第八話 本音のない女 経過観察
こんばんは。私は管理者です。
今日は、正直に言って、あまり乗り気ではないです。見たいテレビ番組の特番がありますし、何よりこの実験は一度「失敗」として片付けたはずですから。
対象者はTさん、二十代後半のOL。前回の実験では「建前で周囲の潤滑油になっている」という彼女の不満に対し、「建前がすべて本音になる世界」へと送り込みました。結果、不満メーターは下がらず、実験は「失敗」で終了……したはずだったのですが。
この世界をそのまま放置して、ちょっと目を離してたら、なんだか妙なことになっています。 まあ、実際に彼女の様子を見てもらうのが早いでしょう…ね。
───
私はT。 ”管理者”とやらに送り込まれたあの世界で、私は一度、私の築いてきた交友関係をめちゃくちゃにされた。 何気なく口にした「今度ぜひ」という社交辞令のせいで行きたくもない男性と食事をさせられたばかりか、高級店の全額支払いを押し付けられたり、後輩のバッグを「可愛い」と褒めただけで給料三ヶ月分のレシートを渡されたり。 この世界では、口にした「建前」が逃げ場なく自分を縛り上げる。 あまりの理不尽さに疲れ果てた私は、生き延びるための生存戦略として、ある決断をした。
「もう、建前とか社交辞令なんて、一切使ってやるものか!」
そう、私は自分の身を守るために、徹底的に「本音」だけで生きることを選んだのだ。
最初は怖かった。だが、いざ始めてみると、世界は驚くほどシンプルに回り始めた。 趣味の合わない後輩が、嬉しそうにランチに誘ってきたとき。
「Tさん、駅前にできた新しいイタリアンに行きませんか?」
以前の私なら、引きつった笑顔で「美味しそう!」と返して自爆していただろう。だが、今の私は冷徹に言い放つ。
「いや、私はイタリアンが嫌いだから行かない」
後輩は一瞬目を丸くしたが、「そうですか、残念です」とあっさり引き下がった。それだけだ。無駄な出費も、興味もない義務的な会話も発生しない。
しつこい他部署の男性から声をかけられたときも同様だ。
「今週末、二人で食事でもどう?」
私は少しの躊躇もなく、冷たく言い放つ。
「今後、あなたを好きになるタイプじゃなさそうなので、お断りします」
男はショックを受けつつも、変に期待を持たせる社交辞令がないため、二度と私に絡んでこなくなった。
新しいプロジェクトの会議で、誰も発言せず重苦しい沈黙が流れたときも、私は手を挙げて率直に言った。
「予算もスケジュールも厳しそうですが、他に適任がいなければ、私がやります」
上司は「そうか、頼むよ」と、余計な嫌がらせ抜きで私を信頼してくれた。
本音を口にするたび、私の胸の奥に確かな手応えが生まれていく。
「私、ちゃんと自分で決めてるじゃない」
誰かの顔色を伺う「潤滑油」ではなく、私は私として、自分の人生の足で立っているのだ。
───
そして、春が来た。 会社の歓迎会。騒がしい居酒屋の席で、新人の男性社員が、少し照れくさそうに私にビールを注いでくれた。
「俺、先輩みたいな自立した女性がタイプなんです!」
この世界には「建前」がない。つまり、目の前の彼は、お世辞や社交辞令ではなく、心の底から本気でそう言っているのだ。
今まで「どうせお世辞でしょ」と冷たく流していた言葉が、驚くほど真っ直ぐに心に響く。 私は彼の目をじっと見つめ、自分の年齢、欠点、だらしない私生活を、包み隠さず伝えることにした。
「私、家じゃすごくズボラだし、頑固だし、あなたよりいくつも年上よ。それでも、私のことタイプって言える?」
男は、迷わずに微笑んだ。 「はい!」
───
数年後。純白のウェディングドレスに身を包んだ私は、式場の控室で、涙ぐむ両親の前に立っていた。 私は、今この瞬間の、偽りのない本音を口にする。
「お父さんは臭くて、お母さんはだらしないけど……これまで私を育ててくれて本当にありがとう。大好きです!」
お父さんは「なんだそりゃ」と苦笑いし、お母さんは呆れたように鼻をすすり、それから、今までで一番温かい笑顔で私を抱きしめてくれた。
───
一度は失敗と判断した実験が、単に放置しただけで、忌々しくもこれ以上ないほど「いい感じ」の結末を迎えていた。 管理者は、ハッピーエンドの光に包まれたメーターを見つめ、なんとも言えない不服そうな顔で、ムスっとしながらメモを書き留めた。
「建前が本音になる世界 成功の理由は特定できない」
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