第9話 劉玄徳には、軍師がいる
川の浅瀬で黄巾の進路を変えた翌朝、俺たちは夜明けとともに鄒靖の陣へ戻った。
敵を何人討ったかより先に、どこで見つけ、どの道を進み、どこで渡河を試みたかを報告する。俺が木簡と布へ書き足してきた簡単な地図も、一緒に鄒靖の前へ広げた。
村、川、浅瀬、荷車が通れる道、水の取れる場所。正確な縮尺など望むべくもないが、斥候の報告だけを口頭で並べるより、ずっと状況を掴みやすい。
鄒靖はしばらく黙って地図を見ていた。
「この二つが、昨日押さえた浅瀬か」
「はい。下流側は荷車も渡れます。上流側は歩兵と馬なら問題ありませんが、車は厳しいと思います」
「この道は?」
「村人から聞いただけです。俺たちはまだ通っていません」
鄒靖が顔を上げた。
「それまで書くのか」
「自分で確かめた場所と、人から聞いた場所を同じように扱うと危ないので、印を変えています」
鄒靖は何も言わず、もう一度地図へ視線を落とした。
周囲には数人の武官や義兵の頭領が立っている。その一人が身を乗り出した。
「これなら、昨日の賊がどちらへ退いたかも分かるのではないか?」
「南へ戻ったことまでは確認しました。ただ、その先は追っていません」
「なぜだ?」
答えたのは劉備だった。
「任務が街道の確保でしたので。敵を追って浅瀬を空ければ、別働隊に使われる恐れもありました」
武官は少し意外そうに兄上を見る。
鄒靖は口元を緩めた。
「玄徳のところは、相変わらず首を欲しがらんな」
「功は欲しいと思っています。ただ、任された仕事を捨ててまで取るものではないでしょう」
「それでいい」
鄒靖が短く答えた。
俺は隣で黙っていた。
兄上が自分の言葉で答えている。
それが何よりいい。
俺が考え、兄上が決める。その形が少しずつ出来上がってきていた。
そこへ、南から戻った別の斥候が天幕へ駆け込んできた。
「申し上げます! 昨日退いた賊が、さらに南の一団と合流しました!」
鄒靖の顔から笑みが消えた。
「数は?」
「確かなところは分かりません。ただ、野営の煙はかなり多く、千を大きく超えています。近くの村では二千ほどとも」
俺は反射的に口を開きかけ、やめた。
鄒靖がこちらを見る。
「季衡。何かあるなら言え」
「二千というのは、村人から聞いた数でしょうか」
「そうです」
斥候が答える。
「自分で見えた範囲は?」
「丘から確認できたのは、六百から七百ほどです。ただ林の奥にもおります」
「荷車や家畜は?」
「かなりあります。南へ動くというより、集まっているように見えました」
鄒靖が地図の南側へ指を置いた。
「ここか」
「はい」
場所は古い亭の近くだった。
街道が三方へ分かれ、近くに井戸もある。人を集めるには都合がいい。
だが千を超える人間が集まれば、それだけ動きも鈍くなる。
「放っておけば、さらに膨らみます」
劉備が言った。
「ああ」
鄒靖も同じ考えらしい。
「明朝、攻める」
周囲の武官たちが頷く。
俺は地図を見た。
正面から官軍が押せば、勝てない相手ではないのだろう。しかし、黄巾側もこちらが来ることくらい予想する。
「鄒校尉」
「何だ」
「攻める前に、もう一度だけ斥候を出させてもらえませんか」
「何を見る」
「人数より、逃げ道と指揮の場所を知りたいです」
鄒靖が目を細めた。
「続けろ」
「千五百人いても、どこからでも逃げられるなら追い散らすだけになります。それと、誰が命令を出しているのか分からなければ、崩す場所も選べません」
しばらく沈黙した後、鄒靖が頷いた。
「日暮れまでに戻せ」
「承知しました」
◇
斥候は六組出した。
今回は全員に同じ場所を見せなかった。
東から見る者。
西へ回る者。
商人のふりをして近隣の村へ入る者。
林の中から煙と人の流れを見る者。
一つの報告だけを信じず、違う場所から得た情報を重ねる。
夕刻までに五組が戻った。
一組だけ遅れたが、日が落ちる直前には無事に帰ってきた。
地面へ地図を広げ、六組の報告を一つずつ置いていく。
「大きな旗は中央の亭にあります」
「その周りに武器を持った者が多い。三百ほどはいると思います」
「東側は農民らしい者が多いです。武器も鍬や棒が目立ちました」
「荷車は南西に集めています」
「西の道には見張りがいますが、北西の畑側はほとんど人がいません」
最後に戻った斥候が、水を飲んでから言った。
