第8話 敵より先に、戦場を知る
夜襲を退けた翌朝、俺は勝った理由より、危なかった場所から先に聞いて回った。
南側では見張りが早く敵を見つけ、決めていた手順どおりに予備を動かせた。一方で西側は、敵がかなり近づくまで発見が遅れている。死者二人、負傷者十一人という被害の多くも、そちらで出ていた。
西の見張りを務めた男は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「林の影が濃くて、人が動いているのが分かりませんでした。笛を吹いた時には、もうかなり近くまで来ていて……」
「責めているわけじゃない。次も同じ場所に立つなら、どうすれば早く気づけるかを知りたいんだ」
俺は西側の柵まで歩き、改めて周囲を見た。
昨夜は暗くて分からなかったが、陣の外から緩やかな窪みが林へ続いている。敵はその低い場所を使って近づいたらしい。柵のそばに立っているだけでは、かなり手前まで姿が見えない。
「見張りを十歩ほど前へ出しましょうか」
男が言った。
「それだけだと、今度は見張りが先に斬られる」
考えてから、林との中間に一人を置くのではなく、二人一組をさらに二組に分けることにした。
前の二人は音や人影を探し、後ろの二人は陣との連絡を受け持つ。敵を見つけた者が走って戻る必要をなくせば、監視そのものを続けられる。
伝える方法も変える。
昨夜使った竹笛は役に立ったが、風向きによっては聞こえにくい。そこで夜間は笛に加えて覆いをつけた松明を用意し、決めた回数だけ光を見せることにした。
音と光のどちらかが駄目でも、もう片方が残る。
「季衡」
後ろから劉備が歩いてきた。
「また何か増やしているのか?」
「増やすというより、昨日うまくいかなかったところを直している」
「西の見張りか」
「そうだ。次も夜襲があるとは限らないが、同じ失敗を二度する理由はないからな」
劉備は窪地を眺めたあと、見張りの男へ声をかけた。
「昨夜はよく知らせてくれた。遅かったと思っているようだが、知らせがなければもっと被害が出ていた」
「玄徳様……」
「次は、もっと早く見つけてくれればいい」
それだけ言って、兄上は俺の方へ向き直った。
「鄒校尉から使いが来た。すぐ来てほしいそうだ」
◇
鄒靖の天幕には、すでに数人の斥候が集められていた。
地面に広げられた布の上には、涿県の南側を大まかに描いた地図が置かれている。
「昨夜、お前たちを襲った賊とは別に、南から黄巾の一団が北上している」
鄒靖は地図の一点を指した。
「数は七百から九百。ただし報告が食い違っている。東の街道を進んでいるという者もいれば、もっと西にいるという者もいる」
「目的は分かりますか?」
劉備が尋ねる。
「分からん。涿へ向かっているのか、俺たちの兵糧路を切るつもりなのか、それとも合流先を探しているだけなのか。だから確かめろ」
鄒靖の指が、街道と西側の丘陵地をなぞった。
「玄徳。お前の隊を使う。敵を見つけても、勝手に大軍へ突っ込む必要はない。居場所と進む方向を掴み、この街道を守れ」
以前なら、敵を見つけて戦うことそのものが仕事だった。
今回は違う。
敵を知ることが先に求められている。
「承知しました」
劉備が答えた。
俺は地図を見ながら、斥候たちへ尋ねた。
「七百と九百ではかなり違います。どうやって数えましたか?」
一人が少し困った顔をした。
「丘から見ました。かなり大勢でしたので、七百ほどかと」
「もう一人は?」
「俺は街道沿いの村で聞きました。千近い賊が通ったと」
なるほど。
どちらも嘘をついているわけではない。
ただ、一人は自分の目で見た概算。もう一人は村人から聞いた話だ。
「鄒校尉。報告を分けて書いてもいいでしょうか」
「分ける?」
「自分で見たことと、人から聞いたことを別にしたいんです。同じ『敵が千いる』でも、自分で見たのか、村人から聞いたのかで扱いが変わります」
鄒靖は地図から顔を上げた。
「好きにしろ。ただし遅くするな」
「ありがとうございます」
それだけ許可があれば十分だった。
◇
陣へ戻ると、斥候に使える者を集めた。
