おまけ(小話詰)
本編完結からかなり間が開いてしまって申し訳ありません。お待たせしてしまった皆様に謝罪とお礼を申し上げます。
キャラ設定もつけるつもりで7000字くらいのものをかいていたのですが、本編以外で書くのはずるいかなと思い、悩んだ末に掲載しないことに決めました。楽しみにしていてくださった方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。そして以前感想欄にて、セトラーとユンスのやり取りについておまけで触れると回答していたのですが、キャラ紹介をカットしたことによってそちらの裏話も掲載できなくなりました。重ね重ね謝罪申し上げます。
さて、掲載した小話ですが、5つのうち3つは活動記録からの再掲載になります。
小話の内容は本編連載中から決めていたものですが、折しも季節に丁度良い内容になったと思い、年内に投稿できたことにほっとしております。
【黒猫がにゃんと鳴く】(猫の日記念、二章終了後のお話)
「ニャーニャー」
「にゃにゃにゃー」
「ニャニャー?」
「にゃ!にゃーにゃ」
聞こえてきた不思議な声に、マーシャルは辺りを見回した。団舎の図書室から本を借りてきて、隊舎へと運ぶ途中でのことだ。カンカンと照り付ける日光が、両手に抱えた本の表紙に反射していた。新しく入ったばかりの本なので、臙脂色の皮がてかてかと光っている。片膝を上げて積み重ねた本を抱えなおすと、 マーシャルは声の出どころと思わしき草むらに踏み寄ってゆく。生い茂る草たちが、むき出しの膝小僧をくすぐった。
「キルシュさん、何してるんですか」
「あら、見つかっちゃった」
七番隊の隊舎の裏を除くと、日蔭に隠れてキルシュが座り込んでいた。膝を抱えてご機嫌な様子だ。見て見て、と両手をこちらに突き出した。彼女が持ち上げているのは、眠そうな顔つきをした猫だった。白と薄茶の縞模様の体をしている。だらんと垂れ下がった二本の足と尻尾は、日陰で涼むそこらの人間と大差ない。
「知り合いが猫愛好家でね、三日間だけ世話してくれって頼まれたのよ」
「野良じゃないんですか?」とマーシャル。
「ううん、違うわ。その知り合いっていうのが、魔眼もち猫限定で飼ってるのよ」
「魔眼?」
首をかしげると、キルシュが丁寧に教えてくれた。魔眼というのは魔力を秘めた目のことで、希少価値も高く、魔法師たちの間で人気らしい。王立学院に通う貴族の子弟たちの間では、いかに美しい魔眼もちを手に入れられるかという競争が起こったこともあるという。くああ、と欠伸をした猫の瞳を、マーシャルは屈んで覗き込んだ。紫紺の瞳に金箔を散らしたような瞳が、こちらを見つめ返してきた。猫とマーシャルが見詰め合っている傍らで、キルシュがクスクスと笑う。
「この猫、ちょっとシャリーちゃんに似てるわ。茶色の縞とか、紫の目とか」
「えー?そうですか」
いかにも呑気そうな猫に似ているといわれ、マーシャルは複雑な気分を味わう。他にも五匹ほど猫がうろついていたので、そちらに目を遣って一匹を抱き上げた。にゃーと一度抵抗したきり、猫は大人しくなる。暴れるのが面倒になったようだ。
「この子は、キルシュさんに似てますよ。ほら、毛の色がきれいな黄色です」
キルシュのハニーブロンドの髪と、ひまわり色の猫を見比べる。キルシュは「本当?」とはしゃいだ声を上げた。一しきりその話題で盛り上がった二人だが、不意にキルシュが「あ!」と口に手を当てた。その視線の先を追うと、先ほどまでは見なかった猫が悠然と歩いている。大きな水瓶の上に飛び乗って、その木蓋の上でゴロンと丸くなる。――――マーシャルは、僅かに眉根を寄せた。
「あの子、ユンスくんに似てるわね。シャリーちゃんも、そう思ったでしょう」
キルシュがそっと撫でた猫の体は、耳の先から尻尾の先までが真っ黒だった。陰に入ってなお、その体毛の艶やかさが際立っている。耳の中だけがきれいなピンク色をしていた。そうですか?とマーシャルは言ったが、内心では確かに黒猫とユンスティッドは似ていると思っていた。悠然と歩いてきたときの雰囲気など、まさに普段の少年にそっくりだ。
マーシャルが近寄って触れようとすると、三角の耳がピクリと動いて、その黄金の瞳が開かれた。左右の目で色の濃さが違って、右目の方が赤みを帯びている。伸ばされた手を黒猫がシャーと威嚇した。
「こんなところまでアイツにそっくり!」
「あらあ、本当」
キルシュは目を丸くした。先ほどの威嚇で闘争心に火が付いたマーシャルは、何とかして黒猫を抱き上げてやろうと機会をうかがう。それを敏感に感じ取った黒猫は、さらに尻尾を膨らませた。一対一の真剣勝負だ。どちらも周りが目に入らなくなってしまっている。隙をついてマーシャルが猫の脇に手を入れるが黒猫の暴れぶりはすさまじく、鋭い爪が腕をひっかいた。夏場なので軽装だったマーシャルは、ぎゃっと飛び上がって叫ぶ。それでも猫を離さないところはさすがだなと、キルシュは感心した。
――――嫌い合ってるのに、自分から突っかかっていくところが何とも……どこかの二人を彷彿とさせる。
そう思ったキルシュだが、賢明にもその言葉を口にすることはなかった。
言ったが最後、不機嫌になった少女の八つ当たりの矛先が向かう相手は決まっているのだから。
◆◆◆
【燦々午後】(珊瑚の日記念(笑)マーシャル、ユンスティッド16歳頃)
その日二人は、エヴァンズに頼まれて港まで買い出しに来ていた。市場には上がってこない希少種の貝を手に入れたいということである。需要が高い商品なので、毎度他の隊や学院の教師との間で争奪戦が勃発するらしい。
『今日は絶対にくる!昨日、水晶玉で占わせたからな。俺は書類の処理で手が離せないから、悪いが取りに言ってきてくれないか』