「それと、中央の連中が周囲を殴っていました」
「どういうことだ?」
劉備が尋ねる。
「逃げようとした者を捕まえているようでした。一人はその場で斬られました」
前にも似たことがあった。
黄巾という一つの旗の下に集まっていても、全員が同じ意思でいるわけではない。
だが今回は、逃散を促して数を減らす時間がない。
明日には別の黄巾が加わる可能性もある。
「季衡。どう見る?」
劉備に尋ねられ、俺は地図を指した。
「中心はここだと思う。亭の周りにいる三百ほど。こいつらが崩れれば、外側は長く戦わない可能性が高い」
関羽が頷く。
「旗を倒すか」
「それだけなら雲長兄が一番早い。ただ、敵も大旗が大事なのは分かっているだろう」
「なら、どうする?」
張飛が訊いた。
「大旗そのものより、逃げ道を押さえたい」
「また俺か?」
「益徳が一番向いている」
俺が答えると、張飛はむしろ満足そうだった。
「なら構わん」
俺は三人へ地図を見せる。
「正面は鄒校尉の官軍が攻める。俺たちは右側につくことになると思う。ただ、戦いが始まったら旗や太鼓が見えなくなる可能性がある」
「煙か?」
関羽が尋ねる。
「ああ。人数が多い。砂埃だけでも互いが見えなくなる。だから、細かい命令を待たない形にしたい」
張飛が少し首を傾げた。
「どうする」
「雲長兄は、東の低い丘を取ってほしい。取った後は、俺たちから命令が届かなくてもそこを守る。益徳は南西の荷車が置いてある道へ回って、敵の中核が逃げてきた時だけ止める。雑兵が武器を捨てて逃げるなら追わなくていい」
「玄徳兄者は?」
「中央で俺たちの兵をまとめる。俺は予備と一緒に兄上の後ろにいる」
劉備が地図を見ながら言った。
「つまり、戦いが始まる前に、それぞれ何をするか決めておくのか」
「そうだ。合図が届けばもちろん従う。ただ、届かなくなった時に立ち尽くさなくて済むようにしておきたい」
関羽が静かに口を開いた。
「私が丘を取る理由も、兵へ説明しておいた方がよいな」
「頼む。場所だけ覚えさせるより、何のために行くか分かっている方がいい」
「敵が丘へ来なくても?」
「そこを押さえていれば、敵が東へ広がりにくい。それで十分だ」
張飛が笑った。
「俺は簡単だな。逃げてきた偉そうな奴を止めればいい」
「雑兵まで追い回さないという部分も忘れないでくれ」
「もう覚えた」
最近の張飛なら、本当に大丈夫だと思えるようになってきた。
◇
翌朝、戦は日の出とほぼ同時に始まった。
鄒靖の官軍が正面へ進み、太鼓が鳴る。
黄巾側も大旗の周りへ人を集めた。
遠くから見た時はまとまりがないように見えた集団も、千を超えて一斉に武器を構えれば、それだけで圧がある。
俺たちは官軍の右側を進んだ。
戦える兵は三百余り。
全員を一つの塊にはしない。
関羽が百人近くを連れて東へ離れ、張飛も別の百人弱を率いて南側へ回る。
劉備の手元に残ったのは、俺の予備を含めて百数十人だった。
「季衡」
歩きながら劉備が言う。
「兵を分けすぎていないか」
「俺も怖い」
「怖いのか」
「当然だ。机の上なら線を三つに分けるだけだが、実際には三つとも人間だからな」
俺が答えると、劉備はわずかに笑った。
「なら安心した」
「何がだ?」
「お前が何でも分かった顔をするようになったら、俺が止めるつもりだった」
「その時は頼む」
兄上がいる意味は、そこにもある。
俺の策が正しいとは限らない。
俺が先を知っていることと、目の前の戦場で間違えないことは別だ。
やがて正面でぶつかった。
怒号が広がる。
黄巾側は、予想より激しく押し返してきた。
中央の三百ほどは、確かに他とは違う。槍も比較的揃っていて、簡単には崩れない。
鄒靖の官軍が受け止める。
俺たちも右から圧をかけた。
その時、敵陣の奥から煙が上がった。
「火だ!」
誰かが叫ぶ。
黄巾側が乾いた藁へ火をつけたらしい。
風は俺たちの方へ向いている。
煙が一気に流れてきた。
「目を閉じるな! 前の伍から離れるな!」
劉備が叫ぶ。
煙で視界が白くなる。
太鼓の音も怒号に埋もれ、旗はほとんど見えなくなった。
最悪の状況だ。
しかし、関羽にはもう命令を出す必要がない。
張飛にも同じだった。
それぞれ何をするかは、戦う前に決めている。
「兄上、ここは止まろう」
「前へ出なくていいのか?」
