第5話 勝った後が、軍師の仕事だ
千二百を数えた黄巾の集団を崩した翌朝、俺が最初に見たのは戦果ではなく、村の外に並べられた荷車だった。
黄巾が周辺から奪った穀物、布、農具、それに家畜まで積まれている。昨夜のうちに鄒靖の兵が集めたものだが、これをそのまま官軍の戦利品として持ち去れば、この辺りの村は黄巾が去った後も飢えることになる。
朝靄の残る中、村人たちが遠巻きに荷車を見つめていた。
近づきたいが、官軍がいるため遠慮しているのだろう。
「兄上。あの荷、持ち主が分かるものだけでも返せないかな」
俺が言うと、劉備も荷車へ目を向けた。
「俺も考えていた。ただ、どれが誰の物か分かるのか?」
「村ごとに分けて聞けば、ある程度は分かると思う。穀袋には印をつけている家もあるだろうし、牛や農具なら持ち主を知っている者がいるはずだ」
「鄒校尉に頼んでみよう」
劉備の返事は早かった。
俺たちだけの判断で戦利品を勝手に配るわけにはいかない。黄巾討伐全体を指揮しているのは鄒靖で、俺たちはその配下に加わった義勇兵にすぎない。
話を聞いた鄒靖は、荷車を見てしばらく考えた。
「持ち主がはっきりしている物まで兵に分ける必要はない。返してよい。ただし、誰の物か分からん物まで好き勝手に持っていかせるなよ」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではない。それより玄徳、お前の弟は戦の翌朝からこんなことばかり考えているのか?」
劉備が少し笑った。
「昔から細かいところにはよく気がつく弟です」
「兄上。それでは俺が小うるさい男みたいじゃないか」
「違うのか?」
言い返そうとして、やめた。
前世でも研究費や史料の管理には細かかった覚えがある。おそらく否定しても説得力がない。
俺たちは村の長老たちを呼び、黄巾に何を奪われたのか確認していった。
思った以上に判別はできた。
穀袋の隅に家ごとの印が縫いつけられていたり、農具の柄に名前が刻まれていたりする。牛に至っては、飼っていた家の子供が駆け寄っただけで向こうから鼻を鳴らした。
「これ、本当に返してくださるので?」
白髪の老人が、何度もこちらを見た。
「あなた方の村から奪われた物なら、俺たちが持っていく理由はありません」
劉備がそう答えると、老人の目が潤んだ。
「前に賊が来た時は、追い払った兵まで残った米を持っていきました」
その一言に、周囲にいた村人たちも暗い表情になる。
賊を追い払ってくれた兵が、次の賊になる。
珍しい話ではないのだろう。
俺が歴史書で何度も目にした「略奪」という二文字の下には、こういう生活がある。
「俺たちは持っていきません。ただ、持ち主の分からない穀物については、鄒校尉の軍で使わせてもらいます」
「もちろんでございます。それどころか……」
老人は後ろの村人たちと何か相談すると、こちらへ向き直った。
「返していただいた穀物から、一部を軍へ納めさせてください」
今度はこちらが驚いた。
「いいんですか?」
「全部戻ったところで、また黄巾が来れば同じです。戦ってくださる方々が腹を空かせては困ります」
劉備が俺を見た。
俺も兄を見る。
面白いものだ。
力ずくで全部奪えば、一度に手に入る穀物は多い。
だが返せば、向こうから必要な分を持ってきてくれる。
「ありがたく受けよう」
劉備が頭を下げた。
「無駄にはしない」
老人も深く頭を下げた。
その後ろで、若い村人が一人、遠慮がちに手を挙げる。
「あの……兵には、まだ入れますか?」
◇
その日の昼までに、同じことを訊いてきた者は三十人を超えた。
夕方にはさらに増えた。
翌朝になると、俺たちが最初に兵を募った時に人数を絞ったため残ってもらった者たちまで、武器や荷を持ってやってきた。
「戻ってきてくれたのか」
劉備が声をかけると、先頭の男が笑った。
「戻ってこいと言われましたから」
「まだ声を掛けに行っていないぞ」
「話は聞きましたよ。玄徳殿たちが、三倍の黄巾を崩したって」
「三倍の敵全部と戦ったわけじゃない」
俺が横から口を挟むと、男は俺を見て笑った。
「季衡殿が戦う前に減らしたんでしょう? それも聞いてます」
もう話が回っている。
しかも、やはり少しずつ大きくなっている。
張飛が後ろで面白そうに笑った。
「季衡。もう諦めた方がいいぞ。俺が昨日聞いた話では、お前は千人の賊を一言で逃がしたことになっていた」
「それはさすがに酷いな」
「今日には二千人になるかもしれん」
「止めてくれ」
関羽まで小さく笑っている。
ただ、噂そのものは馬鹿にできない。
こちらの名が知られれば、それだけ人が集まる。
人が集まれば兵を選べる。
兵が増えれば守れる範囲も広がる。
俺がずっと考えていた「勝ったものを次へ残す」ということは、こういうことなのだろう。
