルリッツへ』
公の場で甘い言葉をくれたことはなかった。
最後に届いた手紙も、演習のため面会を延期するという短いものだった。
それなのに、もう返事を受け取れない場所に、こんな言葉を置いていく。
「……エルマ」
レナート卿が、今度は私の名だけを呼んだ。
私は封筒の下へ保護紙を差し入れた。
そこに残っていたのは、いつか私が返せると思い込んでいた言葉だった。