「見えない状態で進めば隊列を崩す。煙が薄くなるまで、中央を支えるだけでいい」
「分かった!」
劉備が兵を止める。
俺も予備を動かさなかった。
煙の中から黄巾兵が飛び込んでくる。
最初の一人を槍兵が受け止めた。
二人目。
三人目。
伍ごとに固まっているから、一人が後ろへ下がっても隣が穴を埋める。
完全ではない。
倒れる兵もいる。
それでも崩れない。
「右から来る!」
「二つ目の伍を半歩前へ! 予備はまだ動くな!」
劉備の命令が飛ぶ。
俺が言わなくても、兄上が兵を動かしている。
少し前まで、兵の編成や合図について一から話していた相手とは思えない。
その時、煙の向こうから別の喊声が上がった。
東だ。
関羽の隊だった。
◇
関羽は、煙が上がった時点ですでに丘の麓まで来ていた。
後から聞いた話では、兵の一人が「本隊へ戻るべきでは」と尋ねたらしい。
関羽は戻らなかった。
「我々の役目は、この丘を取ることだ」
それだけ言って前へ進んだ。
黄巾側は煙で官軍の視界を奪ったことで安心したのか、東の守りが薄くなっていた。
関羽はそこへ入った。
槍を突き出してきた男に対し、真正面で受けず半歩だけ外へ出る。季衡から教わった合気術の考えを、もう自分の槍へ馴染ませ始めていた。
敵の穂先が身体の横を通る。
次の瞬間には、関羽の槍が相手の肩口へ入っている。
「押せ!」
百人が続いた。
丘を守っていた黄巾兵は長く耐えられなかった。
関羽が頂へ上がった時、煙の向こうに敵陣の側面が見えた。
予定どおりなら、ここで待つ。
だが関羽は状況を見て、一つだけ判断を変えた。
「弓を持つ者は前へ。下へ降りるな」
丘から矢を射る。
敵の中へ突っ込むのではない。
高所を取った利を、そのまま使う。
中央で戦っていた黄巾兵の横へ矢が落ち始めた。
大きな旗の周辺がざわつく。
こちらの正面からも分かった。
「雲長兄が取った!」
俺が言うと、劉備が煙の向こうへ目を凝らした。
「あれか」
丘の上に、俺たちの旗が上がった。
見えたのは一瞬だった。
それでも十分だ。
「前へ出るぞ!」
劉備が剣を上げた。
今度は俺も止めなかった。
中央の兵が前進する。
鄒靖の官軍も、東から矢が降り始めたことで状況を理解したらしい。太鼓の調子が変わり、正面からの圧が強くなる。
黄巾側が下がった。
まだ崩れてはいない。
しかし、中核の旗が少しずつ南西へ動き始める。
「逃げる」
俺は呟いた。
向かう先は、張飛が待っている道だった。
◇
張飛は、戦の音を聞きながら南西の道で待っていた。
本人にとっては、かなり辛い時間だったと思う。
正面では戦っている。
関羽も動いた。
それなのに、自分だけは敵が来るまで待たなければならない。
「益徳様。向こうが押しているようです」
兵の一人が言った。
「見れば分かる」
「助けに行かなくてよいので?」
「俺たちはここにいろと言われている」
そう答えたらしい。
俺が後から聞いて、一番驚いたのはそこだった。
以前の張飛なら、もう走っていたかもしれない。
だが待った。
やがて南西の道から馬が現れた。
黄色い大旗。
その周囲に数十人。
さらに後ろから百人近くが続いている。
敵の中核だ。
張飛が立ち上がった。
「来たぞ」
兵たちが槍を構える。
逃げてきた黄巾側も、前方に張飛の隊がいることへ気づいた。
先頭の騎馬武者が叫んだ。
「どけ!」
張飛は長矛を肩に乗せた。
「嫌だと言ったら?」
騎馬武者が槍を構えて突っ込んだ。
張飛は待った。
馬ごと来る相手を正面から力で止めるほど馬鹿ではない。
踏み込む直前に身体を外し、槍の穂先をかわす。
合気術で教えた体捌きが、ごく自然に混ざっている。
すれ違いざまに長矛を振るった。
騎馬武者が馬上から落ちる。
そこから先は、張飛の領分だった。
「ここは通さん! 武器を捨てて逃げる者は追わん! 旗の周りに残る奴だけ前へ出ろ!」
声が道全体に響いた。
逃げてきた黄巾兵の何人かが武器を捨てた。
張飛の兵は追わない。
残ったのは、大旗の周囲にいる者たちだけだった。
その中から年嵩の男が剣を抜いた。
「漢の犬どもが!」
張飛が笑みを消す。
「俺は玄徳兄者の弟だ。犬になった覚えはない」
長矛を構え直した。
男も前へ出る。
数合も必要なかった。
剣を弾かれ、張飛に腕を取られた男の身体が崩れる。
そのまま地面へ叩きつけられた。