そう言われて、特に仕事もなかったデュオは、港まで足を運ぶことにした。馬車代も捻出してくれるらしいので、遠慮なく使わせてもらう。歩くと一時間以上はかかる場所だが、朝早くに出たこともあって日が昇る頃には到着した。ガゼルト港の桟橋には大小さまざまな船が揺れていて、漁から戻ってきた男たちの姿がちらほらと見える。
エヴァンズに教えられたとおりに、一番奥にある小さな船の主に事情を話すと、男は豪快に笑った。カラカラというよりガラガラとした、つぶれたような声音をしている。
「今回は嬢ちゃんたちが一番乗りさね。朝早くご苦労なこった。嬢ちゃんかわいいから、安くしてやるよ」
「そんな、煽ててもお金は余分に払いませんからね」
マーシャルが照れ照れと頭をかくと、傍らのユンスティッドが容赦なく言った。
「お世辞だからな。有り金全部はたくなよ」
「わかってるわよ!」
せっかくいい気分に浸ってたのに。マーシャルはぶつくさ言いながら、船の主に銀貨四枚を差し出した。代わりに掌に落とされたのは、閉じたままの大きな貝殻だ。つるりとした表面が虹色に光って思わずため息を漏らした。
「よろしいんですか?」ユンスティッドが男に尋ねた。「閉じている状態の貝なら、もっと高い値段で売れるでしょう」
「いいのいいの!言っただろう、お嬢ちゃんがかわいいから安くするって。いやあ、港にいる女連中と言ったら逞しいおばちゃんばっかでさあ」
男は気前よく答えて、小舟の中に戻っていった。これから二度目の朝漁に出るということだ。二人が見送ろうと待っていると、出港際に男が声を上げた。
「そうだ、そこをまっすぐ行ったところに出店があるんだけどさ。若い娘さんが好きそうなもんが並んでるから、よかったら見て行きな」
「わざわざありがとうございますー!」
「いいってことよー」
マーシャルのお礼を背に、男を乗せた船は再び海へと乗り出していった。手を振っていたマーシャルは、船が小さくなってからくるりと振り向く。
「ちょっと見て行っていい?」
「言うと思った。まあ、好意を無駄にするのも悪いしな。お前が普通の女だと騙してしまった罪もある」
「どういう意味よ」とうろんな視線を向けると、「港にいる女性より、お前の方がよほど逞しいだろう」と返された。
逞しいと言われて剣士としては嬉しいが、年頃の少女としては微妙な気分にならざるを得ない。怒鳴ってやろうと思った時には、ユンスティッドはさっさと出店の方へ歩いて行っていた。地団太を踏みたい気持ちに駆られながらも、その後を追う。
漁師が教えてくれた店は、ベニヤ板で作られた長方形の台に商品を並べただけの簡素なところだった。台には赤いペンキの禿げた跡があって、いかにも海辺の店という雰囲気を醸し出している。
台の向こう側に、ワインボトルを詰めるための木箱をおいて腰かけていた男性が、「っらしゃい!」と愛想のいい声で話しかけてきた。
「おいてあるのは全部珊瑚のアクセサリーだよ。若い女の子に大人気!ようく見てってよ」
その言葉通りに、台の上に並べられているのはピンクの珊瑚をあしらったネックレスやイアリング、ブレスレットなどのアクセサリーだった。宝石に輝きは劣るものの、値段も安価でかわいらしいので、女性に人気という言葉に偽りはないだろう。マーシャルも年頃の娘らしく、目を輝かせて台の上の品物を眺める。ユンスティッドも一歩後ろから、興味深げに珊瑚細工を見ていた。
マーシャルの目が、ピンクの丸い球をつなげたネックレスの上で止まる。目ざとい店主は、すかさず勧めてきた。
「それね!当店の人気ナンバーワン商品なんだよ。お嬢ちゃんお目が高いね」
「ええー、そうですか」
ちょっといい気分になったものの、「ぜひ買っていきなよ。今だったらさらにお安くしとくよ」と言われて、困ってしまう。確かに珊瑚のネックレスは可愛らしくて心をくすぐられたけれど、欲しいというほどではなかったのだ。
押しの強い店主をどう断ろうか悩んでいると、後ろのユンスティッドがはきはきとした口調で言った。
「もう行かなければいけない時間なので、すみませんまた今度で」
「いやでもな、今度だと売れちまってるかもしれないぞ。坊主買ってやりなよ」
「あいにく」ここでユンスティッドは、心苦しいといった様子で微苦笑して見せた。「僕らそんな贅沢をする余裕はないんです。今日もこき使われて……」
小さく嘆息したユンスティッドに、店主は大いに同情したようだった。快く送り出すだけでなく、「頑張れよ、二人とも」と、後ろの方から大声で呼びかけてきた。少年は笑顔で手を振りかえす。マーシャルは、その演技っぷりにあきれ返る。「胡散臭い笑顔ね」と言ってやると、少年の顔からさわやかな笑顔があっさり消え去って、元の無表情が舞い戻ってきた。
「助けてやったんだろう」
「助けてなんて頼んでないわ。それに、買うか迷ってるって思わなかったの?」
「思わなかったな、買うつもりなんてなかっただろう」
マーシャルは立ち止った。言い当てられたことが悔しかったのだ。
「なんでわかるのよ!そんなこと」
むきになって大声を張りあげる。ユンスティッドは振り返ると、マーシャルの首元を指差した。
「なによ……」
「お前、それ以上首からじゃらじゃら下げる気か。その赤いペンダント、外す気なんてないくせに」
不意を突かれてマーシャルはたじろいだ。上手い反撃の言葉が出てこなくて、素直な気持ちのままうなずいてしまう。確かに、このペンダント――――マーシャルが見習いとして出発した日にもらった、祖父からのプレゼントを首から外す気などさらさらなかった。これは私のお守りで、とても大事なものだものと、赤い鉄鉱石をぎゅっと握る。
「ほらな」ユンスティッドはにやりとした。
颯爽と前を行く背中に向かって、マーシャルはわめいてやりたかった。
やられた!下唇を噛む。悔しさを抑え込もうとしたが、気持ちを言い当てられた事実がせせら笑ってくるようで耐え切れなくなる。
それでもこんなところで怒鳴るのも嫌だと思い、前方の背中に向かって足元の小石を思いっきり蹴飛ばしてやった。
アンタなんかに理解されたくないわよ!
