第10話 安喜を、失わない
安喜へ赴任することが決まった夜、俺は劉備の周囲に残った人間を、もう一度数え直していた。
黄巾討伐へ出た当初は百八十二人。それが戦を重ね、他の義勇兵を吸収し、荷役や負傷者の世話を担う者まで含めれば四百人を超える集団になった。
昨日までなら、その人数は心強かった。
ところが兄上が得た官職は、一軍を率いて各地を転戦する将ではなく、中山国安喜県の尉である。
盗賊を追い、奸悪を察し、県内の治安を守る。そのための役目であって、黄巾討伐のために集まった四百人余りを、そのまま抱えて食わせ続けられる地位ではない。
「全員を安喜へ連れていくのは無理だな」
俺が並べた木簡を見ながら言うと、張飛が腕を組んだ。
「せっかくここまで鍛えたんだぞ。帰してしまうのか?」
「帰す。ただし、ばらばらにはしない」
劉備、関羽、張飛の三人がこちらを見る。
俺は兵の名前を書いた木簡を一つ取り上げた。
「伍を崩さない。誰と誰が同じ五人だったか、伍長は誰か、どの村に帰ったか。それから槍、弓、馬、鍛冶、荷役、負傷者の手当て――何ができる人間なのかも残しておきたい」
関羽がすぐに意図を理解した。
「再び兵を集める時、同じ者を同じ伍へ戻すのか」
「できるだけそうしたい。帰った瞬間に訓練したことまで忘れるわけじゃない。連絡さえ届けば、最初に兵を募った時よりずっと早く形に戻せる」
前世なら予備役だの動員名簿だのという言葉を使っただろう。
だが重要なのは名前ではない。
一度作った組織を、平時になった途端に消してしまわないことだ。
「連絡はどうする?」
劉備に訊かれ、地図へ指を置く。
「村ごとに一人か二人、連絡役を決める。俺たちから知らせを出す時は、全員を一人ずつ探さず、その人間へ伝える。そこから同じ村や近隣の者へ回してもらう」
「来るかどうかは?」
「本人に決めてもらう。官の兵でもない人間を、いつでも呼びつけられると思うのは危ない」
張飛が少し笑った。
「それでも玄徳兄者が呼べば、かなり来ると思うぞ」
「だからこそ、当たり前だと思わない方がいい」
黙って聞いていた劉備が、そこで頷いた。
「分かった。俺から話す」
翌朝、兵たちを集めた兄上は、黄巾との戦が一段落したこと、安喜へ全員を連れていくことはできないことを隠さず話した。
「故郷へ戻ってほしい。家族のところへ帰り、畑や仕事へ戻ってくれ。ただ、皆とこれで縁を切るつもりはない」
四百余りの視線が集まる中、劉備は続けた。
「また大きな賊が起こり、俺一人の力では守れなくなった時には、もう一度力を借りたい。その時、応じてもらえるなら来てほしい」
前列にいた兵が手を挙げた。
「玄徳殿。その時も同じ五人でいいんですか?」
「できるだけそうする。季衡が皆の名と組を残している」
「なら、槍の握り方くらいは忘れないようにしておきます」
周囲から笑いが起きた。
別の男が声を上げる。
「呼ぶ時は早めにしてくださいよ。畑を途中で放り出すと、女房に殺されます」
今度はもっと大きな笑いが広がった。
湿っぽい別れにならなかったことに、少し安心した。
安喜まで同行するのは、俺たち四人と、身の回りや護衛を担う少数だけに絞った。
残る者には、帰る村、家族、伍長、得意な仕事を確認し、木簡へ残していく。読み書きのできる者には連絡役を頼み、文字の扱えない村では、覚えの確かな者を選んだ。
四百人の軍は、見た目には消える。
だが俺の手元には、四百人分の名前と繋がりが残った。
それでいい。
兄上が得たものを、もう最初から失う必要はない。
◇
安喜へ入って最初に感じたのは、歓迎ではなく警戒だった。
県城へ続く道の両側から、住民たちがこちらを窺っている。
黄巾が暴れ、賊が増え、討伐に来た兵まで食料を奪うことがある時代だ。新しく赴任する尉が、関羽と張飛のような大男を連れて現れれば、身構えるのも当然だった。
「益徳」
「何だ?」
「その顔で市場を睨みながら歩かない方がいい」
「睨んでないぞ」