問題は、集まった人間をそのまま全部抱えていいわけではないことだった。
「今、何人いる?」
俺が人数を確認していた男に尋ねる。
「今日来た者まで入れると、三百六十を少し超えます」
最初の百八十二人から、ほぼ倍になった。
二度の戦で死傷した者がいることを考えれば、新しく加わった人数はかなり多い。
「兵糧は?」
「村から提供された分と、黄巾が置いていった物のうち鄒校尉から分けられた分を入れれば、三百人なら十日以上は持つと思います」
「四百は?」
「少し厳しいですね」
やはり、人数が増えればいいというものではない。
俺が帳面代わりの木簡を見ていると、劉備が隣へ来た。
「また減らすか?」
「いや、今回は少し違う方法が取れるかもしれない」
「どうする?」
「戦う兵と、それを支える人間を分けたい」
劉備が首を傾げる。
「支える?」
「全員に槍を持たせる必要はないだろう。怪我人を運ぶ者、兵糧を運ぶ者、馬を見る者、武器を直せる者。そういう人間も必要になる」
これまで俺たちは、兵という言葉を武器を持って戦う者という意味で扱っていた。
だが軍は、戦う人間だけでは動かない。
前世の知識を持ち出すまでもなく、戦場へ食料を運ぶ者がいなければ腹が減り、壊れた槍や弓を直す者がいなければ武器が減る。負傷者を放置すれば、助かったはずの兵まで死ぬ。
「戦える者を二百五十から三百くらい。その後ろに、荷を運んだり怪我人を見たりする者を置く。そうすれば無理に全員を前へ出さなくて済む」
劉備は少し考えた。
「それなら、年齢や身体の具合で戦えない者も残れるな」
「ああ。鍛冶ができる者や、馬の扱いに慣れている者がいたら特に欲しい」
「探してみよう」
こういう時の劉備は早い。
自分で人の中へ入っていき、何ができるのかを一人ずつ聞き始める。
張飛も加わった。
関羽は槍を持つ者の中から、すでに戦場を経験した者をまとめていく。
俺はその様子を見ながら、不思議な感覚を覚えていた。
まだ黄巾の乱が始まって間もない。
劉備には官職もない。
土地もない。
それでも、もう小さな軍の形ができ始めている。
史料で知っている劉備は、この先も長い間、兵を得ては失い、土地を得ては失う。
なら、最初から残せる形にしておけばいい。
◇
午後になって、別の問題が持ち込まれた。
前日の戦で捕らえた黄巾兵のうち、十数人が俺たちの兵に加わりたいと言い出したのだ。
「どうする?」
張飛が腕を組んだ。
「昨日まで敵だった連中だぞ」
「理由を聞こう」
俺たちは申し出た者たちを一人ずつ呼んだ。
多くは近隣の農民だった。
黄巾が村へ来た時、仲間にならなければ食料を奪われると言われた者もいる。税を払えず家を失い、食事をもらえるという理由だけで加わった者もいた。
もちろん、それが全部本当だとは限らない。
「人を殺したか?」
俺は一人ずつ尋ねた。
「戦では……」
「戦場の話じゃない。村を襲った時だ。逃げる者を斬ったり、女や子供へ手を出したりしたかと訊いている」
「していません」
「奪った物は?」
「食べ物を運びました」
「家に火をつけたことは?」
「ありません」
同じような質問を形を変えながら繰り返す。
別に嘘を見抜く特殊な力があるわけではない。
ただ、答え方に食い違いがあれば、その場で分けて調べ直す。
村人にも顔を見てもらった。
結果、申し出た十五人のうち三人は略奪に深く関わった疑いが強く、鄒靖へ引き渡した。
残る十二人は、少なくとも今のところ重大な行為は確認できない。
張飛が俺の横で低い声を出した。
「十二人は入れるのか?」
「すぐ槍を持たせるのは怖い。まず後ろで荷を運んでもらおうと思う」
「信用してないのか?」
「まだ信用できるほど知らない。ただ、昨日まで敵だったという理由だけで、使える人間を全部捨てる必要もないと思う」
関羽が頷く。
「働きを見てから決める、か」
「ああ。それでいいと思う」
十二人にも、その条件をそのまま伝えた。
最初から仲間扱いはしない。
武器も持たせない。
逃げたければ逃げてもいい。
ただし残って働き、信用を得れば、いずれ他の兵と同じように扱う。
その中で最年長らしい男が、深く頭を下げた。
「それで十分です」
「名前は?」
「陳生と申します」
「陳生。馬は扱えるか?」
「牛馬を使って畑を耕しておりました」
「なら荷車を頼みたい」
「はい」
俺が仕事を割り振ると、男はもう一度頭を下げた。
後ろから見ていた劉備が近づいてくる。
「ずいぶん慎重に扱うんだな」
「敵だったからって全員斬ったら、これから黄巾は誰も降伏しなくなる。それに、人手はいくらあっても困らない」
「だが、悪事をした者は入れない」
「そこは分けないと駄目だ。何をしても許されると思われたら、被害を受けた村の人間が俺たちを信用しなくなる」
