第一話 強く出れない男
俺の名前はS、三十八歳。これまでの人生、俺が一番長く見つめてきたのは、希望に満ちた空でも、愛する誰かの瞳でもない。ただの地面だ。謝罪、依頼、妥協。これらを自分の思いのままに操る方法を俺は知らない。なので頭を下げ続けるしかないのだ。もっと俺に自信や才能があれば、俺の人生はまったく違っていたのかもしれない。
仕事の効率すらも悪い俺は、日常となってしまったサービス残業を終え、帰路についた。しかし、今日は待ちに待った給料日だった。居酒屋に行きたいところだが、コンビニでビールとおつまみを買い、公園のベンチで飲み始める。
ビールをグイッとあおって、顔を戻した瞬間。そいつはいた。
彼はこう言った
「こんばんは。私は管理者です」
彼はおつまみのサキイカを勝手に口に入れている。サキイカ泥棒には腹が立ったが、それよりもっと気になることがある。ビールをゴクゴクとやって顔を戻すほんの数秒の間に彼は現れたのだ。
「えっと…どこかに隠れてましたか?」
サキイカがどこかにはさまったのか、口に手を突っ込んで”管理者”は答える
「ひひえ、へれふぉーほひまひた」
空気を読む力に長けた俺は「テレポート」かと納得する。納得してはいけない気がするが。
サキイカが取れた様子で管理者は言う。
「あなたの性質が善か悪かなんてどうでもいいんです。ただ、あなたが不満を持っているのはこのメーターが示している」
管理者の手の中にある計器には何か書いているがまるで読めないし、文字かどうかすらわからない。
管理者は続ける
「なので、その不満を解消するため、あなたが輝ける世界にご案内いたします!」
その瞬間、視界が白に染まった
───
気がつくと、俺はいつもの自室にいた。
「なんだ、夢か。どうやって帰ってきたのか思い出せないぞ…ビール1缶なのに」
そうつぶやいて出社した俺を待っていたのは、いつもの理不尽な不具合と、それを理由に俺を怒鳴りつける上司の姿だった。
「ああ、また何も言い返せないのか…俺って奴は」
俺はいつものように、反射的に下を向いた。深く、静かに。
「申し訳ありません。私の不徳の致すところです」
その瞬間、異変が起きた。 上司が喉をヒッと鳴らし、椅子を蹴り飛ばすようにして後退したのだ。彼の顔は土気色に染まり、まるで死神でも見たかのように震えている。
「わ、分かった! 君にも事情があったんだろ。もういい、戻ってくれ! 二度とそんな顔をするな!」
俺には、何が起きたのか分からなかった。同僚たちも、俺と目が合うと弾かれたように視線を逸らし、道を空ける。俺の「誠実さ」がついに恐怖をもって理解されたのか? 俺は、この世界で「救われた」のだと確信した。
それからの一年、俺は変わった。 謝れば謝るほど、周囲は俺に屈服する。威張る取引先も、傲慢な上司も、俺が黙って「深く頭を下げる」だけで、皆が真っ青になって引き下がっていく。俺は万能感に酔いしれた。
だが、その全能感が、俺の首から「燃料」を奪っていった。 「俺は強い。俺が正しい」 そう思うようになるにつれ、俺の謝罪からかつての「卑屈さ」が消え、動作は雑になり、頭を下げる角度も浅くなっていった。 すると、あんなに怯えていた連中が、再び俺をゴミのように扱い始めたのだ。
「なんだその態度は! 前の迫力はどうした!」
俺は追い詰められた。クビ寸前の会議室で、俺は悟った。 あいつらをもう一度黙らせるには、あの頃の、死ぬほど惨めだった自分に戻るしかない。俺は膝をついた。額を床に擦り付け、自尊心を粉々に砕き、震えながら叫んだ。
「心から、申し訳ありません……ッ!」
凍りつく空気。一人が過呼吸で倒れる音がした。俺は確信してしまった。これは管理者とやらが変えた世界だと。この頭を下げる行為は、いったい何を意味するのか─────
俺は結局、管理者から何も聞いていない。だが、書き換えられた世界とは言え、俺ができるのは「頭を下げること」しかない。今日も俺は頭を下げ続けるのだ。
────
管理者は観測者として、まるでうまく行かなかった実験結果を見たときのような感想を漏らす。
「ちょっと違ったかな? 強気になれれば上手く行くと思ったんだがなぁ……」
管理者はメモに書き留めた
「謝罪が威圧になる世界 失敗」




