第7話 夜襲に、起こされない軍
兵糧車二十四輌を一つも失わずに送り届けた翌朝、鄒靖から俺たちに新しい命令が出た。
涿県の南へ伸びる街道沿いに、小さな村がある。道が二つに分かれる場所で、周囲の黄巾を討つ官軍にとっては、兵糧と伝令を通すうえで都合がいい。その村外れへ二日ほど陣を置き、街道を守れという。
敵を討てという命令ではない。
だが、俺にはむしろありがたかった。
四百余りまで増えた兵を、一度じっくり整える時間ができる。
目的地へ到着すると、張飛は真っ先に周囲の丘や林を見て回り、関羽は兵を使って柵にする木を集め始めた。劉備は村の長へ挨拶へ向かい、軍が使ってよい井戸や空き地について相談している。
俺はというと、最初に水場を見た。
「季衡。柵より先に井戸を見るのか?」
戻ってきた張飛が、不思議そうに尋ねてきた。
「井戸だけじゃない。川も見ておきたい」
村の西を細い川が流れている。俺は上流と下流を確認し、兵に水を汲ませる場所を上流側に決めた。
その下流へ馬を繋ぐ場所を置き、さらに離れた場所へ便所を掘らせる。
張飛が腕を組んだ。
「便所の場所まで決めるのか」
「四百人が二日も同じ場所にいるんだ。好きなところで用を足されたら、水が駄目になる」
「川は流れているぞ」
「だから上で汚せば、その水を下で飲むことになる」
病を起こす原因が細菌やウイルスだと説明しても、この時代では確かめる手段がない。俺自身、医学の専門家でもない。
ただ、飲み水と排泄物を離す、腐った物を食べさせない、傷口を汚れたまま放置しない。この程度なら、知識として知っているだけでも大きい。
「飲む水も、怪しいものは一度煮てもらう。特に川の水はそのまま飲ませない方がいい」
「兵全員の水をか?」
「できる範囲でいい。薪にも限りがある。ただ、腹を壊して百人寝込むより安いだろう」
張飛はしばらく川と兵を見比べてから、納得したように頷いた。
「分かった。便所掘りなら力のある奴を回そう」
「助かる」
「その代わり、後で昨日の技を教えろ」
「合気術か」
「押してきた相手を外すところまでは分かったが、そのあとがどうもしっくりこない」
昨日の戦で一度使っただけなのに、もう自分なりに改良しようとしている。
「分かった。ただ、益徳の場合は投げるところまで覚えなくてもいい気がする」
「なぜだ?」
「体勢を崩した時点で、あとは益徳の力でどうにでもなるからだ」
張飛は少し考え、それから大きく笑った。
「確かにそうだな」
◇
昼までに、陣の形はおおよそできた。
中央には荷と負傷者を置き、その周囲へ兵の寝場所を配置する。外側には簡単な柵を作ったが、四百人を完全に囲むほど立派なものではない。
重要なのは、どこが誰の場所なのかを決めておくことだった。
伍ごとに寝る。
武器を置く場所も固定する。
夜に何か起きた時、それぞれがどこへ集まるかも決めた。
東側の兵は東。
西側の兵は西。
中央の予備だけは、どちらへも動けるようにする。
「夜襲が来ると思っているのか?」
劉備が訊いた。
「来ると決めつけてはいない。ただ、来てから考えるのは遅い」
黄巾の大きな集団を二度崩している。
兵糧輸送も守った。
俺たちの存在が周囲の黄巾へ知られていても不思議ではない。
「それと見張りを変えたい」
「今までも立てていただろう」
「ああ。ただ、一人で長く立たせるのはやめたい。二人一組にして、一定の時間で必ず交代する」
疲れた人間に「眠るな」と命じても限界がある。
夜中に一人で立ち続ければ、気が緩む。寒ければ身体も鈍る。
二人なら、一人が異変を見ている間にもう一人を走らせられる。
さらに見張り場所同士で合図を決めた。
一度なら味方の接近。
二度なら不審な人影。
三度続ければ敵襲。
大声を出す前に知らせるため、小さな竹笛を何本か作らせた。精巧な楽器など必要ない。決まった音が出れば十分である。
「笛まで揃えるのか」
劉備は手渡された一本を眺めた。
「夜に『敵だ』と叫べば、敵にも見つかったと教えることになる。笛なら、少なくとも最初の知らせは短く済む」
「なるほど」
「それと、見張りから報告が来ても、兵全員をいきなり起こさない。まず当番の隊と予備を動かす」
「間違いだった時に、全員を疲れさせないためか?」