「普通にしていてそれなら、なおさらだ」
張飛が何か言い返そうとしたところで、関羽がわずかに笑った。
「季衡の言う通りだ」
「雲長兄まで言うのか」
劉備も苦笑していた。
その程度の軽口は交わしたが、県廷へ入ると空気が変わった。
兄上は任命の文書を示し、官印と綬を受け、安喜尉として正式に職へ就いた。
県を治める長官ではない。
税を自由に変えられるわけでもなければ、県のすべてを好きに動かせる立場でもない。
兄上へ任された中心は治安だった。
盗賊を追い、怪しい動きを調べ、県内の道や村を荒らす者を捕らえる。
戦場で千人の黄巾を崩す仕事とは、似ているようでまるで違う。
「これが近ごろ届けられた盗賊や強盗の記録にございます」
年嵩の役人が運んできた木簡は、思っていたより多かった。
黄巾の乱以降、家や畑を失った者が増え、その一部が賊へ流れているらしい。
荷車から穀物を奪われた。
夜中に家畜を盗まれた。
市から帰る商人が殴られ、銭を取られた。
一件ずつなら珍しくもない事件が、木簡の束になって積み上がっている。
「最近のものから見せてもらっても?」
俺が訊くと、役人が劉備へ視線を向けた。
「弟には俺の仕事を手伝ってもらう」
兄上が答える。
「承知いたしました」
事件の記録そのものは、きちんと残されていた。
ただ、日付順に読むだけでは全体が見えにくい。
俺は安喜周辺の道と村を聞きながら、粗い地図を作った。そこへ一月ほどの事件が起きた場所を、内容ごとに印していく。
家畜の盗難。
荷車への襲撃。
夜道での強盗。
十件を越えた頃には、偏りが見え始めた。
「北西だな」
関羽が地図を覗き込む。
「俺もそう見える」
すべてではない。
だが、荷車を狙った事件と家畜の盗難の多くが、北西へ伸びる道の周辺に集まっていた。
「この辺りは?」
俺が役人へ尋ねる。
「林と低い丘が続いております。その向こうに二つほど村がございます」
「巡回はしていますか?」
「もちろんです。日暮れ前を中心に、日によっては夜も回っております」
「道順は?」
「こちらから林の南を回り、そのまま北の村まで」
「時刻も毎日ほぼ同じですか?」
役人が答えかけて、口を閉じた。
それだけで十分だった。
「季衡」
劉備がこちらを見る。
「賊に覚えられていると思うか」
「可能性は高い。同じ時刻に同じ道を通るなら、その時間だけ隠れていればいい」
巡回そのものが無意味なのではない。
予測できることが問題なのだ。
俺たちは巡回の時刻をずらし、道順も数種類に分けた。
一人では動かさず、必ず二人以上。
地元の道を知る人間と、俺たちが連れてきた者を組ませる。
それから戻ってきた時には、「異常なし」で終わらせず、見た荷車、人、家畜、いつもと違った物を簡単に残してもらうことにした。
「何もなかったことまで書くのですか?」
老役人が少し不思議そうに訊いた。
「全部を細かく書く必要はありません。ただ、普段が分からないと、変わった時にも気づきにくいので」
「なるほど」
理解してくれる相手なら話は早い。
兄上が赴任したからといって、安喜の役人を全部入れ替える必要などない。土地を知っている人間には、その人にしかない知識がある。
俺たちが持ち込むのは、それを使いやすくする方法だけでいい。
◇
成果が出たのは三日後だった。
北西を回った巡回役が、予定より早く戻ってきた。
二人とも息を切らしているが、怪我はない。
「玄徳様。林の手前で見慣れない荷車を見ました」
劉備がすぐに立ち上がる。
「荷は?」
「空でした。ただ、車輪と荷台の隅に粟が残っています。御者は二人。声をかけようと近づいたところ、道を外れて林へ入りました」
「追ったか?」
「少しだけ。ただ、林の中に仲間がいるかもしれないと思い、場所だけ覚えて戻りました」
俺は思わずその男を見た。
「いい判断だ」
捕まえたい気持ちのまま林へ入っていれば、二人とも帰ってこなかった可能性がある。
報告を受けてから人数を揃えればいい。
地図を見る。