馬に乗れる者だけではない。猟師、炭焼き、行商をしたことがある者、この辺りの村を知っている者も呼んだ。
そして報告する内容を四つに絞った。
場所。
人数。
進んでいる方向。
何を見たのか。
最後が一番重要だった。
「『敵が五百いると思います』だけでは困る。五百人を見たのか、百人ずつ五つに分かれているのを見たのか、それとも焚き火の数から考えたのか。それを一緒に教えてほしい」
集まった男の一人が手を挙げた。
「季衡様。正確な人数が分からない時は?」
「分からないままでいい。二百より多い、五百まではいなさそう、という言い方でも構わない。無理に数字を決められる方が困る」
「間違えても怒られませんか?」
「見たものをそのまま言って間違うなら仕方がない。見ていないものまで見たように言われる方が危ない」
何人かが頷いた。
さらに、距離も「遠い」「近い」だけで終わらせないようにした。
馬ならどれほどかかったか。
歩けばどれくらいか。
道に目立つ木や橋、寺、丘があるなら覚える。
歩数まで厳密に揃えるつもりはない。人によって足の長さも違う。ただ、何もないよりはずっとましだ。
「地図まで作るつもりか?」
張飛が俺の手元を覗き込んだ。
「立派なものは無理だ。ただ、道と川と村、水が取れる場所くらいは残したい」
「そんなものが戦に要るのか」
「益徳が一人で戦うなら要らないかもしれない。四百人が飯を食いながら歩くなら必要だ」
「また飯か」
「軍は毎日食うからな」
張飛は呆れたように笑ったが、反論はしなかった。
関羽はむしろ興味を持ったらしく、俺が木簡へ道筋を描いている横へ腰を下ろした。
「川幅も記すのか?」
「渡れるかどうかは欲しい。昨日みたいに荷車がある場合は特に」
「なら、浅瀬も必要だな。馬で渡れる場所と、人だけなら渡れる場所は違う」
「その通りだ。雲長兄、気づいたものがあれば全部言ってくれ」
「任せろ」
その日の午前、斥候を四方へ放った。
全員を遠くへ出さず、近い範囲を調べる組と、その先まで行く組を分ける。一組が戻らなくても全部の目を失わないためだ。
俺たち本隊も動き始めた。
◇
行軍でも、一つ試した。
先頭が元気だからといって歩調を上げすぎない。
一定のところで必ず休む。
水を飲ませる。
荷車の車輪や馬の脚も、その時に見る。
最初は張飛が不満そうだった。
「まだ歩けるぞ」
「益徳は歩けるだろうな」
「兵だって、まだ余裕がある」
「余裕があるうちに休むんだ。限界まで歩いてから止まったら、再び動き出すまで時間がかかる」
俺が知っている現代の軍隊の行軍を、そのまま再現できるわけではない。
ただ、長距離を移動する時に一定の周期で休ませ、足や装備の異常を早めに見つける考え方は使える。
一度目の休憩では何もなかった。
二度目で、荷車の軸が緩んでいるのが見つかった。
三度目には、兵の一人が足の裏を擦りむいていた。歩けなくなる前に荷役へ回し、別の者と交代させる。
張飛はそれを見てから、休憩について何も言わなくなった。
昼過ぎ、最初の斥候が戻った。
「東の街道には大きな集団はいません。二十人ほどの黄巾を見ましたが、南へ逃げました」
「どこで見た?」
地図へ印をつける。
二組目。
「西の村で、昨日の夕方に大勢が穀物を買おうとしたそうです。黄色い布を巻いた者もいたと」
「自分で見たのは?」
「村に残った馬糞と、踏み荒らされた畑です。馬は多くありません。人の足跡はかなりありました」
三組目は、干上がりかけた川沿いで捨てられた焚き火跡を見つけていた。
四組目が戻ってきた時、俺は地図をしばらく見た。
報告だけなら、敵は東にも西にもいるように見える。
しかし自分の目で大人数を確認した者は一人もいない。
「季衡、何か分かったか?」
劉備が尋ねた。
「まだ断定はできない。ただ、変だ」
「何が?」
「七百人以上いるなら、水が要る」
地図へ指を置く。
東の街道沿いには井戸がいくつかあるが、大軍が立ち寄ったという確かな話はない。
一方、西側では村の穀物が買われ、川沿いには大量の焚き火跡がある。
「西を進んでいる?」