「それもある。四百人が一斉に飛び起きて走り出したら、それだけで混乱する」
劉備は竹笛を弄びながら、少し笑った。
「お前が兵を扱っているところを見ていると、大勢を動かすのが嫌いなのか好きなのか分からんな」
「大勢を動かすのは嫌いじゃない。ただ、大勢が勝手に動くのが嫌なんだ」
「それなら分かる」
兄上は俺の肩を軽く叩き、見張り役の選定へ向かった。
◇
午後は兵の訓練に使った。
槍の扱いだけではない。
寝ている状態から武器を取り、決められた場所へ集まるまでを何度も繰り返させた。
最初は酷かった。
誰かが隣の槍を間違えて持ち、別の兵は履物を探して立ち尽くす。寝場所から飛び出した二つの伍が正面からぶつかり、張飛に「敵がいなくても負けられるぞ」と呆れられた。
それでも三度、四度と繰り返すうちに動きが変わった。
武器は必ず同じ側へ置く。
起きたら伍の五人を確認する。
揃わなくても、決められた場所へ先に動く。
伍長は不足している者の名前だけを上へ伝える。
全員が一度に何かを判断しようとしなくていい。自分の役目だけ分かっていれば、全体は動く。
「季衡」
訓練を眺めていた関羽が声をかけてきた。
「少しよいか」
「どうした?」
「合気術の足運びについて聞きたい」
関羽は地面へ槍を置くと、昨日俺が見せたように半身になった。
「相手の力を正面から受けぬという考えは分かる。ただ、槍を持つ場合、外へ出過ぎれば次の突きが遅れる」
「俺もそこは考えていた」
前世で俺が学んだのは合気道であって、後漢末の槍術ではない。
だから、俺が完成した正解を持っているわけではない。
「雲長兄なら、どのくらい外せばいいと思う?」
「これくらいだ」
関羽が半歩だけ位置を変えた。
俺が想定していたより小さい。
「それだけで足りるのか?」
「相手の穂先が身体を外れればよい。大きく動けば、その分だけこちらも遅れる」
「なるほど」
「季衡の教えたものは、武そのものというより考え方なのだろう?」
思わず関羽を見る。
「そうかもしれない」
「ならば、武器に合わせて変えるべきだ」
さすがに飲み込みが早い。
俺が何年もかけて身につけた身体の原理を、一日二日で自分の槍へ取り込もうとしている。
そこへ張飛もやってきた。
「雲長兄だけ先に教わるのはずるいぞ」
「お前は先ほど季衡と話していただろう」
「あれは話を聞いただけだ。実際にやるのは別だ」
「なら俺ではなく季衡に言え」
「言っている」
俺は二人を交互に見た。
「二人とも、俺より強いんだから少しは加減してくれ」
張飛が笑う。
「安心しろ。死なない程度にはする」
「それが一番安心できない言い方なんだが」
劉備まで近づいてきた。
「俺も入れてくれ。昨日、受身を覚えろと言われたままだ」
「兄上には、まず転び方からだな」
「扱いが違わないか?」
「雲長兄と益徳を基準にしたら駄目だ。この二人はおかしい」
「それは俺も同意する」
関羽が何も言わずこちらを見る。
張飛はむしろ誇らしそうだった。
訓練を始めると、劉備は派手さこそないものの、思ったより身体の使い方が素直だった。受身を何度か繰り返すうちに肩から落ちる怖さが薄れ、立ち上がりも早くなる。
関羽と張飛は、もう俺が教えた型から離れ始めていた。
関羽は槍を使ったまま最小限の体捌きを試し、張飛は崩した相手へ自分の体重と力を乗せる方法ばかり考えている。
同じ合気術でも、三人とも違うものになりそうだった。
それでいい。
俺が欲しいのは弟子ではない。
兄たちが、今より死ににくく、今より強くなることだ。
◇
日が落ちる前に、俺はもう一つだけ確認した。
「火を増やし過ぎないでくれ」
兵たちが夕食の支度をする中、各伍長へ伝えて回る。
夜になれば冷える。
火は必要だ。
だが陣の外周まで明るくすれば、こちらから暗闇は見えず、外からはこちらの兵だけがよく見える。
そこで火を焚く場所を少し内側へ寄せ、見張りは火を背負わない位置に置いた。
食事を終えた兵から順に休ませる。
全員が同じ時間まで起きている必要もない。
最初の見張り当番だけを残し、それ以外は眠らせた。
「季衡様」
以前、黄巾側から降り、今は荷役をしている陳生がやってきた。
「どうした?」