◆◆◆
【あたたかな光】(書下ろし、5章後)
宴もたけなわ、盛況だった年越祭も、一段落しようとしていた。王宮中が飲めや歌えやの大騒ぎ、街に出ればそれ以上の狂騒が待ち構えている。新しい年を迎えるに当たり、この一年の厄を全て払い落とそうと朝早くから手足が動かなくなりまで踊り、喉が焼けるほどに酒をかっくらった。子どもを早々と寝かしつけての大宴会だ。
マーシャルはふらつく足を叱咤した。足取りを何とか安定させたかと思うと、今度は頭がぼーとして油断すると意識を奪われそうになる。それが交互に繰り返されること、すでに十回以上……
(かんっぜんに、飲み過ぎた)
ヒック! と喉が引きつる。放っておくと瞼がとろとろと落ちてくる。
それでも何とか隊舎の談話室まで辿り着き、扉を開けて呻いた。「死屍累々」ぼそりとした呟きに反応を返す者はなかった。酔いつぶれた七番隊の隊員たちが屍のようになって床に転がりひしめきあっている。何故か他隊の魔法師までいた。足元も覚束ない中屍を避ける義理はないと、彼らを踏みつけながら暖炉まで進む。どうせ素足だ、踏んでも大したダメージはないだろう。そういえば靴はどこへ行ったのだろう? 脱いだ覚えはないのだけど、いや、そもそも靴を履いていたんだっけ?
暖炉の周りに転がっている酒瓶を蹴飛ばして隅へやり、マーシャルはどっと床に座り込んだ。薪はたっぷり用意してあったので、火はまだまだ煌々と燃えている。夜が明けるまで、持つだろうか。
「お前酒臭い」
「ああ? なんですってえ?」
不躾な声に隣を睨み上げれば、そいつは見知った顔だった。ちょうどいいわと肩にもたれかかる。酒瓶が詰まった箱から適当に見つくろうと、コルクを抜いた。放ったコルクは、偶然にも暖炉へ飛び込んで黒い煙を上げた。
瓶口に口を近づけようとしたところ、距離を見誤ったのか鼻にぶつかった。拍子に芳醇なワインの香りが鼻孔に広がる。縮んでいた思考力までが押し伸ばされて広がり、ますますぼんやりとした。と、突如視界に現れた手が、酒瓶を奪っていった。
「ああ! ちょっと何するのよ」
「もうやめておけ」
「まだまだあ」
「十分酔っぱらってるだろう」
「酔っぱらっても飲むのがマナーってもんでしょ」
「どこのマナーだよ」
マーシャルは無理やり瓶を奪い返すと、また取られる前にと急いで口をつけた。半分ほど一気飲みし、ぷはあと息を吐く。自分の息も酒臭いのだろうが、この部屋自体に酒のにおいが充満しすぎていてもはや区別がつかなかった。瓶を傾けると、残った酒がちゃぷりと音を立てる。表面の円が斜めに歪み、元に戻った。
にやり、と口許に笑みを刻むと、瓶のほっそりとした首を掴んで隣の人間の口に向かって突っ込んだ。歯とガラスがぶつかる音がする。気にせず押し進め、瓶を傾けて酒を流し込んだ……隣の人間の喉に。
「がはっげほっ!お、まえっ」
「へへーん、アンタももっと飲みなさいよ」
眼光鋭くこちらを睨んだユンスティッドは、目を据わらせたかと思うと、自ら瓶を掴んでゴクゴクと飲み下しはじめた。その光景をマーシャルは目を瞬かせながら見つめた。
「良い飲みっぷり」一滴残らず飲み干したユンスティッドに向かって、思わず拍手する。
「どうも」
「アンタ酒強いわよね」
「お前も大概だろ」
「うちの家系は皆そうなのよねー」
腕を組んでうんうん頷いていると、あらぬ方向から酒瓶が飛んできたので慌てて受け取り、床に置いた。誰だ、瓶なんて投げたのは。見つけ出して仕返ししてやろうかと思ったが、視界が霞んでそれは叶わなかった。
暖炉の中で火が爆ぜ、火花が散った。談話室の窓は閉め切ってあるが、強い風が吹くと冷気が忍び込んでくる。ガラスがガタガタと鳴っていた。真夜中が近くなり、高く積もった雪は青い海面のようだ。誰かがその上を隊舎から隊舎へ渡っていく様子は、ひどく幻想的だった。月光に照らされた足跡は、白い貝殻のようで、手を伸ばして拾い集めたくなる。星屑を振りまいたような夜空だった。
ユンスティッドは足を伸ばして、酒瓶を手元で遊ばせていた。
髪と瞳と同じ色の影が、長く伸びて踊っている。
その動きを見つめているうちに、マーシャルの頭もゆらゆらと揺れ動き、そのうち再びユンスティッドの肩の上におさまった。
「今年ももう、終わりね」
実を言うと、ユンスティッドと年明けを迎えるのは今年がはじめてだった。今年は魔法師団の付き合いで、年越祭を王宮で過ごすことになったのだ。今までは家族と過ごしていたからだろうか、ユンスと一緒に新しい年を迎えるなんて、変な感じ。
(変な感じだけど、悪くはない、かな)
うん、結構悪くないかもしれない。
それどころか、良い気分かもしれない。
肩に頭を預けたまま目線を動かすと、ユンスティッドの顔が間近にあった。黒い髪は、今はオレンジ色に見える。マーシャルの髪も赤みがかって見えるのだろうか。聞きたいのだけど、口が重くてうまいこと動かない。瞼もそろそろ限界に近づいていた。
「年明けまでは起きていたかったんだけどなあ」
「寝ろ寝ろ。俺は静かになった方が嬉しい」
「何よ余裕ぶっちゃってさ」
ぶー垂れたものの、その声にもいつもの張りがない。ああ、本当に眠ってしまうかもしれない。欠伸も出ないほどの睡魔が猛烈な勢いで迫っていた。
――珍しく、ユンスティッドと一緒に年明けを祝えると思ったのに、これは無理そうだ。絶対に無理、眠い。
「らいねんは……」
睡魔に対して最後の抵抗を試みた。何かしゃべっていれば、完全に敗北を喫するまでの時間を稼げるような気がしていた。
「らいねんはいっしょに年明けをむかえたいな」
ユンスティッドが振り向く気配がした。至近距離で目が合う。残念だ。いつもだったら、はっきりと瞳の輪郭をたどれたのに。
「らんねんもいっしょにいられるかなあ」
「さあな」
「いっしょにいたいなあ」
思う前から言葉が滑り出していくので、自分でも何を言っているのか理解できていなかった。でも間違ったことは言えない、いやになるほど素直な口だから、あんまり心配はしていない。
トロトロと、とろ火であぶられているような気分だ。意識が、おちる――
「来年だけでいいのか?」