「その可能性が高い。ただ、このまま北上すると大きな川にぶつかる」
関羽が地図を覗き込んだ。
「渡れる場所は限られるな」
「ああ。だから先に浅瀬を押さえたい」
俺たちが今いる場所からなら、敵より早く着ける可能性がある。
ただし、普通に全員で進めば間に合うか分からない。
「兄上。兵を二つに分けたい」
「どう分ける?」
「足の速い者二百ほどを先に出す。雲長兄と益徳にも一緒に行ってもらいたい。兄上は残りと荷をまとめて後から来てくれ」
「季衡は?」
「先に行く。浅瀬を見ないと配置を決められない」
劉備は少し考えた。
「分かった。ただし、敵が先にいたら戦うな」
「そのつもりだ」
「雲長、益徳。季衡を頼む」
「承知した」
「任せろ」
張飛が胸を叩く。
「季衡を守ればいいんだな」
「できれば俺より浅瀬を守ってくれ」
「分かっている」
そこは少し心配だった。
◇
日が西へ傾き始めた頃、俺たちは目的の川へ着いた。
幅は広いが、水量はそれほど多くない。
ただし底が深くなっている場所もあり、どこからでも渡れる川ではなかった。
関羽が馬で浅瀬へ入り、何度か往復する。
「ここなら歩兵は通れる。荷車も、底を確認すればいけるだろう」
「他に渡れそうな場所は?」
先に周囲を見ていた猟師が答えた。
「上流へ一里ほど行けば、もう一つあります。ただ、こちらより狭いです」
俺は少し考えた。
「益徳。百人を連れて上流の浅瀬を見てきてもらえるか。敵がいなければ、そこで待っていてほしい」
「分かった。敵が来たら?」
「数を見てから知らせてくれ。すぐ突っ込まないでくれると助かる」
「そこまで信用がないか?」
「益徳が強いことを信用しているから言ってるんだ。百人で八百人へ突っ込まれたら困る」
張飛は鼻を鳴らしたが、笑っていた。
「分かった。知らせる」
残った百人ほどで、こちらの浅瀬を押さえた。
川岸へ簡単な柵を作り、槍兵を二列にする。弓を持つ者は少し高い場所へ上げ、戦わずに済むなら戦わない。
間もなく、南へ出した斥候が戻ってきた。
「来ます。街道ではありません。川沿いです」
「数は?」
「見えた範囲で三百以上。その後ろにも続いています」
「旗は?」
「大きな黄色い旗が二本。荷車もあります」
やはり西だった。
さらに次の斥候が来る。
「六百はいると思います。ただ、長く伸びています。前と後ろがかなり離れています」
敵は急いでいる。
俺たちより遅れて浅瀬の存在へ気づき、この川を越えようとしているのだろう。
関羽が槍を持った。
「ここで止めるか」
「できれば、渡ることを諦めさせたい」
「難しければ?」
「その時は戦う」
敵の先頭が見えた。
黄巾の一団は、浅瀬に兵が並んでいることに気づくと足を止めた。
予想外だったらしい。
こちらは百人余り。
相手は数倍いる。
普通なら押し切れると思うだろう。
だが、川は同時に全員を通してくれない。
最初の数十人が浅瀬へ入ってきた。
「まだ射るな!」
関羽が兵を止める。
敵の水深が膝近くになる。
足場も悪い。
そこで初めて弓を射た。
一斉射で数人が倒れた。
後ろが止まり、前の者が振り返る。
「槍!」
関羽の声で前列が穂先を揃えた。
水の中から上がろうとした黄巾兵が、その槍列を見て躊躇した。
こちらから川へ降りて戦う必要はない。
相手が最も動きにくい場所で待てばいい。
何度か矢が飛び交った後、黄巾側が一度下がった。
「追わない」
俺が言うより先に、関羽が兵へ命じた。
もうその辺りは説明する必要もなくなってきた。
黄巾の中から騎馬の男が一人前へ出た。
「たったそれだけの兵で道を塞ぐつもりか!」
対岸から声が飛ぶ。
俺は返事をしなかった。
話し合いに来たわけではない。
男は何度か挑発したが、こちらが動かないと分かると引き返した。
やがて黄巾軍が上流へ動き始める。
関羽が俺を見る。
「益徳のところへ行くつもりだな」
「ああ」
「援軍を出すか?」
「出す。ただ、ここも捨てられない」
五十人を関羽につけ、上流へ向かわせようとした時だった。
北から馬蹄の音が聞こえた。
劉備だ。
後続の兵を連れて、予定より早く追いついてきた。