荷車が消えた場所は、襲撃の印が集中していた辺りから近い。
「兄上」
「ああ。見に行こう」
劉備の判断も早かった。
ただし、最初から大人数では動かない。
賊がこちらに気づいて逃げれば意味がないため、地元の巡回役を含め三十人だけを連れた。
林へ着く前に三組へ分ける。
「雲長兄は十人を連れて北側へ回ってほしい。林の裏から村へ抜ける道があるらしい」
「承知した」
「益徳は十人で街道東側の茂みに伏せてくれ。賊が俺たちを見て引き返した時だけ出てもらいたい」
「また待つ役か」
張飛は少し不満そうだったが、以前のように勝手に前へ出ようとはしない。
「益徳が街道の真ん中に立っていたら、向こうも出てこない」
「俺はそこまで目立つか?」
関羽が張飛を見た。
「目立つ」
劉備も続く。
「かなりな」
張飛は自分の身体を見下ろし、諦めたように息を吐いた。
「分かった。隠れて待つ」
これで配置は明確になった。
関羽が北側の逃げ道。
張飛が街道東側の伏兵。
劉備と俺、それに残る十人ほどが街道正面に立つ。
林へ深く入らない。
賊の方から荷を運び出すのを待つ。
半刻ほど経った頃、木々の向こうから車輪の軋む音が聞こえてきた。
一輌。
続いて、もう一輌。
巡回役が見たという空荷の車ではない。今度は穀袋と布を積んでいる。
男が七人。
全員ではないが、腰や手に武器が見えた。
荷車が街道へ出たところで、劉備が前へ出る。
「止まってくれ」
先頭の男が手綱を引いた。
「何の用だ」
「安喜尉の劉備だ。その荷を確かめたい」
男の目がわずかに動いた。
「商いの荷だ。官に調べられる筋合いはない」
「なら、確認が済めば通す。どこの村から買った物だ?」
答えがない。
後ろの男が、ゆっくり剣へ手を伸ばした。
劉備の声が低くなる。
「抜くな。今なら荷を確かめるだけで済む」
男は抜いた。
同時に先頭の荷車が向きを変えようとする。
「益徳!」
俺が呼ぶまでもなかった。
茂みから張飛たちが姿を現した。
「そっちは通れん」
荷車が止まる。
後ろへ戻ろうとした二人も、林の北側から出てきた関羽の兵を見て足を止めた。
完全に挟まれた。
それでも剣を抜いた男が張飛へ斬りかかる。
張飛は刃を力任せに受けなかった。
踏み込みに合わせて身体を斜めへ外し、相手の手首と肘へ触れる。男の肩が流れたところへ足を入れると、身体が地面へ落ちた。
以前なら、そのまま力で叩き伏せていたはずだ。
今は相手の体勢を崩してから、自分の力を使う。
「どうだ、季衡」
「まだ終わってない」
「分かっている」
そう言いながら、張飛はすでに次の男を見ていた。
別の一人が関羽へ槍を向けた。
関羽は半歩だけ穂先の線から外れ、槍の柄を自分の武器で押さえた。そのまま一歩入ると、相手は武器を手放すしかない。
残る者たちは、そこで抵抗をやめた。
荷を調べると、届け出のあった印のついた穀袋が出てきた。
布も同じだった。
「林の中を調べよう」
劉備が言う。
今度は捕らえた男たちを安喜の巡回役へ任せ、十分に周囲を確かめながら進む。
林の奥には、外から見えにくい窪地があった。
粗末な小屋が三つ。
牛が二頭。
荷車がさらに四輌。
農具、布、穀物、酒の甕まで積まれている。
小屋から逃げ出した男たちは、北側で待っていた関羽の兵に捕らえられた。
黄巾の残党というより、混乱に乗じて街道を荒らしていた盗賊だった。
数は十数人。
千人を超える黄巾と比べれば、小さな相手である。
しかし、安喜で暮らす者にとっては、千人の黄巾より毎月牛を盗みに来る十人の方が身近な脅威になる。
兄上がこれから守るのは、そういう暮らしなのだ。
◇
翌朝、取り戻した物を県廷の前へ並べた。
役人が届け出と照らし合わせ、持ち主が確認できたものから返していく。
牛を奪われていた農民は、縄を受け取ると、その場で膝をつきそうになった。
「玄徳様、本当に……」
「礼なら最初に荷車を見つけた二人へ言ってくれ」
劉備が巡回役を呼ぶ。
二人は困ったような顔をした。