「明日の水を汲んでおきました。それと、言われた通り鍋も洗わせています」
「助かる。陳生は今日はもう休んでくれ」
「俺たちも、他の者と同じ場所で休んでよいので?」
少し意外な問いだった。
「働きに来てるんだから当然だ。ただ、武器を預けてもらう決まりはまだ変えられない」
「分かっております。それだけでも十分です」
陳生は頭を下げて去っていった。
信用は一日では作れない。
だが、働いた分だけ扱いを変えていくことはできる。
黄巾だったという理由だけで永遠に別枠へ置けば、向こうもこちらを仲間とは思わないだろう。
そんなことを考えているうちに、辺りは完全に暗くなった。
俺も横になる。
いつ敵が来るか分からないからと全員が徹夜すれば、敵が来なくても翌日には戦えなくなる。休める時に休むのも軍の仕事だ。
目を閉じてから、どれほど経っただろう。
笛の音で目が覚めた。
短く二度。
不審な人影。
俺は身体を起こした。
陣は静かだった。
誰も叫んでいない。
近くで休んでいた予備の兵だけが身体を起こし、音を立てないよう武器へ手を伸ばしている。
すぐに伝令が走ってきた。
「南の見張りです。林の縁に人影。最初に見えたのは五、六人ですが、その後ろにもいるようです」
「こちらへ近づいているか?」
「はい。止まっては進み、また止まっています」
「武器は?」
「暗くて確認できません。ただ、一人が長い物を持っています」
十分だった。
俺は劉備を起こした。
「兄上。南から来ている」
劉備は寝起きとは思えない速さで立ち上がった。
「敵か?」
「まだ断定はできない。ただ、予備と南側だけ起こす」
「分かった」
関羽と張飛にも伝令を出す。
兵を一斉に起こさない。
これも決めていた通りだった。
南側の伍だけが音を立てずに配置につき、その後ろへ予備を回す。
北と東の兵はまだ寝ている。
敵が陽動を使う可能性もあるから、見張りまで減らしてはいない。
やがて、もう一度笛が鳴った。
三度。
敵襲。
「南だけ起こせ!」
今度は伍長たちが一斉に動いた。
寝ていた兵が起きる。
それでも、昨日までのような混乱はない。
槍の場所を探す者も、どこへ行けばいいか訊く者もいなかった。
兵たちが指定された位置へ向かっていく。
敵が林から飛び出してきたのは、その途中だった。
◇
数は二百ほどだった。
暗闇の中、黄色い布を腕や頭へ巻いた人影がこちらへ走ってくる。
おそらく、眠っているところへ突っ込めば陣が崩れると思ったのだろう。
だが南側には、すでに百人以上の槍が並んでいた。
敵の足が一瞬だけ鈍る。
「松明!」
劉備の声で、後方に用意していた火が一斉に上がった。
こちらの前列ではない。
少し後ろだ。
敵から見れば、暗闇の中に突然、槍の穂先だけが浮き上がる。
「来るぞ!」
張飛の声が響いた。
「慌てるな! 前へ出るな!」
昨日なら、張飛自身が最初に飛び出していたかもしれない。
今日は違った。
兵を止め、その前で長矛を構えている。
黄巾兵がぶつかった。
槍が激しく鳴り、怒号が夜気を震わせる。
だが奇襲にはならなかった。
眠っている兵へ斬り込むはずだった敵が、準備を終えた槍兵へ正面からぶつかっている。
それだけで戦いの形は大きく変わる。
「西からも来る!」
別の見張りから伝令が入った。
数は五十ほど。
やはり南だけではなかった。
「兄上、西は俺が見る。雲長兄を回してくれ!」
「分かった!」
劉備がすぐ旗手へ命じる。
夜でも見えるよう、旗だけでなく松明の動きと太鼓を組み合わせていた。
二度。
西へ移動。
関羽の隊が静かに向きを変える。
敵は、南へ全兵力が集まっていると思っていたのだろう。西側へ近づいてきた五十余りは、関羽の兵がすでに待っているとは考えていなかったらしい。
ほどなく、西から短い喊声が上がった。
長くは続かなかった。
こちらにはまだ北側の兵と中央の予備が残っている。
南の敵も、それに気づき始めた。
「益徳!」
俺が呼ぶと、張飛がこちらを見る。
「押し返せるか?」
「さっきから待っている!」
「追い過ぎるな。林へ入る前に止まってくれ」
「分かっている!」
張飛が長矛を上げた。
「前へ!」
今まで受け止めていた兵が、一斉に半歩、さらに半歩と進む。
大きく走らせない。
隣の伍と離れず、前へ押す。