劉備はゆっくり頷いた。
「分かった。俺もそれでいいと思う」
許すことと、見逃すことは違う。
殺さないことと、甘くすることも違う。
必要な線を引き、その理由を説明する。
今の俺たちにできるのは、そのくらいだった。
◇
夕方、鄒靖から呼び出しを受けた。
天幕へ入ると、俺たち以外にも三つほど義勇兵の頭領が来ている。
見覚えのある顔もあった。
最初の戦から鄒靖の軍に加わっている者たちだ。
「玄徳。今、お前のところは何人になった」
「戦える者がおよそ三百。それとは別に、荷役や負傷者の世話を任せる者が五十ほどおります」
劉備が答えると、周囲の男たちが少しざわめいた。
鄒靖は驚かなかった。
「増えた理由も聞いている。村から志願者が来たそうだな」
「はい」
「それだけではない」
鄒靖は俺たちの横にいた義勇兵の頭領へ目を向けた。
「王達。お前から言え」
呼ばれた男が一歩前へ出た。
四十代ほどで、腕には古い傷がいくつもある。
「俺のところは七十六人います。ただ、兵糧はあと三日も持ちません」
こちらを見て、少し言いにくそうに続けた。
「鄒校尉から、玄徳殿のところへ合流してはどうかと言われました」
劉備が目を瞬いた。
「俺たちに?」
「嫌なら断ってください。ただ……」
王達は苦笑した。
「二度戦って二度とも勝って、飯もちゃんと出る。それに戦死した奴の家にまで銭を出すと聞いた。うちの連中も、そちらへ入るなら文句は言わんと言っています」
俺は黙って劉備を見た。
兄上も俺を見る。
何も言わなくても、考えていることはだいたい分かった。
「王殿」
劉備が尋ねる。
「一つ条件があります」
「何でしょう」
「俺たちのところへ来るなら、略奪は認めません。戦場ではこちらの指示に従ってもらいます。それでもよければ、一緒に戦ってください」
王達は即座に頷いた。
「それで結構です」
すると隣にいた別の頭領も手を挙げた。
「鄒校尉。俺たちも構いませんか」
今度はこちらが驚く番だった。
「お前もか」
「四十三人です。俺たちは弓を持っている者が多い。玄徳殿のところで使ってもらえるなら、その方がいい」
三つ目の集団からも二十数人。
合計すれば百四十人を超える。
鄒靖が俺たちを見ながら言った。
「俺が無理に押しつけたわけではないぞ。こいつらが自分から言ってきた」
「なぜ俺たちに?」
劉備が尋ねると、鄒靖は少し呆れたように笑った。
「まだ分からんのか。勝てるところに兵が集まるのは当たり前だ。それに、お前のところは食わせてもらえるらしいからな」
天幕の中で笑いが起きた。
俺も思わず笑った。
兵糧を数える。
戦死者の家族へ銭を出す。
奪われた穀物を村へ返す。
戦えない者にも仕事を作る。
どれも派手なことではない。
けれど、それを積み重ねた結果が目の前にある。
鄒靖が表情を戻した。
「玄徳。まとめられるか?」
劉備はすぐに答えなかった。
俺、関羽、張飛を見る。
関羽が頷く。
張飛は笑っている。
俺も小さく頷いた。
「やります」
劉備が答えた。
「ただし、俺一人では無理です。この三人にも力を借ります」
「最初からそのつもりだろう」
鄒靖はそう言うと、卓上の木札を一枚取った。
「正式な官職を与える権限は俺にはない。だが討伐の間、ここにいる義兵のうち四百余りをお前の指揮下にまとめる。次の戦から一隊として動け」
胸の奥が熱くなった。
最初は百八十二人だった。
二度戦った。
人が死んだ。
負傷者も出た。
それでも、勝った後に残せるものを一つずつ拾ってきた。
その結果、今度は四百を超える兵が劉備の下へ集まる。
「玄徳」
鄒靖が続ける。
「次は、お前たちだけで一つ仕事を任せる」
劉備の表情が引き締まった。
「何をすれば?」
鄒靖は地図を広げ、涿県から南へ伸びる道を指でなぞった。
「黄巾の一隊が、南から来る軍の兵糧を狙っている。この道を通る輸送隊を無事に通せ」
俺は地図を見る。
敵を倒せではない。
兵糧を守れ。
思わず口元が緩みそうになった。
張飛なら物足りないと言うかもしれないが、俺にはむしろ面白い。
軍は飯を食う。
その飯が届かなければ、どれほど強い兵でも動けない。
「兄上」
「何だ?」
「これは、俺の好きな仕事かもしれない」
劉備が笑った。
「お前が嬉しそうだと、なぜか面倒なことになりそうだな」
「失礼だな。まだ何もしてないぞ」
「これからする顔をしている」
関羽が小さく笑い、張飛は意味が分からないという顔で俺たちを見ていた。
こうして、百八十二人から始まった俺たちは、四百を超える一隊になった。
まだ土地はない。
官職もない。
それでも、劉備玄徳の旗の下に人が集まり始めている。
俺の知る歴史より、明らかに早く。
そして次に守るのは、軍の腹そのものだ。