「俺たちは賊を捕まえていません」
「無理に追わず、場所を覚えて帰ってきただろう。それがなければ捕まえられなかった」
周囲で聞いていた役人たちの表情が変わった。
敵を斬った者だけが働いたわけではない。
見つける者。
戻って知らせる者。
過去の事件を記録していた者。
道を知っていた地元の人間。
全員が役割を果たしたから、十数人の賊をまとめて捕らえることができた。
俺はその方が強い組織だと思う。
「季衡殿」
老役人が木簡を持って近づいてきた。
「昨夜の一件を、今までの記録と同じ形でまとめておきました」
受け取って目を通す。
荷車を見つけた時刻。
場所。
林へ入った人数。
俺たちが動かした人数。
捕らえた人数と、戻った盗品。
かなり細かい。
「ここまで書いてくれたんですか」
「今までは、賊を捕らえれば『捕らえた』で終わっておりました。しかし次に似たことが起きた時、どこを見ればよいのかまで残しておいた方が役に立つのでしょう?」
「その通りです」
俺が一から書かなくても、役所の人間が必要性を理解して残し始めている。
それが何より大きかった。
人が代わっても続く仕組みなら、俺がそこにいなくても残る。
兄上がようやく得た足場も、そういう場所にしたい。
「季衡」
劉備の声がした。
振り向くと、兄上が一枚の文書を持って立っていた。
「中山国から知らせが来た」
「何の?」
「督郵が巡察に来るそうだ」
その二文字を見た瞬間、前世で読んだ文章が頭の奥から浮かび上がった。
督郵。
正史の先主伝では、兄上は督郵に面会を求めて通されず、直接入り込んで縛り上げ、杖で打った末に印綬を解いて官を棄てる。
別の伝承では、黄巾討伐の軍功によって官を得た者を整理する動きがあり、兄上自身も罷免されると考えていたことが発端になったとされている。
細部がどちらだったとしても、結末だけは変わらない。
劉備は安喜尉を失う。
「季衡?」
兄上が俺の顔を覗き込む。
「すまない。考え事をしていた」
「督郵に何かあるのか?」
「誰が来るかは知らない。ただ、兄上の働きを調べに来る相手なのは間違いない」
「なら、見てもらえばいい」
劉備はあっさり言った。
「ここへ来て日も浅い。大したことはできていないが、隠すこともしていない」
俺は県廷を見回した。
巡回の記録がある。
盗賊事件の地図がある。
捕らえた者と、返した盗品の記録もある。
誰がどこを巡回し、何を見て、どんな判断で兵を動かしたのかまで残り始めている。
兄上が安喜へ来てから何をしたのかを、誰かの印象だけで決めさせる必要はない。
「兄上。督郵が来るまでに、ここの記録を整理したい」
「今でも十分残しているだろう」
「残っているだけでは駄目だ。初めて見る人間が短い時間で分かる形にしたい。赴任した時に盗賊が何件あって、何を変え、何人捕らえ、盗品をどれだけ返したか。それから巡回で問題が減ったかどうかも」
劉備が少し考えた。
「俺を褒めさせるためか?」
「違う。勝手に悪く評価できないようにするためだ」
兄上の目が細くなる。
「季衡。お前、やはり督郵を警戒しているな」
「警戒はしている。ただ、相手がまともな人間なら何も問題はない」
その場合は、仕事を見てもらえばいい。
もし違うなら。
記録が役に立つ。
「分かった」
劉備は文書を畳んだ。
「必要なものを言ってくれ。俺も手伝う」
「兄上には、まず印綬を外さないでもらえれば助かる」
「なぜ今そんな話になる?」
「念のためだ」
劉備は怪訝そうだったが、それ以上は追及しなかった。
俺は笑わなかった。
後世の俺は、この先を知っている。
兄上は安喜で、最初に得た官職を捨てる。
そこから再び各地を渡り歩くことになる。
だが今回は、ここまでに積み上げたものがある。
四百人の名簿も。
安喜で始めた記録も。
人を動かす仕組みも。
そして、兄上がこの土地で実際に働いたという証拠も。
ようやく手にした最初の足場だ。
今度は、簡単には失わせない。




