第十二話 猫の従者になる男
俺の名前はY、三十歳。しがない会社員だ。
俺には、どうしても手に入らないものがある。それは、猫の心だ。
猫が死ぬほど大好きなのに、なぜか俺は猫に全く懐かれない。野良猫に声をかければ脱兎のごとく逃げられ、猫カフェに行けばすべての猫に無視される。意思疎通なんて夢のまた夢だ。
「一度でいいから、あいつらの考えてることがわかればなぁ……」
会社帰りの深夜。公園のベンチで、遠くからこちらを極限まで警戒している野良猫を見つめながら、ため息をついた。
その瞬間、俺の横にあったコンビニ袋から、カサリと音がした。
「こんばんは。私は管理者です」
見ると、ベンチの隣に見知らぬ男が座り、俺が買ったおでんの「ちくわ」をストローにして、そのつゆを吸い込んでいる。
「あなたの性質が善か悪かなんてどうでもいいんです。ただ、あなたが不満を持っているのはこのメーターが示している。なので、あなたが輝ける世界にご案内いたし……」
”管理者”が手元の計器を操作しようとした、その時。
ピピピピピ、と、計器が鋭い通知音を鳴らした。
「おや?」
”管理者”が視線を向けたのは、俺ではなく、道路の脇。
激しい車の騒音と排気ガスに身を縮め、怯えたように震えている、さっきの泥だらけの野良猫だった。
「なるほど。もう一人、強い不満を抱えている方がいるようですね。……よし、では今回の実験は少し趣向を変えてみましょう。」
”管理者”はニヤニヤと笑うと、俺と猫を同時に指差した。
「お二人が輝ける世界へ、ご案内いたします!」
視界が、真っ白に染まった。
───
気がつくと、俺は見知らぬ豪華な宮殿の大広間にいた。
隣には、あのときの猫が、ちょこんと座っている。
「……にゃあ」
猫が小さく鳴いた。その瞬間、俺の脳裏に、はっきりとその「言葉」が浮かんだ。
(うるさいところ、きらい。ねむい)
「えっ、言葉がわかる……!?」
俺が驚愕していると、周囲から「おおお……!」という、地鳴りのような歓声が上がった。
見回すと、きらびやかな衣装をまとった大勢の人々が、床に平伏している。彼らは俺たち──いや、俺の隣にいる猫を見つめ、涙ぐみながら拝んでいた。
「なんて可愛らしく、それでいて気高い存在なんだ……」
「あれこそ、神様がお姿を変えて舞い降りられたお方に違いない!」
どうやらこの世界の人々は「猫」を見たことがないようだ。王から「怪しい奴」と怪しまれても、出自をまともに説明できない身だ。彼らが勝手に勘違いして平伏してくれる状況に、私は少しホッとしていた。
だが、問題が一つあった。
俺たちの前に跪いた、この国の王とおぼしき男が、涙ながらに何かを熱心に語りかけているのだが……。
「◇▲○✕、■★◆……?」
何を言っているのか、さっぱりわからない。
俺は猫の言葉は完璧に理解できるようになったのに、今度はこの世界の人間と言葉が通じないのだ。俺にできるのは、身振り手振りと、片言の簡単な単語を発することだけだった。
猫が、豪華な玉座を見上げて鳴いた。
「にゃおーん」(あのふかふかなところで、寝たい)
俺は玉座を指差し、跪く王に向かってジェスチャーを交えて必死に伝えた。
「猫、 あそこ、 座る」
王は一瞬、目を丸くしたが、すぐに深く頭を下げた。
「か、かしこまりました! 神の御心のままに!」
こうして、猫がこの国の「王」となった。
俺はその言葉を伝える「神の従者」として扱われることになった。
───
ある日、国の行政を司る元側近の男が、何やら深刻な顔をして、猫の前にこの国の地図を広げた。
「◆▲★■、○✕◇……?」
明らかに難しい政治の相談だが、俺にはまるでわからない。
すっかり玉座がお気に入りの場所になり、そこで丸くなっていた猫が、耳をピクッと動かして、短く鳴いた。
「にゃ」(のど乾いた)
俺は自分の喉を叩き、側近に向かって一言だけ、必死にジェスチャーを交えて伝えた。
「水(が飲みたいそうです)」
側近はハッと息を呑み、地図と俺の顔を交互に見つめ、その場に激しく平伏した。
「……なるほど! 国土の乾きを潤すため、大規模な水路の整備を行え、との御神託ですね!」
彼らがすぐさま国中で大がかりな水路整備を行った結果、翌年に襲いかかった未曾有の大旱魃から、国は無傷で救われた。
また別の日。
元王が、周辺国家の勢力図を描いた羊皮紙を広げ、青い顔をして何やら熱弁を振るっていた。
猫はそんなことより、ただ窓の外を眺め、尾をパタパタと振っている。
窓の向こうの木には、小さな一羽の鳥が止まっていた。
「にゃう、にゃう」(とり。近くで、見たい)
俺は窓の外を指差し、元王に向かって両手をパタパタと広げた。
「鳥 近く(で見たいそうです)」
元王は驚愕の表情を浮かべ、窓の外、そしてはるか東の空を見つめた。
「……鳥は、東隣の国のシンボル。つまり、戦うのではなく、隣国と密接に国交を結んで距離を縮めよということか……!」
すぐさま平和外交が結ばれ、数ヶ月後に勃発するはずだった悲惨な隣国との戦争は、奇跡的に未然に回避された。
最後に余談になるが──
後世の歴史において、この国では『猫王~偉大なる予言王~』という分厚い書籍が編纂され、彼が遺した数々の「神託」は、国内で知らない人がいない奇跡の逸話として、何百年も語り継がれることになった。
───
管理者は、手元の計器の数値を満足げに見つめながら言う。
「人間は問題なく成功だな。猫は……神を暗殺しようとは考えないだろうから、安全か」
管理者はメモに書き留めた。
「人間が猫語を解し、猫が超安全な世界 成功」