「――え?」
意識がひゅんと眠りの手前まで引き戻された。
「もっと欲張ってみれば?」
目を見張った。寄り掛かっていた肩から頭を起こして、身体ごとユンスティッドに向きなおった。暖炉の火を背にしているので、顔に暗い影が落ちていた。
「酔ってる?」
「お前ほどではないけど」
「よってるんだ」
口角が上がり、唇の間の線がふにゃふにゃと揺れた。
あれだけ飲んでいたのだ、どんな酒豪も酔うに決まっている。泥酔しないだけ凄いのだ。それにしても、何だか嬉しいことばかり言ってくれる。
「それじゃあ何年分くらい予約してもいいのかしら」
「好きにしろよ」とユンスティッド。
これも嬉しい答えだった。
そうか、好きにしていいのか。今日は年越祭だものね、わがまま言ったって許されるわ。
でも、今から言うわがままは今日じゃなくても許してくれる気がした。
それでも、雪に閉ざされた王宮の一画で、二人きりで囁き合うのは特別な秘め事みたいで楽しかったから、今言葉にすることに意味があるのだろう。
「それじゃあ、お願いね――」
……最後まで言い切れたかどうかは、多分ユンスティッドにしか分からないことだった。
瞼の裏に火花の白い跡を見ながら、マーシャルは眠りの世界に落ちていった。暖炉の前で寝落ちたせいか、その晩は夢の中で火の精がぱちぱちと踊るように爆ぜ、爆ぜながら踊っていた。マーシャルの周りでくるくると。それは優しく、一帯はあたたかな光に満ちていた。
いつの間にか火の精と手を繋いでマーシャルまで踊りの輪に加わっていた。ランランと皆で歌を口ずさむ。
来年は、ここにユンスも加わるのだ。
(こんな時だから、もう一つ、わがままを言っておけばよかった)
眠りにつくまで、手を繋いでいたいと。
パートナーだから、言わなくても伝わっているだろうか。同じ気持ちでいてくれるだろうか。
目覚めて、互いの手が繋がっていたら、来年もいい年になるにちがいない。どんなことがあろうと乗り越えて行けると、マーシャルは確信している――ユンスと一緒なら。ユンスが一緒に居てくれるなら。
――ポーミュロンよ、その大いなる力で古き災厄を払い、私たちを新たなる年月へとお導き下さい……
二人が忘れ得ぬ約束を交わしたのは、それから一年後の話だった。
◆◆◆
【お互い様】(本編の3年後くらい)
(※本編後の甘いのか今までどおりなのかよく分からない話です。ちなみに、本編中では、二人に恋愛的な意味での「好き」という言葉を使わせないという作者だけが楽しい縛りを適応していたのですが、小話なので解禁しました)
最終話から三年後くらい。二人が魔法師団の寮を出て、王都のアパートかどこかの一室で暮らしてる頃の話です。寮を出る時に、ユンスのお父さんが「屋敷一つあげるよ」と言ってくれたのですが、広すぎたので却下されました。
山も落ちもなくイチャイチャしてるだけです。
*****
寝間着に着替えたマーシャルは、一分ほど前からユンスティッドの後頭部を見つめていた。彼は夕飯を食べ終えた直後からソファーの上で本の虫と化している。マーシャルが背後に佇んでじっと視線を送ろうと、ちっとも振り向いてくれない。
――――つまんないの。
一週間もユンスティッドの後頭部観察をつづけていたら、いい加減飽き飽きしてくると言うものだ。
ソファーの背に手をかけて、ユンスティッドの横にひょっこり顔を出す。そうしてようやく、数時間ぶりに彼の声を聞くことがかなった。
「早く寝ろよ」
と、それだけ。
機嫌を損ねたマーシャルは、さらに熱心に視線を送った。しかし、いっかな効果は表れない。それどころか、自分の方が眠気を感じてきた。頭の隅からにじり寄ってくる睡魔を追い払おうとするが、上手くいかない。このまま引き下がるなんて、絶対に嫌だった。
大した時間もかけずに、口から妙案が滑り落ちる。
「キスしてくれたら寝るわ」
黒曜の瞳がちらりとこちらを見た。視線のあと、すぐに唇に熱が訪れる。軽いキスだったけれど、単純なマーシャルの機嫌は上向きになった。
二人の唇が離れたと思ったら、すぐにまた合わさった。二回とも、顔を近づけたのはユンスティッドの方からだった。
名残惜しげに唇を離したマーシャルは、はて、と首を傾げた。
「何で二回?」
「したかったから」
「そう?」
ユンスティッドはすぐに視線を元のように本に戻してしまった。マーシャルはソファーを回り込んで、ユンスティッドの隣に腰掛けた。何だか嬉しくて両足をぶらつかせたあと、ごろんと上半身を横に倒した。頭があたたかい膝の上に乗る。薄目を開けると、白い天井と本を持ったユンスティッドの手が視界に飛び込んできた。顔の上に落ちた薄暗い影に安心感を覚えて、そのまま睡魔に身をゆだねようとしたが、頭上でいきなり本を閉じる音がして、ビクリと体を揺らした。ページを閉じた表紙に起こった風で、前髪が微かにそよぐ。
ユンスティッドはマーシャルの手首を掴んで引っ張り起こした。重い瞼を擦るマーシャルを、ずるずると引き摺って居間を出た。
「寝るならベッドで寝ろって」
もう何べんも言い聞かせているのでうんざりしているのだろう、ユンスティッドは呆れていた。マーシャルは、ぷいっと顔をそむけた。だって、と言い訳がましく口を開く。
「だってユンスまだ起きてるじゃない」
「お前から離れたところでなら寝る」
「何でよ」
「お前たまに寝相悪いだろう」
マーシャルはムッとして立ち止まった。そんなことないわよ、ベッドから落ちたことはないもの、と思ったものの、寝てる間微動だにしないこの男に対しては反論しにくかった。唇が自然とへの字に曲がる。
「……言っとくけど、ベッド一つでいいって言ったのアンタだからね」
「…………」
短い廊下に沈黙が下りた。私の寝相にケチなんてつけるからよ、ざまあみろと思っていると、いきなりユンスティッドが振り向いた。何事かと構える暇もなく、鼻をつままれ気道の一つを塞がれる。ぐっと息が詰まって、反射的に呼吸のために口を大きく開けたところで、舌が侵入してきた。口内が急激に熱くなった。喉の奥に舌が触れて、目頭にまで熱がともる。こんな風に舐めまわされて、いつか歯と口蓋まで溶けてしまうのではないかと、毎度のことだがマーシャルは懸念した。
