第二話 本音のない女
私の名前はT、二十代後半のOLだ。私は、「建前」を駆使し、周囲の潤滑油の役割を果たしている。
「すごーい!」「流石ですね!」「私もそう思ってました!」
喉から出る言葉は、場の空気を汚さない空気清浄機のようなものだ。空気清浄機が本当に空気を清浄してるのかなんて見えないし、なにが出てるかなんてあまり気にしてる人はいない。
そしてもうひとつのコツは、次に言葉を足さないことだ。
「でも、私には分不相応かな」
なんて続けると、一気に嘘っぽくなるのを私は知っている。相手も「建前」だと薄々は思ってるものだし…
心の中でどれほど毒づいていても、私の唇は自動的に、相手が欲しがる「建前」を発し続ける。私の言葉に意味はない。しかし、その場の空気を読んで何が悪いのだ。それが私の処世術だし、誰にも文句を言われる筋合いはない。
ある日の夜。接待まがいの飲み会を建前で乗り切り、駅前のベンチで
「はぁ…世の中みんな馬鹿ばっかりだ…」
スマホをチラっと見ながらぽつりと漏らした次の瞬間、
「こんばんは。私は管理者です」
隣には、いつの間にか妙な男が座っていた。彼は、私が鞄に入れていたはずのグミを、当然のような顔で咀嚼している。
「えっと……どちら様?知り合い、でしたっけ?」
私は反射的に笑顔を浮かべる。不気味だと思ったが、角を立てるのが怖かった。
「ひひえ、へれふぉーほひまひた」
”管理者”は口いっぱいにグミをほおばったまま答える。テレポート?と言ったのだろうか。
”管理者”は言う。
「あなたの性質が善か悪かなんてどうでもいいんです。ただ、あなたが不満を持っているのはこのメーターが示している」
管理者の手の中にある計器には何か書いているがまるで読めないし、文字かどうかすらわからない。
「なので、その不満を解消するため、あなたが輝ける世界にご案内いたします!」
その瞬間、視界が白に染まった。
───
気がつくと、私はオフィスのデスクにいた。
「夢……? でも、鞄からグミがなくなってる……」
困惑しながらも、私はいつものルーチンに戻った。無能な上司が、見るからに面倒そうな新規プロジェクトの資料を持ってくる。
「Tさん、このプロジェクトなんだけど、どう思う?」
本当は断りたかったけど、私の唇はいつものように「建前」を吐き出した。
「わあ、こんなプロジェクトに参加できたら最高ですね! 」
その瞬間、周囲の空気が一変した。同僚たちが一斉に立ち上がり、見たこともないような熱烈な拍手を送ってきたのだ。
「Tさん、流石です! そこまで強い決意があったなんて!」
上司も感激に震えながら、私の両手を強く握りしめる。
「そうか! ならば今すぐ部署の新設を進めよう。もし事業が失敗した場合は君の全責任になってしまうが、この事業を君に一任するよ!」
「……は?」
冗談だと思った。だが、上司の目は血走るほど真剣だった。
それからの数時間は、悪夢のような現実の連続だった。
しつこい男性からのランチの誘いに
「今度ぜひ!」
と微笑めば、相手は即座に高級店を私の名前で予約し、私が全額支払うことを当然とした。
後輩の趣味の悪い鞄を
「可愛いね。私もほしいな」
と褒めれば、後輩は、買ってきた鞄とともに私の給料三ヶ月分のレシートを差し出してきた。
「待って…そんなつもりじゃ……」
私が青くなって言い訳をしようとすると、周囲の人間は心底から軽蔑したような、あるいは「狂人」を見るような目を向けてくる。
「先輩は、自分の口ではっきりと『欲しい』と言ったじゃないですか。せっかく親切でデパートまで行って買ってきたのになぜですか?」
たしかにランチの男性も後輩も間違ってるとは断言できない。でも、社交辞令ってものがあるでしょ?
私の「建前」が、逃げ場のない鉄の鎖となって私を縛り上げていく。
私は、追いすがってくる「友人」や「上司」を振り返り、今まで言えなかった「本音」を、本当の私をさらけ出して叫んだ。
「うるさい!なんで私が責任を取らないといけないの!?私は空気を読んだだけだ!もう私の前から消えて!!」
一瞬凍りつく空気。だが、彼らの顔に「怒り」はなかった。ただ、深い納得感だけがそこにあった。
「……そうか。君がそこまで拒絶しているのなら、仕方ないな」
彼らは驚くほどあっさりと、私の前から去っていった。
そう、私は完全に孤立した。
────
管理者は観測者として、まるでうまく行かなかった実験結果を見たときのような感想を漏らす。
「おかしいな…。自分を偽らない世界に送ったら効率よく上手くいくと思ったんだがなぁ…」
管理者はメモに書き留めた
「建前が本音になる世界 失敗」




