第4話 千人を、三百人にする
「千を超える、か」
鄒靖から次の黄巾が集まりつつあると聞いたあと、俺たちは負傷者を後方へ送り、残った兵を休ませながら詳しい報告を待った。
初陣へ出た百八十二人のうち、七人が死に、二十三人が負傷した。軽傷なら槍を持てる者もいるが、次の戦へ無理に連れていくつもりはない。戦い始めたばかりの軍で、傷が悪化して働けなくなる者を増やす方が痛い。
動かせるのは、およそ百五十。
そこへ鄒靖の官軍と他の義勇兵が加わるとはいえ、敵は千を超えるという。
張飛は、それを聞いても怯むどころか楽しそうだった。
「さっきの連中より多いんだろう? 今度は俺にも、もう少し暴れさせてくれ」
「益徳。暴れるのは構わないが、戻ってこられる範囲にしてくれ」
「分かっている。さっきも止まっただろう」
「だから次も頼む」
横で槍の手入れをしていた関羽が、わずかに口元を緩めた。
「益徳にしては、よく止まった」
「雲長兄まで何を言う。俺だって言われたことくらい聞くぞ」
「ならば何も問題はない」
「その言い方が気に入らん」
二人のやり取りを聞きながら、劉備が笑っていた。
最初の戦を越えたことで、四人の間にあったわずかな硬さが消え始めている。桃園で義兄弟になったとはいえ、関羽と張飛にとって俺は昨日知り合ったばかりの男だった。それが一度とはいえ同じ戦場に立ち、命を預け合ったことで、ようやく言葉だけではない関係が生まれ始めたのだと思う。
そこへ鄒靖の斥候が戻ってきた。
「賊は南西の村近くに留まっています。数は千二百ほど。まだ増えるかもしれません」
「千二百」
鄒靖が眉を寄せる。
「動きは?」
「鈍いです。周辺の村から穀物を集めていますが、北へ進むのか、このまま涿へ向かうのか定まっていないように見えます」
その報告に、俺は引っかかった。
「定まっていない?」
斥候がこちらを見る。
「そう見えました。まとまって動く様子がありません。村の外にいる者も多く、見張りもまばらです」
「旗は?」
「黄色い旗が何本もあります。大きなものは村の中央に一本。その周りに、少し小さなものが三本ほど」
千二百人が一人の指揮で動いていない可能性が高い。
俺は鄒靖へ頼み、先ほどの戦で捕らえた黄巾兵の中から、比較的傷の浅い男を二人連れてきてもらった。
どちらも二十代か三十代ほどで、兵士らしい身体ではない。一人は手に鍬だこの跡があり、もう一人は爪の間に染みついた土が残っていた。
農民だ。
「名前は?」
俺が尋ねると、二人は警戒しながら答えた。
「李安」
「俺は……孫徳だ」
「黄巾にはいつから入った?」
二人が顔を見合わせる。
李安の方が先に口を開いた。
「十日も経ってない。太平道の人間は前から村に来ていたが、俺は信徒じゃなかった」
「では、なぜ黄色い布を巻いた」
「役人に税を取られても食えねえ。村に来た奴らが、これからは俺たちの世になると言った。飯もあると言われた」
隣の孫徳も似たようなものだった。
張角の教えを信奉し、何年も前から蜂起を待っていた人間ばかりではない。騒乱が始まってから加わった者、食うためについてきた者、周囲が加わったから仕方なく黄色い布を巻いた者もいる。
「今、南西に集まっている連中について知っているか?」
村の名前を伝えると、孫徳が小さく頷いた。
「俺たちも、そこへ合流する予定だった」
「誰が率いている?」
「一番偉いのは郭大方とかいう男だ。ずっと太平道にいたらしい。でも、全部があいつの言うことを聞いているわけじゃない」
俺と鄒靖が同時に顔を上げた。
「詳しく聞かせろ」
「別の村から来た連中には、それぞれ頭がいる。奪った米をどう分けるかでも揉めていた。北へ行くと言う奴もいれば、涿県を攻めればもっと米があると言う奴もいた」
やはり一枚岩ではない。
数は千二百。
しかし、千二百人の軍ではない。
いくつもの集団が、黄色い布という目印だけで集まっている。
俺は少し考えたあと、二人へ聞いた。
「黄巾を抜けたいと思うか?」
李安が眉をひそめた。
「抜けたら、殺されるんじゃないのか」
「誰に?」
「官軍にだ。捕まった賊は皆殺しにされるって聞いた」
なるほど。
それも黄巾側が人間を繋ぎ止める方法の一つなのだろう。
一度黄色い布を巻けば、もう戻れない。
官軍に捕まれば殺される。
そう思わせておけば、逃げたい者まで戦う。
「鄒校尉」
俺は立ち上がった。
「お願いがあります」
◇
「賊を逃がせと言うのか?」
鄒靖の声は厳しかった。
「違います。戦う必要のない者を、戦う前に減らしたいんです」
俺は地面に木の枝で大きな円を描いた。
「敵は千二百と聞いています。しかし全員が太平道の中核ではありません。蜂起してから加わった農民も相当数いるようです」
「だから助命すると触れ回る?」
「武器と黄色い布を捨て、戦場から離れた者だけです。頭目や、村を襲って人を殺した者まで無条件で許せとは言いません」
鄒靖は腕を組んだまま黙っている。