(誤魔化したいときにとりあえずキスしてくる癖、直らないわよね)
直されたら困るので、指摘してやらないけど。
「アンタさ」まだ荒い息を整えてつづけた。
「キスするの好きよね」
ユンスティッドは肯定する代わりに、こう切り返してきた。
「他人のこと言えないだろう」
「……言えないわね」
ほらみろ、と言うような視線を向けられて、マーシャルは釈然としない思いを味わった。してやったと思ったばっかりなのに、なんだろうこの敗北感!でもキスが好きなのは本当だし、大体お互いバレバレなのだから、隠したところで嘲笑されるだけだ。何より、キスの回数が減ったら損をするのは双方ともに同じだった。
(それに、たくさんキスすると、コイツの口緩くなるのよね)
反対に言えば、そうでもしないと、滅多にユンスティッドの口から「好きだ」なんて聞けないのだ。マーシャルはしょっちゅう浴びせかけているのにもかかわらず。
「なんか不公平だわ」
ちょうど目の前にあったむき出しの肩に、マーシャルは噛みついた。首の付け根に近い部分に歯を立てられて、ユンスティッドが「おいっ!」と声を上げてぎょっとする。その反応に何とか溜飲を下げて、マーシャルはユンスティッドにねだった。
「足りないから、もっと頂戴」
「寝るんじゃなかったのか」
「嫌なら別にいいけど」
「はいはい――――お望みどおりに」
ユンスティッドの口調は仕方ないなという感じに溢れていたけれど、本人の表情がそれを裏切っていたので可笑しかった。
ユンスティッドはマーシャルを抱き寄せた。彼の腕がマーシャルの髪をすくい上げて、腰から背中を撫でる。額をくっつけて、鼻先を擦り合わせるようにした。瞬きさえ惜しい。
「本はもう読み終ったの?」マーシャルは小首を傾げた。
「物事には優先順位ってものがあるだろ」
優先順位ねえ。思考を巡らせたマーシャルは、ハッとしてユンスティッドに預けかけていた上半身を起こした。
「いっけない!明日の早朝、剣師団で稽古する約束してたんだった」
近所迷惑になりそうな大声で叫んでから、再びハッとして口を押える。そろそろと見上げると、案の定ユンスティッドが不機嫌な面持ちでこちらを見ている。じとっと睨まれた。背中を冷や汗がだらだら流れていく。
「お前、自分から誘っておいてそれはないだろう」
「あっははー、ごめん。約束のこと、すっかり忘れてて」
「記憶力これ以上低下させてどうするんだよ」
「な、なによ。失礼ね……」
いつものように言い返すものの、視線は完全に下を向いて、床板の境目をなぞっていた。とても近いところから、嘆かわしげなため息が漂ってくる。ここまでの自分の言動を思い返したマーシャルは、全面的に非を認めることにした。三日ほど構ってもらえない気配が濃厚だ。何で大事なこと忘れてたのよ私……
ユンスティッドの腕が背中から離れていく。自業自得だと分かっていても、しおれるのは仕方がなかった。そのしょんぼりとした様子を見て、ユンスティッドは肩を竦め、マーシャルの左手の指に自分の指を絡めた。
「いいよ、別に」
「お、怒ってないの?」
「怒ってないよ」
「本当?良かった」
ほっと安堵するマーシャル。ユンスティッドは苦笑した。
「これぐらい怒ってたら、俺の血管とっくに切れてるぞ」
「そ、それは悪うございましたね」
「それに、こんな時にお前と喧嘩したら損なだけだろう?」
ユンスティッドの手に引っ張られるに任せて、マーシャルは持ち上がった自分の左手を――――その小指に嵌った細い指輪を眺めた。廊下の照明の淡い光を反射して、銀色にキラキラと光っている。マーシャルの目元と口許が一気に緩んだ。ふふふ、と無意識のうちに笑いがこぼれる。
「浮かれすぎ」
「いいじゃない、浮かれたって。嬉しかったんだもの」
マーシャルは、ユンスティッドに思いっきり抱きついた。
「大好きよっ」
そのままユンスティッドの体をずんずん押して行って寝室に入り、えいやと勢いよくベッドに押し倒した。
心の声が勝手に溢れだしていった気がしたけれど、どうしようもなかった。だから、いつもはあんまり左小指には目を遣らないようにしているのだ、人前でこうなると困るから。マーシャルに抱きつかれ押し倒された状態のユンスティッドは、胸の上に乗った茶色い頭を撫でた。
「明日早いなら、俺が浮かれるようなことばっか言ってないでさっさと寝たら」
マーシャルは少し眉根を寄せて思案した。このままずっと抱きついていたいと思うけれど、翌朝の約束のことが脳裏をちらつく。
「じゃあ、あと一回だけキスしましょう」
精一杯の妥協だったが、ユンスティッドに不思議そうに聞き返されて、ぐっと詰まった。
「一回?」
「に……二回」
「それだけ?」とユンスティッド。
「さ、三回!」
「もう一声」
「バナナの叩き売りじゃないんだからね?!」
ドンっと胸を軽く叩いた。
ああもう、しょうがないから流されてやるか。
「じゃあ、私が飽きるまでね」
「それだと、いつまでたっても終わらないぞ」と、ユンスティッドが意地悪く笑った。にやりとした笑みを返す。
「分かってて言ってるのよ」
だって、いつまでだって飽きないだろうから。そう言うと、性質の悪い奴、という声が聞こえてきた。性質が悪いのはどっちよ。ユンスティッドの明日の予定が読書だけなのは調査済みなのだ。それに、稽古でくたくたになって帰ってきた私から、お帰りの言葉一つで疲労を吹き飛ばしてしまう、アンタの方がよっぽど性質が悪い。
ユンスティッドの瞼がわずかに下がった。ベッドの上に寝転がったからだろうか。それとも身じろぎもせずにソファーで本を読んでいたせいだろうか。彼が眠気を感じ始めたのをマーシャルは見逃さなかった。すかさず、その広い額に頭突きをしてやる。ゴンッ、と鐘の鳴るような音が響き、ユンスティッドが額を押さえて、呻き声をこらえた。マーシャルの額もジンジンと痛んでいたけれど、気にせずにからかった。
「夜は長いけど、大丈夫?シルバート君」
すうっと、ユンスティッドの黒曜の瞳が細まった。至近距離から頭突きをお返しされる。
