第十三話 謝りたくない男
俺の名前はH、三十歳。どこにでもいる会社員だ。
世の中には、不思議なルールがある。何かミスをしたとき、とにかく頭を下げて「申し訳ありません」と言わなければならないというルールだ。
俺はこの儀式が死ぬほど嫌いだった。 謝ったところで、壊れた機械が直るわけでも、失ったデータが戻るわけでもない。謝罪なんて、問題を解決するためではなく、自分が怒られないようにするためのただの儀式だ。
ある日の夜、俺は取引先へ持参するための「お詫びの品」を自腹で買い、帰路についた。老舗の和菓子屋で買った、ずっしりと重い高級な羊羹の桐箱。それを見つめているだけで、また胃のあたりが酸っぱくなった。
「謝るだけで許されるなら誰も苦労しない。羊羹で問題が解決するかよ」
ため息をつきながら、駅前の公園のベンチに腰を下ろした、その瞬間だった。
「こんばんは。私は管理者です」
いつの間にか、隣に奇妙な男が座っていた。 男は、あの羊羹を両手に持ち、交互に舐めている。
「おい。それは俺が取引先に持って行く……」
”管理者”は、気にする様子もなく、手元にある奇妙な計器をパチパチと操作した。
「あなたの性質が善か悪かなんてどうでもいいんです。ただ、あなたが不満を持っているのは、このメーターが示している。」
「勝手に食ったこと謝れよ!まずはそこからだろ!」
「なので、その不満を解消するため、あなたが輝ける世界にご案内いたします!」
「おい、話を聞けよ、おま──」
言葉が遮られ、視界が白に染まった。
───
気がつくと、俺はいつもの自室のベッドにいた。
「夢……? 俺は羊羹を届けたんだっけか?」
困惑しながらも、俺は出社した。そして、いつものようにトラブルが発生した。 俺の連絡ミスで、取引先への納品数が一桁足りなかったのだ。
上司が、血相を変えて俺のデスクにやってきた。
「Hくん! これはどういうことだ! 先方からクレームが入っているぞ!」
俺はいつものように、形だけのポーズをとることにした。
「申し訳ありませんでした」
俺は椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
しかし、上司の反応はおかしかった。
「……もうしわけ……? なんだ、それは」
上司は、怒るのを忘れたかのように、怪訝そうな顔で俺を見つめている。
「え? ですから、お詫びを……」
「おわび? 何を言っているんだ。君はふざけているのか? それとも何かの宗教のジェスチャーか?」
上司は本当に、俺の言葉と「頭を下げる」という行為の意味が理解できないようだった。
「いや、その、私がミスを認めて、反省しているということです」
「ふむ。ミスをしたことは分かった。ならば、今すぐ不足分を発送する手配をしなさい。今後は二度と間違えないように気をつけろ」
上司はそう言うと、首を傾げながら去っていった。 いつもなら粘着質に一時間は説教されるはずだったが、やけに曖昧で実務的な指示だけで終わってしまった。
俺は不思議に思い、隣の同僚に声をかけた。
「なあ、昨日は仕事を手伝ってもらったのに、お礼も言わずに先に帰ってごめん」
同僚は眉をひそめた。
「ごめん? なんだその言葉は。どこかで流行ってんのか?」
「いや、悪いなと思って。謝ってるんだよ」
「謝る? よくわからないな。昨日は君の代わりに作業をした。それは事実だ。なぜ君がそんな奇妙な言葉を口にするんだ?」
俺は確信した。 この世界には、「謝罪」という概念そのものが存在しないのだ。
そこからの生活は、信じられないほど快適だった。
謝らなくていいということは、これほどまでに精神を摩耗させないのか。
遅刻をしても「電車が遅れました。今から仕事を始めます」と言えば、上司は「そうか、始めなさい」と言うだけ。
仕事でミスをしても、ただ「失敗しました」と報告すれば、周囲は「まぁ、気をつけよう」という曖昧な状態になるだけ。 誰も俺の人格を否定するように怒鳴らないし、俺も卑屈に頭を下げる必要がない。 俺のプライドは傷つかず、毎日が快適そのものだった。 俺はますます調子に乗り、確認作業を怠り、横柄な態度で過ごすようになっていった。
───
しかし、ある雨の日。 すべてが暗転した。
俺は車を運転中、スマホの通知に気を取られ、赤信号を見落とした。
── ガツン、という鈍い衝撃。
横断歩道を渡っていた、ランドセルを背負った小学生の女の子が、フロントガラスを転がって道路に叩きつけられた。
幸い命に別状はないようだったが、女の子はショックから意識不明のまま、救急車で運ばれた。
さすがの俺にも、人並みの良心はある。青ざめ、パニックになりながら、病院へ駆けつけた。
待合室には、泣き崩れる母親と、怒りに肩を震わせる父親が立っていた。
俺は反射的に、彼らの前に歩み寄り、床に膝をついた。額を冷たい床に擦り付けながら、涙を流して叫んだ。
「本当に、本当に申し訳ありませんでした! 私の不注意です! ごめんなさい、ごめんなさい!」
喉をからして、心から、生まれて初めて本当の「謝罪」を口にした。
しかし、父親は冷たい目で、俺を見下ろしていた。
「あなた……いったい何をされているんですか? 急に床に這いつくばって。不気味です、やめてください」
「違います!謝っているんです!許してください!」
「謝る? 許す? 何を言っているのか理解できません。あなたが起こした事故で娘が苦しんでる。それがすべてです」
母親も、憎悪に満ちた目で俺を睨みつける。
「法的な損害賠償、および治療費、慰謝料については、すべて弁護士を通じて100%請求させていただきます。警察の捜査にも全面的に協力し、あなたには然るべき刑事処分を受けてもらいます。当然の処理です」
「分かっています!どんな処分でも受けます!だから、本当にごめんなさい!」
「まだ、その無意味な言葉を連呼するのですか。そんな時間があるなら、早く警察の取り調べを受けに行ってください。あなたのその不可解な態度は、不快極まりない」
彼らの目には、俺に対する純粋な「憎悪」と「嫌悪」があった。
この世界では、どれだけ謝っても、相手の怒りは少しも和らがなかった。
「申し訳ありません」という言葉が、何の意味も持たないからだ。
俺は、そこで初めて気づいた。
謝ることは、許してもらうためじゃない。
許すかどうかを話し合うための、最初の一歩だったのだ。
その一歩すら、この世界にはなかった。
どれほど俺が涙を流して頭を下げても、その行為はただの「無意味な奇行」として処理される。
残ったのは、100%の憎悪と、冷酷で事務的な法的処罰の手続きだけだった。
「違う、俺は謝りたいんだ……。許してくれなくていい、ただ、謝らせてくれ……!」
どれほど謝ろうとしても、仕様は厳格に適用され続ける。 自分が犯した罪の重さと、相手の冷え切った憎悪だけが、一切薄まることなく、Hの僅かに残った良心を永遠に磨り潰し続けた。
───
管理者は、メーターを見つめ、ポツリと漏らす。
「謝罪しなくなったのに、不満メーターは減らないなぁ。少し様子見かな?」
管理者はメモに書き留めた。
「謝罪のない世界 判定保留」




