第十六話 朝起きられない男
俺の名前はF、二十六歳。どこにでもいる会社員だ。
毎朝、アラームの音を聞くたびに、俺の魂は肉体という檻の中で絶望の悲鳴を上げている。
「朝、起きるのしんどすぎる。布団と融合したまま、気づいたら会社に着いて仕事が終わってればいいのに」
なんとか布団から体を引っ剥がし、コンビニで朝食用のサンドイッチを買い、駅に走る。
ふと気づくと、隣を同じ速度で走る奇妙な男がいた。
「おはようございます。私は管理者です」
”管理者”は並走しながら、俺のレジ袋から慣れた手つきでさっき買ったサンドイッチを抜き取る
「……え?なんだこれ怖い」
包装を適当にバリバリと破り、両手の平の間でサンドイッチを丸めて齧りだす。
「キモイキモイキモイキモイ!」
「あなたの性質が善か悪かなんてどうでもいいんです。ただ、あなたが不満を持っているのは、このメーターが示している。なので、その不満を解消するため、あなたが朝起きなくていい世界にご案内いたします!」
「おい、待て、つっこみどころが多す──」
言葉が遮られ、視界全体が真っ白に染まった。
───
気がつくと、俺は朝の洗面台の前に立っていた。
「あれ……? 夢だったか」
夢うつつのまま、身体が勝手に動いて歯を磨き、着替えを済ませ、トーストを口に運んでいる。 テレビの中では、朝の顔である男性キャスターが元気よく叫んでいた。
「今日も一日、はりきっていきましょう!」
自動運転のように、気づけば会社のデスクに座っていた。始業時間の少し前、ようやく頭が完全に覚醒する。
「え?これって、最高じゃん!」
布団の中で苦しむあの地獄のプロセスが、完全にスキップされたているのだ。
───
だが、一ヶ月が過ぎた頃。
「ヤバっ!」と、俺が完全に意識を取り戻したとき、パソコン画面に表示された時計はすでに始業開始から五分を過ぎていた。
身体は勝手に動いて完璧にマウスを操っているのだが、意識が目覚めるのがどんどん遅くなっている。
一年後。ついに、始業開始から一時間後に目が覚めるようになった。
「……まあ、仕事は身体が勝手に終わらせてくれてるし、誰にも怒られないからいいか」
── 八年後。
フッと意識がクリアになった瞬間、俺の耳に定時退社を告げるチャイムの音が響いた。
「これはさすがにマズくないか……?」
丸一日、俺の魂は「眠り」の中にいたのだ。しかし、オフィスを見渡すと、同僚たちも全員、焦点の合わない夢うつつの目でカタカタとキーボードを叩いている。周囲も同じ状態なので、誰も咎める者はいなかった。
───
二十四年後。
人類は完全に「眠ったまま生活できる生物」へと進化を遂げていた。
全人類が眠った状態のまま満員電車に揺られ、眠ったまま会議をこなし、眠ったまま居酒屋でビールを飲み、人生を極限まで謳歌していた。
テレビをつけると、いつもの朝の顔のキャスターが、完全に目を閉じたままマイクに向かって呟いている。
「……ムニャムニャ……」
この世界で、うっかり「起きて」仕事や勉強をしている者がいると、眠っている周囲の人間から激しく怒られた。
「ちょっと、起きてガタガタ音を立てるのやめてくれない? こっちは眠ってるんだから!」
もはや、覚醒こそが「エラー」であり、睡眠こそが「仕様」だった。
───
それからわずか数日後のことだった。
地球規模の大規模な地殻変動が突如として発生した。地殻が激しく裂け、灼熱のマグマが地上を覆い尽くしていく。物理的な世界の、完全なる破滅だった。
しかし、人類がパニックを起こすことも、恐怖に震えることも、泣き叫ぶこともなかった。
誰もが心地よい夢を見たまま、温かい布団に包まれているかのような安らぎの中で、静かに、ただ安らかに、眠ったまま永遠に眠った。
───
「ん?」
管理者はめずらしくあることに気付く。
「そういえば、私の送った世界は『眠ってる間も活動できる世界』だったはず……。覚醒しなくなる世界ではないな」
そして、管理者はこの仕事ぶりに覚えがあった。
「ふむ。『せめて苦しまないように』という、清掃部の破壊神さんの粋な計らいかもしれないな……」
管理者は、「隣の部署」のダイナミックな仕事ぶりに少しだけ肩をすくめると、なんとも言えない不服そうな顔でメモを書き留めた。
「朝起きなくていい世界 実験施設の破壊により結果検証不能」
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