「いった!何すんのよ」
「いや、もう少し馬鹿になってくれた方が好都合かなと」
「はあ?!冗談じゃないわよ!」
真顔で何を言い出すのか、訳が分からない。長年一緒に居るけれど、思考が読めないなんて。これ以上頭突きをしたら、それこそユンスティッドとの会話が成り立たなくなる日もそう遠くないかもしれない。
そんな不安が持ち上がったけれど、やられっぱなしというのは性に合わないことだった。もちろん仕返ししてやらなければ。マーシャルは軽く首を引いた。
頭突きされると思ったのだろう、ユンスティッドがベッドの上から頭を持ち上げて逃げようとした。予想通りの反応にほくそ笑みながら、マーシャルはすばやく頭を下ろし、ユンスティッドの顔に覆い被さる。額をぶつけるふりをして、男の唇をペロリと舐めた。ユンスティッドが目を見開く。マーシャルはくすっと笑った。
「ユンスの驚いた顔好きよ」
「……それはどうも」
仏頂面になったユンスティッドは、片足を動かしてマーシャルの下肢を上手いこと抑え込んだ。そのまま体勢を反転させる。どさりと、マーシャルの体がベッドに沈んだ。シーツには既に細かい皺がいくつも刻まれている。小さな電球は心許ない明るさだが、どうせくっついているのだから見えなくても関係なかった。
――――まあ、別に日が昇ってから出かけても十分間に合う時間だし、大丈夫よね。
マーシャルは簡潔に答えを出すと、頭の隅に引っ掛かっていた約束事をぽいっと遠くへ放り投げた。これで心置きなく楽しめる。体の両脇にあるユンスティッドの腕が曲がり、暗がりの中でもはっきりと分かる黒曜石の瞳が近づいてきた。足が絡み合って、体に少し重みがかかる。
キスされると思ったマーシャルは意気揚々と待ち構えていた。しかし、ユンスティッドはあっさりそれを裏切った。
「好きだ」
不意打ちで囁かれた言葉に、マーシャルは瞠目した。驚きにあたふたして目を白黒させ、動揺のあげく目前の額に渾身の頭突きをかました。鈍い音とこらえきれなかった呻き声が深夜の寝室に響き渡る。
結局、翌朝の稽古についての心配は徒労に終わったのだった。
◆◆◆
【むかしのはなしをしよう】(書下ろし、ユンス学院時代)
ガタついた扉の向こうから、すすり泣きが聞こえていた。
泣き声は塔の壁に跳ね返り、丸い廊下をぐるぐると巡っている。もう、何周目だろう。二百はとうに超えていると確信していた。泣き声はひび割れ、すっかり枯れていた。喉にも疲労が蓄積され限界も近いだろうに、悲しみが止む気配はない。レンガ造りの実験棟は、その赤茶けた細胞一つ一つを震わせながら、扉の向こうの悲しみを伝染させていく。
ユンスティッドは、扉を叩こうと上げた手を一度下ろした。目を伏せ、数秒躊躇ったのち、意を決して実行する。間髪入れずにドアを開けた。最初から、反応がないことは分かっていた。強行突破も致し方ないことだ。ポットとカップをのせたお盆を手近な棚に置いた。
「教授、お加減いかがですか」
いかがですかもどうもあるか――自分で聞いておきながら、ユンスティッドは内心失笑した。
この空間での気遣いは全て無神経に変わるようだった。部屋の主である教授の真っ赤に腫れあがった瞼と、口元までこびりついた鼻水のあと、何よりその悲嘆にくれた表情を見れば、何も言わずに部屋を去るのが最大の気遣いだとユンスティッドとて分かっている。
だが、教授が教授の事情で部屋に閉じこもるように、世間は世間の事情で教授を急かしに来る。滞った実験や小山を築きはじめた書類の束が、もう三日も教授を待っている。それらが教授を急かすために白羽の矢を立てたのは、大変残念で迷惑極まりないことにユンスティッドだった。
(どうして俺が、こんな面倒なこと……)
世知辛い世の中で、上級生たちは早々に面倒事から逃げて行った。同輩のロッソに押し付けようかと思ったが、正直と素直の権化のようなあの少年に任せては、教授の心を木っ端みじんに砕き再起不能にする可能性が高い。結局のところ、やんわりと教授を慰め宥め、仕事に向かわせる役目はユンスティッドが負わざるを得なかった。
気を遣うことは苦手ではないが、好きでもない――ため息を押し込むのに、一苦労。
「教授、一昨日から何も口にしていないそうですね。スープを持ってきましたから、とにかく胃に何か入れましょう」
「嫌だ……すまないけど、食べたくない」
「皆心配しています。このまま教授が餓死でもなさったら、リンダが悲しみます。彼女を悲しませたくはないのでしょう?」
「…………リンダ……」
教授がようよう顔を上げた。三日間ですっかり頬がこけていた。目も落ちくぼみ、しかも瞼は腫れているので、眼球がほとんど見えない。その憔悴ぶりに、さしものユンスティッドも息を飲んだ。
教授は鳥籠を抱えていた。抱えるというよりはしがみつくように、節くれだった指を細い格子に巻きつけている。中には寝藁が敷かれていたが、ぬくもりはなかった。三日前に消失したのだ。教授の愛鳥は、美しい群青色の翼をひるがえし、空高い楽園へと旅立った――その永遠の別れを、教授はまだ受け止められないでいる。
リンダは、教授が育てた魔法鳥のうちの一羽であり、教授が最も愛した鳥でもあった。長年妻のように寄り添い、翼がうまく動かなくなってからも教授の頬を軽くくちばしで突いては愛くるしく鳴いていた。
睦まじい二人だった。
しかし、教授がリンダに向けて微笑むときにできたはずの目尻のしわは、今では喪失感にあふれている。
(たかだか鳥を一羽失くしただけだろうに、何をそんなに泣くんだ……大体、教授には他にも世話をしている魔法鳥がいるってのに、そいつらが餓死するのは構わないのか)
教授が食事をするまで動かぬ覚悟を決めていたユンスティッドだったが、もぞもぞと教授が動きだし立ち上がった時には心底ほっとした。重たい腰が椅子の上におさまった頃を見計らって、いれたてのスープを差し出す。カップからは湯気が立ち上っていた。教授は危なっかしい手つきでカップの取っ手に手をかけ、ちびちびとスープをすすりはじめる。もう片方の手が鳥籠を抱えたままであることにユンスティッドは気が付いた。