「兄上!」
「荷は少し後ろへ置いた。戦える者を先に連れてきた」
劉備は川の向こうへ目をやった。
「状況は?」
「敵が上流へ動いた。益徳が百人で浅瀬を押さえている」
「なら俺がそちらへ行く」
「兄上?」
「ここは雲長と季衡で足りるだろう。上流は益徳だけでは心配だ」
否定できなかった。
「頼む。ただ、益徳が追撃しそうなら止めてくれ」
「それが一番大事そうだな」
劉備は苦笑すると、兵を率いて上流へ向かった。
◇
上流から戦いの音が聞こえたのは、それから間もなくだった。
黄巾側も、二つ目の浅瀬まで押さえられているとは思っていなかったのだろう。
こちらの浅瀬では、敵の半数ほどがその場に残ったまま動けずにいる。
前へ出れば関羽がいる。
上流へ向かえば張飛と劉備がいる。
日も沈み始めている。
渡河そのものを諦めるには十分だった。
やがて対岸の旗が動いた。
南へ戻り始める。
「撤退するぞ!」
兵たちから声が上がった。
関羽は槍を上げたが、川を渡れとは命じなかった。
「隊列を崩すな。敵が見えなくなるまで持ち場を守れ」
その声に兵が従う。
少し前なら、逃げる敵を見て何人かは勝手に川へ入っていたかもしれない。
今は誰も動かない。
俺はその光景を見ながら、ようやく息を吐いた。
戦った時間そのものは短い。
敵を何百人も討ったわけでもない。
それでも七百を超える黄巾の進路を変え、街道へ出る前に押し返した。
敵より強かったからではない。
敵より先に、どこを通るかを知ったからだ。
◇
夕暮れ前、上流から劉備と張飛が戻ってきた。
張飛の鎧には血がついていたが、本人は無傷だった。
「季衡。上も守ったぞ」
「追わなかったか?」
「兄者が来たからな」
「俺が行かなければ追ったような言い方をするな」
劉備が呆れたように言う。
張飛は否定しなかった。
「敵は?」
関羽が尋ねる。
「二度渡ろうとして、諦めた。最後は南へ下がった」
劉備が答える。
「こちらの死傷者は?」
「上流では死者一、負傷六だ」
こちらは死者なし、負傷者が四人。
もちろん軽い数字ではない。
しかし、七百を超える敵と正面から野戦をしていれば、到底その程度では済まなかっただろう。
日が落ちる前に斥候をもう一度出し、敵が本当に南へ戻ったことを確かめた。
その夜、俺は新しく描いた地図へ二つの浅瀬を書き込んだ。
その横に、水場、村、丘、林、荷車が通れる道を付け加えていく。
関羽が隣から覗き込んだ。
「これを残すのか?」
「ああ。次にここを通る時、また一から調べる必要がなくなる」
「敵が使うこともあるぞ」
「だから全部を誰にでも見せるつもりはない。ただ、俺たちの中には残しておきたい」
経験を人の頭の中だけに置いておけば、その人間が死んだ時に消える。
書けば残る。
地図にすれば共有できる。
それも、俺が前世から持ってきた当たり前の感覚だった。
劉備が火のそばへ座った。
「今日、敵とまともに戦う前から、勝負が決まっていたように見えた」
「そこまでではない。敵が強引に渡ってきたら、もっと苦しかった」
「だが、敵より先に浅瀬を押さえたから戦いやすくなった」
「それはそうだな」
「なら、次も先に知ればいい」
兄上は簡単に言う。
俺は少し笑った。
「兄上。敵も同じことを考えるぞ」
「それなら、向こうより早く知ればいい」
関羽が静かに頷いた。
張飛は火の向こうで槍を磨きながら、口元を上げている。
「俺は敵が来てからでも構わんがな」
「益徳だけを基準に軍を作るつもりはない」
「それは残念だ」
明日になれば、鄒靖へ報告しなければならない。
どこに敵がいたか。
どこを通ろうとしたか。
どこで渡河を諦めたか。
そして、街道が今も使えること。
これまでは戦って勝つことだけが功だった。
だが軍を動かすなら、敵の首より価値のある情報もある。
俺は地図の端へ、今日確認した距離を書き加えた。
兄上がいつか大きな軍を率いるなら、関羽と張飛の武だけに頼る軍にはしたくない。
敵より早く知り、早く動き、先に有利な場所を取る。
戦う前から、少しずつ勝っている軍。
その形が、ようやく見え始めていた。




