第十九話 忘れ物をしたくない男
俺の名前はB、二十九歳。ごく普通の会社員だ。
俺には、昔からどうしても気になることがある。
忘れ物だ。
家を出てから、「あ、財布忘れた」と気づいて取りに戻る。会社に着いてから、「スマホを家に置いてきた」と気づく。旅行に行けば、充電器や着替えを忘れていないか何度も確認する。
一度忘れてしまえば、取りに戻る時間もかかる。買い直せば金もかかる。
何より嫌なのは、「もし、必要な物を忘れていたらどうしよう」という、あの感覚だった。
その日の朝も、俺は玄関で何度も荷物を確認していた。
財布よし。スマホよし。鍵よし。社員証よし。ハンカチよし。
「……これで大丈夫だよな」
それでも不安だった。
そんなときだった。
「おはようございます。私は管理者です」
「うわっ!」
"管理者"と名乗る男は、いつの間にか玄関に立ち、乾パンの缶を小脇に抱え、掴んでは口に入れ、掴んでは口に入れ、猛スピードで咀嚼している。
「お前、それ俺の備蓄してるやつだろ!」
男は備蓄の水をがぶ飲みしながら、手元の奇妙な計器を操作している。
「あなたの性質が善か悪かなんてどうでもいいんです。ただ、あなたが不満を持っているのは、このメーターが示している。なので、その不満を解消するため、あなたが満足する世界にご案内いたします!」
「ちょっと待て。具体的に──」
視界が、真っ白に染まった。
───
翌朝。目覚めると同時に頭の中にアナウンスが響いた。
『忘れ物対策レベル1を獲得しました』
そして、いつものように出勤しようと、忘れ物のチェックをする。
「財布、スマホ、鍵、社員証……よし」
今までなら、それだけだった。
次の瞬間、頭の中に「今日必要になる物」が頭の中に次々と浮かび上がった。
折り畳み傘。モバイルバッテリー。目薬。予備のマスク。ボールペン。絆創膏。
「何だこれ……」
どれも今日、使う可能性がある物だった。
念のため全部鞄に入れてみる。
すると、頭の中に再び声が響いた。
『忘れ物対策レベルが2になりました』
「レベル2?」
次に頭に浮かぶのは、今日必要になるかもしれない物だけではなかった。
「もし雨が強くなったら……傘だけじゃなくて、濡れた服を入れる袋が必要かもしれない」
「もしスマホの充電が切れたら……モバイルバッテリーだけじゃなく、予備のケーブルも必要だ」
「もし会社で服を汚したら……着替えが必要になる」
考えれば考えるほど、必要な物が増えていく。
気がつけば、俺の鞄は最初の倍以上に膨らんでいた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「これなら忘れ物しない」
むしろ、今まで感じていた不安が消えていくことのほうが嬉しかった。
ところが、その翌日。
俺は玄関で立ち尽くしていた。
「……これも必要かもしれない」
昨日までは考えもしなかった物まで、頭に浮かんでくる。
旅行先で急に靴が壊れたらどうする。
会社で急に泊まりになることになったらどうする。
誰かに物を貸して、返してもらえなかったらどうする。
「いや、そこまで考える必要あるか?」
そう思った瞬間、頭の中に声が響いた。
思いつく限りのものを準備する内に、鞄は2つになり、さらにリュックを持っていた。
『忘れ物対策レベルがMAXになり、危険察知レベル1へと進化しました』
「……え?」
初めて、嫌な予感がした。
───
翌朝。
鞄2つとリュックと追加のスーツケースを持ち、玄関を出ようとした俺は、足を止めた。
「……この階段、滑る可能性があるな」
確かに、雨で少し濡れている。
「転んだら危ない」
靴を履き替える。
すると、頭の中に声が響いた。
『危険察知レベルが2になりました』
「また上がったのかよ」
今度は、玄関を出た先の道路が気になった。
車が来る可能性。
自転車が飛び出してくる可能性。
工事現場から物が落ちてくる可能性。
信号を渡っている最中に体調を崩す可能性。
考え始めると、次から次へと危険が浮かんでくる。
俺は慎重に道を選んだ。
大通りを避け、交通量の少ない道を歩く。
ところが、その道では工事をしていた。
「……こっちも危ない」
別の道へ向かう。
今度は犬の散歩をしている人がいる。
「犬が突然飛び出してくるかもしれない」
さらに別の道へ。
「自転車が来るかもしれない」
「雨が降るかもしれない」
「看板が落ちてくるかもしれない」
「体調が悪くなるかもしれない」
俺は、とうとう会社へ向かうことを諦めた。
その日、会社には休むと連絡した。
家の中なら安全だ。
少なくとも、外よりは。
そう思った。
だが、その日の夜。
俺が風呂に入ろうとしたところで、頭の中に危険がとめどなく浮かぶ。
「……風呂も?」
浴槽で滑る可能性。
熱湯で火傷する可能性。
石鹸が目に入る可能性。
浴室で体調を崩す可能性。
一つ一つ考え始めると、風呂に入ることすら怖くなってきた。
そして、俺は気づいた。
俺は忘れ物をしたくなかっただけなのだ。
必要な物を忘れず、安心して外に出たかっただけだ。
それなのに、忘れ物対策を続けた結果、あらゆる可能性を考えるようになった。
あらゆる可能性を考えた結果、今度はあらゆる危険が見えるようになった。
そして今では、「何もしないこと」だけが、一番安全に思える。
外へ出る理由は、いくらでもある。
仕事。買い物。病院。友人との約束。旅行。
けれど、それらにはすべて危険が伴う。
だったら。
「……出なければいい」
そう呟いた瞬間、頭の中に声が響いた。
『危険察知レベルがMAXになりました』
俺は、すべてを悟り、内側からしっかり玄関の鍵を締めた。
財布もある。スマホもある。鍵もある。食料も昨日5年分発注した。
忘れている物はない。そして、しばらく危険な外へ出ることもない。
俺は意識していないのにつぶやいた。
「完璧だ」
───
管理者は、無理だと思っていた忘れ物ゼロの達成に小躍りする。
「忘れ物に特化した第六感ですね。お見事!」
管理者は満足そうにメモを書き留めた。
「出かける前にあらゆる想定を考えつく世界 大成功S」
お読みいただきありがとうございました!
今のところ大きな反響はありませんが、少しでも面白いと思っていただけましたら、下部の「リアクション」や「評価☆☆☆☆☆」、「ブックマーク登録」をしていただけると、執筆の大きな励みになります!
ネタがあれば、毎日22時に更新する予定です。次回もよろしくお願いします!