「食事の間、鳥籠をお預かりしましょう」
何の気なしに差し出した手は、悲鳴のような拒絶の声によって弾かれた。カップが甲高い音とともに床に落ち、野菜の溶け込んだスープが床板の隙間に流れ込んでいく。行き場をなくして、人差し指と親指が空を掴むようにピクリと微動した。
(床が、いや、それよりも)
教授のいつになく激しい語気と怒りに満ちた眼光に、ユンスティッドは思わず一歩退いた。
「嫌だ! 取らないでくれ! 頼む、これだけは……!」
「すみません教授、俺が悪かったです。籠には手を振れませんから、どうか落ち着いて……」
リンダ、リンダ、と教授は再び涙をこぼしはじめた。ユンスティッドは途方に暮れた。他の鳥が死んだときは、こんなことはなかった。愁いを帯びた穏やかな目で遺体を弔っていたというのに……教授は一体どうしてしまったんだろう。老衰したリンダが籠で弱々しくうずくまる様子は見る目にも痛々しくて、「逝く時は安らかに逝ってほしい」とひとりごちていたのは教授だというのに。
リンダ! リンダ! リンダ!――どうして逝ってしまったんだ。逝かないでくれとあんなに頼んだじゃないか。
この世に生を受けたものは皆、最後には死の神ネミロスの光の環をくぐりポーミュロンの治める楽園に帰っていく。それが分かっていながら、死した魂に縋りつこうとする男の心境が理解できなかった。
妻に先立たれた夫のようにむせび泣いていた教授は、そのうち声をおさめ静かに涙を流すだけになり、やがてはその涙も止まった。その間成すすべもなく居心地悪げに立ち尽くしていたユンスティッドに、おずおずとした声がかかった。ヒキガエルのように潰れていて、聞き取るのが少し難儀だった。
「ああ、シルバート君……すまないね……すまない」
床に膝をついたまま一二度あえいだ教授は、呼吸が落ち着くと椅子に座り直し、袖で顔を拭った。西日に照らされて、顔も袖もてかてかと赤く光っていた。涙の跡が燃えているようだった。教授の内にあるはずの生命力までもやしてしまうのではないかと不安になるほど、赤々と輝いていた。
人前でひとしきり泣いて、教授の頭は先程より落ち着きを取り戻したようだった。胸を撫で下ろしたユンスティッドは、スルスルと肩の力が抜けていくのを感じた。十日後の実験予定まで飛んでいた頭の中が、現実からの逃避行を中断して戻ってくる。
長い沈黙が下りた。沈んだ時間がしずしずと流れる。
夜のはじまりにさしかかった。窓辺から差し込んでいた西日が急速に弱まり、部屋が一気に暗く陰った。燭台に火を灯そうと思ったが、肝心の蝋燭が見当たらない。光の魔法を使おうとしたユンスティッドを留めたのは、沈黙を保っていた教授だった。
「明りはつけないでくれないか? すまないね……学生の前でこんな風に取り乱すなんて、今更だが恥ずかしいことをしてしまったと悔いているんだ……すまない、迷惑をかけたね」
「いえ、それは、仕方のないことですし」
涙の燃えたあとの灰を集めて作ったようなくすんだ肌を見れば、痛々しくてそれ以上言えなかった。
教授は深いため息を吐いた。
「こんなつもりじゃなかったんだよ。覚悟はできていたんだ。だが、どこかでたがが外れてしまったんだろう。本当に、恥ずかしいところを見せた」
「気にしないでください。誰にも口外しません……悲しむお気持ちは、分かりますから」
取ってつけたような言葉だと自分でも思ったが、教授もそれに気付いたようだった。ははっ、と笑いが漏れ、黄ばんだ前歯が覗いた。教授が僅かでも元気になることを望んでいたけれど、こんな方法では望んでいなかったと苦虫を噛むような思いを味わう。
(しくじった。次があれば絶対に他の奴らに押し付けてやる)
すると、
「シルバート君は立ち回りがうまいと思っていたが、今回は損な役目を押し付けられてしまったようだね」
渋々任務遂行していたのは、とっくにばれていたらしい。年の功には敵わないと、ユンスティッドは白旗をあげた。
「すみません、いつも穏やかな教授が断食する程悲しむとは思わなくて、こちらが取り乱してしまいました」
「謝らないでくれ。そうだね、自分でも、愛鳥が死んだくらいで部屋にこもって泣きわめく男なんて公害だと思うよ……シルバート君も先日、世話をしていた兎を亡くしたばかりだというのにね……あの兎、名前は何と言ったかな」
突然の労りに戸惑いながら,ユンスティッドは先週末の朝、冷たくなっていた兎を思い浮かべようとした。だが、実験用に育てている兎は他にもいるため、これといった特徴が浮かばず、模糊としたイメージは明瞭になることなく砕け散った。
「特に名付けていません。足にくくりつけた番号で識別していましたから」
教授はそうかと小さく頷いたあと、眉を八の字にした。
「何だか、本当に申し訳ないね。厭味ではなくて、君には私の気持ちが解せないだろうから、訳の分からぬ男を慰める役など押し付けられてしまってさぞかし迷惑だっただろう」
君は、と教授は続けた。
「執着というものをほとんど見せないね。全くと言っても過言ではないかもしれない」
「そうでしょうか」
「僕がなんで悲しんでいるのか、さっぱり分からなかったろう?」
反射的に否定しかけたが、教授が気を悪くした様子はないため、ユンスティッドは素直に頷いてみることにした。
「やはりか……育てている動物に名前を付けないのは何故だい? 死んだ時に悲しいからかな」
「いいえ、別に、これといって理由はないのですが。番号の方がデータを整理しやすいと思ったからなのですが、きちんと名前を付けた方が良かったでしょうか」
「いいや、君の良いようにすればいい。不躾なことを聞いた。悪かったね」
教授はお盆にのったポットに視線を向けると、スープは残っているだろうか、と尋ねた。陶磁器の白い肌に触れると、中身まで冷え切っていることが感じ取れた。入れ直してきますと進言したが、教授は断り、冷めたスープをありがたいもののように見つめ、ゆっくりと飲み干した。冷めたスープなんて不味くないですかと直截に聞くと、空きっ腹には何でもありがたいというなるほどな答えが返ってきた。
