第十八話 時間を売る男
俺の名前はJ、二十五歳。フリーターだ。 日雇いや深夜の倉庫作業を転々としながら、カツカツの生活を送っている。
「バイトの時給安すぎるだろ、マジで」
俺の人生の不満は、労働に対する対価の低さ、つまり時給の安さだ。 毎日、生きるために八時間も拘束され、へとへとになって得られるのはリッチとはほど遠い端金。俺にとってバイトをしている時間は、人生の切り売りであり、金を稼ぐためだけの「無駄な時間」そのものだった。
その日の夜、ボロアパートの自室で、テイクアウトで買ったピザをつまみに発泡酒で晩酌をしようとしたときだった。
「こんばんは。私は管理者です」
いつの間にか、俺の薄暗い6畳間に、見知らぬ奇妙な男が座っていた。
"管理者"と名乗った男は、開けたばかりだというのに、俺のピザをもう三分の一は食べてしまっていた。
「それ!デリバリーは割高だからテイクアウトした俺のピザ!!」
男はさらにピザをこれでもかと口に詰め込み、残りのピザは1ピースになっていた。
そして手も拭かず、手元にある奇妙な計器をパチパチと操作した。
「あなたの性質が善か悪かなんてどうでもいいんです。ただ、あなたが不満を持っているのは、このメーターが示している。なので、その不満を解消するため、あなたが満足する世界にご案内いたします!」
「せめて最後の1ピースを──」
視界が、真っ白に染まった。
───
翌朝。 俺のアパートのチャイムが鳴った。ドアを開けると、仕立ての良いスーツを着た男が立っていた。
「突然の訪問、失礼いたします。私は『時間買取センター』の係員です」
男は丁寧なお辞儀をし、一枚の契約書を差し出してきた。
「我々は、あなたの『時間』を買い取ります。買取価格は、お客様ご自身の言い値で構いませんよ」
言い値。 俺は一瞬考えた。現在のバイトの時給の倍の金額をふっかければ、引き下がるだろう。
「……じゃあ、これでどうだ」
「承知いたしました。では、毎日『八時間』を買い取らせていただきます」
契約書にサインをした後、係員から時間を売却した後の仕組みについて説明を受けた。
俺にとって、売った八時間は最初から存在しなくなるのだ。
つまり、これからの俺の一日は、二十四時間ではなく十六時間になる。
そして、スマートフォンの通知が鳴る。
驚くべきことに、画面には口座への入金通知が届いていた。
これまでのバイトで得られる額の倍。さらに、完全なる不労所得。
「おいおい、これ最高じゃん……!」
バイトをしなくていい。無駄な時間を飛ばすだけで、働いていた頃の倍の金が毎月自動的に入ってくるのだ。
───
不労所得を得た俺は、これまで我慢していた趣味にお金を使い始めた。
欲しかったゲーム機を買い、ソーシャルゲームのガチャに限界まで課金する。 生活はどんどん贅沢で浪費的になっていった。
しかし、自由に使える金が増えるにつれて、俺の欲望はさらに膨んでいった。
「今度は旅行に行きたいな」
「高級な焼肉や寿司を毎日食べたい」
「推しのアイドルのイベントに全部通いたい」
やりたいことが増えれば増えるほど、軍資金が足りなくなる。 俺は時間買取センターの担当者を再び呼び出した。
「追加で、睡眠時間を売りたい。八時間も寝るなんて人生の無駄だ。六時間、いや、四時間で十分だろ」
睡眠時間をさらに四時間売ることで、毎月の不労所得はさらに上乗せされた。 俺はその金で、さらに贅沢な暮らしへと生活水準を上げていった。築古のアパートを出て、新築の綺麗なマンションへと引っ越した。
───
しかし、数ヶ月が経った頃。 俺は奇妙な息苦しさを感じ始めていた。
ちょっと贅沢しすぎているが、あの頃よりは金はある。
しかし、俺には「時間が全くない」のだ。
もっと金が欲しい、もっと遊びたいと、移動時間や風呂の時間、ありとあらゆる「無駄に見える時間」を切り売りし続けた結果、俺に残された一日の時間は、ついに「一時間」にまで圧縮されていた。
かつてフリーターだった頃、「いくらでも暇な時間がある」と持て余していた生活とは完全に真逆だった。
一日のうち、俺の意識がはっきりしているのは、わずか一時間しかない。 その一時間の間に、俺はすべてをこなさなければならなかった。
そこで俺は、初めて気づいた。 人間が生きるためには、スケジュール帳に書かれる「睡眠・食事・趣味」だけでは足りないのだ。
目的地までの移動。 部屋の掃除、溜まった洗濯。 スーパーへの買い物。 役所での各種手続き。 体調が悪い時の通院。 レジや信号の待ち時間。 友人や家族との人付き合い。 そして、何をするでもなく、ただぼーっと過ごす時間。
そうした「何気ない雑事の時間」こそが、人間の生活の土台だったのだ。 それらをすべて「無駄」として売り払ってしまった俺の生活は、物理的に破綻していた。 目覚めた瞬間、部屋はゴミで溢れ返り、洗濯物は山をなし、自分の意思でどこかへ出かける余裕すらなく、一時間は一瞬で過ぎ去って意識が消える。
───
「売った時間を、返してくれ!」
俺は一時間の覚醒時間の中、這うようにして『時間買取センター』に駆け込んだ。 応対した担当者は、冷徹な微笑みを浮かべて、一枚のタブレット端末を提示した。
「買い戻しですね。では、現在の『時間の時価相場』でのご請求となります」
画面に表示された金額を見て、俺は絶句した。
「……え? 売ったときの二百倍? 何だよこれ!」
「ええ。お客様が最初にその価格を『言い値』としてご指定されましたから。しかし、現在の市場における時間の価値は、その二百倍に高騰しております。当然、買い戻しには時価が適用されます」
「そんな金、払えるわけないだろ!」
「では、買い戻しは不可能です。 時間を売って買い戻すことも……お客さまは、これ以上時間を売ると残り0時間となり、実質的に消滅してしまいますので……それも非常に難しいかと」
絶望する俺の脳裏に、このシステムの冷酷な構造が浮かび上がった。
時間を持て余し、その本質的な価値を知らない底辺の人間にとって、時間は安値で売り払う無駄なゴミだ。 しかし、時間がどうしても必要な富裕層や寿命間近の権力者にとって、時間には高額を払ってでも手に入れたい、極めて巨大な価値がある。
この制度は、時間の価値が低い人間から命を安値で買い叩き、それを必要とする人間へ分け与える、システム側にとって完璧に合理的な「Win-Winの制度」だったのだ。
俺は、あの夜、係員が言った言葉を思い出す。
『言い値で構いませんよ』
これは、甘い罠なのか、それとも一般的なことなのか…
「……『言い値』って……」
俺は、一時間しか残されていない今日の終わりのカウントダウンの中で、涙と鼻水にまみれて絶叫した。
「相場くらい教えろよおおおおおおお!!」
───
管理者は、手元の新型メーターの数値が綺麗に収束していくのを眺め、満足げに頷いた。
「必要ないから、必要な人に売る!うーんエコロジー!」
管理者はメモを書き留めた。
「時間を売買できる世界 大成功S」
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