黄巾側の前列が下がり始めた。
そこへ張飛が入る。
一人の男が槍を捨て、張飛へ組みつこうとした。
張飛は真正面から受けなかった。
身体をわずかに外し、伸びてきた腕を取る。
相手の足が流れた瞬間、腰を入れた。
男の身体が地面へ叩きつけられる。
「季衡!」
戦っている最中なのに、こちらを向いて笑った。
「今のはどうだ!」
「見るから前を向け!」
思わず怒鳴る。
張飛は笑いながら次の敵へ向き直った。
余裕があるのは結構だが、あれは後で言っておいた方がいい。
敵が崩れる。
南へ向かって逃げ始めた。
張飛は追わなかった。
兵も止まる。
ここが一番大きい。
勝った時ほど、兵は命令を聞かなくなりやすい。
目の前の敵を追えば首も取れるし、武器も奪える。
それでも止まった。
同じ号令を何度も繰り返してきた意味が、ようやく形になった。
◇
夜襲を退けたあとも、すぐ全員を眠らせることはしなかった。
二度目が来る可能性がある。
負傷者を中央へ集め、伍ごとに人数を確認し、矢や槍を補充する。見張りも全員交代させた。
死者は二人。
負傷者は十一人だった。
夜襲を受けたことを考えれば軽い。
ただし、二人は戻ってこない。
名前と出身の村を確認し、家族についても記録させる。
劉備が俺の隣へ座った。
「季衡」
「どうした?」
「今日の戦は、お前が敵の策を見抜いたわけじゃないな」
「ああ。来るかどうかさえ分からなかった」
「それでも勝てた」
俺は陣を見渡した。
見張りに立つ兵。
負傷者を運ぶ者。
武器を集める者。
夜中だというのに、それぞれが自分の仕事をしている。
「来る前に決めておいたからだと思う」
「見張りの交代も、集まる場所もか」
「それだけじゃない。伍を固定したことも、予備を残したことも、報告の仕方を揃えたことも全部だ。どれか一つで勝ったわけじゃない」
劉備はしばらく黙っていた。
「以前のお前なら、こんなことまで考えただろうか」
一瞬だけ言葉に詰まった。
高熱で倒れる前の劉恪を、兄上は知っている。
俺の中にはその記憶もある。
「死にかけると、人間は少し変わるらしい」
「少し、か?」
劉備の口元がわずかに上がった。
「かなり変わったと思うぞ」
「悪い方へか?」
「いや。今のところは助かっている」
深く追及するつもりはないらしい。
兄上は立ち上がると、兵たちの方へ歩いていった。
俺も後を追う。
夜が明け始める頃、関羽が西側から戻ってきた。
「西の敵も散った。追撃はしていない」
「助かる」
「それより季衡。合気術だが、槍だけでなく騎乗時にも使えそうだ」
「もう次を考えてるのか」
「使えるものなら、早く試した方がよかろう」
張飛もやってきた。
「俺はさっき一人投げたぞ」
「見てた。それより戦いの途中でこっちを見るな」
「余裕があったからな」
「敵が一人残っていたら、その余裕で死ぬぞ」
俺が真顔で言うと、張飛も笑うのをやめた。
「……分かった。次から気をつける」
そこは素直だった。
「合気術については、二人だけじゃなく兵にも少しずつ広げたい。投げ技より、受身と足運びからになるが」
関羽が頷く。
「それがよい。昨日見た限り、倒れた後に起きるのが遅い者が多かった」
「俺もそう思う」
武術だけではない。
見張り。
斥候。
衛生。
行軍。
負傷者の運び方。
兵糧の管理。
一つ一つは小さい。
しかし、その小さい差が積み重なれば、同じ四百人でもまったく違う軍になる。
朝日が林の向こうから昇り始めた。
夜襲を受けた陣には、まだ血の臭いが残っている。
それでも兵たちは崩れていなかった。
飯を炊く者が火を起こし、見張りを終えた者が眠り、次の当番が持ち場へ向かっている。
昨日まで俺たちは、戦えば勝てる義勇兵だった。
これから作りたいのは、それだけではない。
眠っていても崩れない。
歩いても減らない。
腹を壊さず、怪我をした兵を捨てず、命令が届き、敵が逃げても止まれる。
関羽や張飛のような怪物がいなくても、簡単には壊れない軍。
そこへ二人がいるのだから、なおさら強くできる。
俺は朝の支度を始めた兵たちを見ながら、次に教えることを考えていた。
兄上がいつか大きな土地を手に入れた時、それを守るのは一人の英雄ではない。
こういう兵たちだ。