「年を取ると、悲しむのにも骨を折らなければならない。困ったものだ」
そう言って笑いながらも、教授は悲しむことを止めはしない。暗闇に慣れたユンスティッドの目は、未だ抱きかかえられたままの鳥籠のシルエットをとらえていた。傍から見れば、ただの空っぽの籠で、教授の姿はひどく滑稽だ。
ユンスティッドは足元を見下ろした。この部屋に来てから立ちっぱなしだが、立ち仕事には慣れているから疲れはない。心臓の鼓動は安定していた。そっと胸に手を当ててみる。脈は決して狂うことがない。いっそ恐ろしい程に、自分の生命のリズムは規則正しい。
無意識のうちに手が伸びて、教授の胸元に近づいていた。これほどの悲しみに浸っている人の心臓の音を、聞いてみたくなったのだ。
(教授の悲しみが分からない、俺はおかしいのだろうか)
ふいに、そんなことを思った。
情が薄いというのは、昔からよく言われることだったが、それを引け目に感じたことなどなかった。けれど、教授の胸が締め付けられるような悲しみ様を目の前にして、何もできない力不足が情けなかった。
あらゆる気持ちを分かち合えたなら、世の中はもっと円滑に進むのだろうか。
「別に、情がないわけではないのですが……」
「ああ、すまない、悲しい気持ちにさせたね。君を責めたかったわけではないんだ。そうではなくてね、」
教授が慌てて椅子から立ち上がり、大股で寄ってきた。大きくて厚い手のひらがユンスティッドの形の良い頭を数回撫でる。教授のしなびた白衣からは獣と森のにおいがした。リンダが死んでから着替えていないのだろう。思わず鼻がひくついたが、この中にリンダのにおいが混ざっているのだと思うと、教授が着替えられなかった訳が少しだけ察せられた。
「泣いている間にね、思い返していたんだ。魔法鳥に出会えて、私の人生は本当に幸せだったと。リンダはね、私が出会った最初の魔法鳥だったんだよ。当時は、比類なき美しさに圧倒されたよ。どの鳥も同じように愛していたつもりだけれど、彼女だけは特別だった。本当に、愛していた」
「人間に対するように、ですか?」
教授は苦笑した。ユンスティッドは今のが失言だったと悟った。
「どうなんだろう、私は妻を持たないし、その例えが正しいのか分からないが、そうなのかもしれない。リンダも、魔法鳥の研究も、私の全てだから」
そう断言できる潔さが羨ましかった。眩しいものを見る目で教授を見上げていると、彼もまたユンスティッドを見下ろして目を細めていた。
「君ぐらいの年齢の頃はね、まさかこんな風に人生を捧げる相手に出会えるなんて思ってもみなかったから、とても感慨深くてね……なあシルバート君、リンダも、私と出会えて少しは幸せだったろうか?」
教授の気持ち全ては察せなくとも、この問いに対する正しい答えはすぐに浮かんだ。
「それは勿論、リンダも教授のことをとても慕っているように見えましたから、本当に」
教授がぎこちなく微笑んだ。その穏やかな笑みに安心した自分に気付き、ユンスティッドは自分が思いの外この教授を慕っていたことを知って、気恥ずかしくなった。室内が暗くて助かった。教授と目を合わせないで済む。
教授の心から、一つのひっかかりが取れたようだった。つきものが落ちたような顔をしている。絶望は色を薄め、純粋な悲しみだけが残存していた。そして、そこにはユンスティッドに向ける何らかの感情も共存しているようだった。いつくしみのような、過去の自分を懐かしむような……
「なあ、老婆心からの忠告と思って聞いてくれ。ポーミュロンの導きによって君にもいつか、心から欲しいと願うものが現れるだろう。私がリンダを欲したように」
「そうでしょうか」
まるで想像がつかなかったが、教授の瞳には不思議な光が宿っていた。影に全身を覆われても尚、細い隙間から涙と混じりあってきらめきを放っている。
「ああ、きっとね」
声音はやけに確信的だった。
ユンスティッドの数倍の年を重ねた魔法師の姿がそこにはあった。急に自分が何の力も持たないただの人間に感じられ、眼前の人の持つ魔法の力を強く感じた。教授のこけた頬も落ち窪んだ目も、腫れぼったい瞼さえ、圧倒的な力の差を示しているように思われた。
老いた人差し指が、額を突く。言葉が意思を持った呪文のように流れ込んできた。背中に重たい夜を背負って、教授が囁く。
「君はまだ若く、その手のひらは大きい。どんなものでも努力を怠らなければ手に入れることができるだろう。だから、」
つづく言葉は心にすとんと落ち着いた。
――教授がそう言うのなら、そうなのかもしれない……
その時は何故か素直にそう思えた。
心にまで影を落とすような夜の帳と、窓を鳴らした夜風のせいだったかもしれない。教授の声や雰囲気が、がらりと違ったかもしれない。自分が、教授の深い悲哀に当てられていたからかもしれなかった。
ともかく翌日には、ユンスティッドは教授の言葉が現実になることはないだろうと考え直していた。
教授だって、悲しみに酔っていなければあんなことは口にしなかっただろう。
真面目に考えて、運命的な出会いなどありえなかった。自分のことは自分が一番理解している。欲しいものは当面の実験費用と貴重書と新たな研究テーマくらいで十分で、それ以外は特にいらない。今の生活に不満はないし、淡白と言われても結構だ。
教授のように、感情にわずらわされずに生きていくのが一番じゃないかと、そんな薄情な結論にさえ辿り着いていた。
ただ、厳かな声で告げられた言葉だけは、何故かいつまでも耳に残り、しばらく経っても覚えていた。
――心から欲しいものを見つけたその時は、しっかりと掴んで、離さないでいるんだよ。
やがて時が経ち、もう思い出されることもない言葉は、しかし今もしっかりとユンスティッドの心の奥底に溶け込んでいた。
それは真実となり、少年から青年へ変わっても彼の傍にありつづける。
そしてユンスティッドもいつの日か、彼の大切な誰かに、この言葉を伝えるのだろう。
〈完〉
以上を持ちまして、不協和二重奏については一旦筆をおこうと思います。長くに渡りありがとうございました。
来年も何卒よろしくお願いします。良いお年を。