張飛は止めを刺さなかった。
「縛れ。こいつは頭だろう」
大旗が倒れた。
それを見た残りの黄巾兵も、次々に武器を捨てた。
◇
戦が終わったのは、日が大きく傾く前だった。
黄巾側の頭目は生け捕りになった。
周囲の村を襲い、複数の集団をまとめていた男だという。
逃散した者も多く、全員を討ったわけではない。
それでいい。
俺たちの目的は、黄巾という組織として動けなくすることだった。
こちらの被害を確認する。
劉備の隊では死者五人、負傷者二十余り。
関羽と張飛の隊にも死傷者がいる。
鄒靖の官軍を含めれば、もっと多い。
勝ったから軽いとは言えない。
それでも、千を超える集団とまともに正面から潰し合うより、はるかに少なく済んだ。
鄒靖が捕らえた頭目を確認したあと、俺たち四人を呼んだ。
「玄徳」
「はい」
「煙が上がった時、俺の旗は見えたか」
「ほとんど見えませんでした」
「俺からも、お前たちの右側は見えなかった」
鄒靖は関羽を見る。
「それでも丘を取った」
「役目を先に決められておりましたので」
「張飛。お前は南西から逃げた頭を捕らえた」
「待っていれば来ると言われていたからな」
鄒靖が最後に俺を見る。
「季衡。お前は何をした」
「兄上の後ろで予備を見ていただけです」
実際そうだった。
戦っている最中、俺が関羽や張飛へ出した命令は一つもない。
「それを戦う前に決めたのは誰だ」
「案を出したのは俺ですが、決めたのは兄上です」
鄒靖はしばらく俺と劉備を交互に見た。
やがて声を立てずに笑った。
「なるほどな」
「何でしょう」
劉備が尋ねる。
「玄徳。お前には、もう軍師がいる」
周囲が静かになった。
俺は少し困った。
「軍師と名乗れるほどの者ではありません」
「名乗るかどうかは、お前が決めればいい。俺は見たものを言っただけだ」
鄒靖は劉備へ向き直る。
「人を集める者がいる。前で戦う者がいる。それをどこへ置けばいいか考える者がいる。悪い組み合わせではない」
張飛が笑った。
「俺は前で戦う者だな」
「お前はそれ以外に見えん」
鄒靖の返事に、周囲から笑いが漏れた。
関羽も静かに口元を緩める。
劉備だけは、俺をまっすぐ見た。
「俺は最初から、そのつもりだった」
「兄上」
「お前が軍師と名乗りたくないなら、それでもいい。ただ俺は、これからも頼る」
断る理由はなかった。
「なら、勝てるように考える」
「頼む」
それで話は終わった。
◇
黄巾討伐の戦いは、その後もしばらく続いた。
だが涿郡周辺の大きな集団は次第に減り、俺たちが毎日のように兵を出す必要もなくなっていった。
負傷者を休ませる。
新しく加わった者へ号令を教える。
地図へ道や水場を書き足す。
合気術は関羽と張飛が勝手に自分の武へ取り込み始め、劉備も受身と体捌きならかなり形になってきた。
兵にも、転んだ時の受身と足運びだけは少しずつ教えている。
そうして数日が過ぎた頃、鄒靖から再び呼び出しを受けた。
今度の天幕には、戦の地図がなかった。
代わりに、書状が置かれている。
「玄徳」
鄒靖が言った。
「お前の軍功については、すでに上へ報告していた」
劉備が黙って頭を下げる。
「返事が来た」
鄒靖が書状を差し出した。
「中山国、安喜県の尉に任ずるそうだ」
一瞬、周囲の音が遠くなったように感じた。
安喜尉。
その名前を、俺は知っている。
知らないはずがない。
兄上が黄巾討伐の功で得る、最初の官職。
そして俺の知っている歴史では、長くは続かなかった官職でもある。
劉備が書状を受け取る。
「俺が……県尉に」
「功を立てた結果だ。胸を張れ」
鄒靖が言った。
張飛は隠す気もなく喜び、関羽も深く頷いている。
俺も嬉しかった。
ただ、同時に別の記憶が頭をよぎる。
督郵。
査定。
鞭打ち。
棄官。
兄上はここで初めて手にした足場を失い、再び流浪へ向かう。
だが今回は、俺がいる。
兄上が苦労して手に入れた官職を、役人一人との揉め事で手放すつもりはない。
「季衡」
劉備が俺を見る。
「どうした?」
俺は書状へ目を向けたまま答えた。
「いや。ようやく始まると思っただけだ」
兵を持った。
名を得た。
そして今度は、兄上が自分の立つ場所を手に入れた。
俺が変えたかった三国志は、戦場だけではない。
勝って得たものを、今度こそ残す。
その最初の勝負が、安喜で始まる。