「逃げ道がないと思っている千二百人と戦えば、千二百人が必死に抵抗します。ですが、武器を捨てれば生きて帰れると分かれば、戦う理由の薄い者から抜けるはずです」
「信用すると思うか?」
「最初は信用しないでしょう。だから、この二人を帰します」
捕虜の李安と孫徳を示すと、鄒靖の眉がさらに寄った。
「捕虜を?」
「食料を少し持たせて帰すんです。官軍に捕まったが、生きて戻された。その二人が自分の口で話せば、少なくとも噂だけよりは信じる者が出るでしょう」
「そのまま逃げるだけかもしれんぞ」
「それでも構いません。二人減ります」
鄒靖が俺を見る。
横にいた張飛が堪えきれず笑った。
「季衡、それは随分と身も蓋もないな」
「帰ってくれれば二人減る。仲間へ話してくれればもっと減る。どちらでも損はない」
関羽が静かに口を開いた。
「理にはかなっております。戦わずに崩せるなら、その方が兵も失わずに済みます」
劉備も続いた。
「俺も弟の案を試してみたいと思います。ただ、許す範囲は鄒校尉に決めていただきたい」
そこで決定を鄒靖へ返す辺りが、兄上らしかった。
俺がどれだけ策を考えても、ここで官軍を指揮しているのは鄒靖だ。勝手に赦免を約束する権限などない。
しばらく考えた末、鄒靖が口を開いた。
「武器を捨てて離れた者は追わん。ただし、官軍へ刃を向けた者は別だ。頭目も逃がさない」
「十分です」
「それで千二百が逃げてくれるなら安いものだがな」
「全員は逃げないと思います」
俺は答えた。
「三百でも四百でも減れば、その分だけこちらが楽になります」
◇
李安と孫徳には腹を満たさせ、少量の乾飯まで持たせた。
「本当に帰してくれるのか」
李安が何度もこちらを見た。
「その代わり、見たものをそのまま話してくれ。武器を捨てて黄巾から離れる者を、官軍は追わない」
「嘘だったら?」
「その時は、俺の名前を覚えておけばいい」
「名前?」
「劉恪。字は季衡だ。劉玄徳の弟だと言えば分かる」
俺がそう言うと、劉備が横から苦笑した。
「ずいぶん自分を担保にしたな」
「兄上の名前を勝手に使うよりはいいだろう」
「俺は構わんが」
「それは最後の手段に取っておく」
李安と孫徳は、まだ半信半疑の顔をしながら南へ歩いていった。
その日の夕方まで、俺たちは動かなかった。
夜になっても動かない。
こちらが攻めてくると思っていた黄巾側は、かえって落ち着かなかったらしい。斥候によれば、村の外を出入りする者が増え、何度も松明が移動しているという。
夜半を過ぎた頃、最初の十数人が村から抜けた。
武器を持たず、頭の黄色い布も外している。
鄒靖は約束どおり追わせなかった。
さらに一刻ほど経つと、今度は三十人ほどがまとまって出てきた。
それも通す。
夜明けまでに村を離れた人数は、およそ百五十。
「まだ千以上いるぞ」
張飛が言った。
「それでも百五十人とは戦わなくて済んだ」
「そう考えると大きいな」
「それに、向こうは今ごろ疑い合っている」
誰が逃げるのか。
誰が官軍と通じているのか。
頭目たちは部下を見張らなければならなくなる。
千人いることと、千人を自由に動かせることは同じではない。
夜明けとともに、鄒靖の命令で軍を動かした。
ただし、正面から村へ攻め込むことはしない。
村の北と東に官軍の旗を見せ、南西だけを意図的に空けた。
そして太鼓を鳴らす。
「武器を捨てた者は追わぬ!」
声の大きな兵を並べ、何度も繰り返させた。
「黄色い布を捨て、南へ去れ! 従う者には手を出さぬ!」
村の中が騒がしくなる。
最初は反応がなかった。
やがて一人が走り出した。
頭目らしい男がその背後から怒鳴り、逃げようとした男を斬りつけた。
それが逆効果だった。
周囲にいた者たちが一斉に距離を取る。
「今だな」
劉備が呟いた。
俺も頷いた。
「ここで圧をかければ崩れると思う」
鄒靖から進軍の合図が出た。
官軍が一斉に前へ出る。
俺たち百五十余りは、その右側についた。
太鼓と喊声が重なる中、村から黄巾兵が飛び出してくる。
だが前の戦とは様子が違う。
こちらへ向かってくる者と、南へ逃げようとする者が入り混じっている。
黄色い布を自分から引きちぎる者もいた。
「季衡!」
張飛がこちらを見る。
「まだだ!」
ここで張飛と関羽を出せば、逃げようとしている者まで戦わせてしまう。
俺たちは前へ進みながらも、南側への道を塞がなかった。
二百。
三百。
黄巾側から人が抜けていく。
村の中央では、頭目たちが必死に怒鳴っているが、もう止まらない。
李安たちが何を話したのかは分からない。
それでも「捕まっても殺されなかった人間」が実際に戻ってきたという事実は、思った以上に効いたらしい。
斥候が千二百と数えた集団は、戦端が開く頃には半分近くまで減っていた。
さらにその半分の中にも、逃げる機会を窺っている者がいる。
「そろそろいい」
俺が言うと、劉備が剣を上げた。
「雲長! 益徳!」
「承知!」
「待ってた!」
二人がそれぞれ兵を率いて前へ出た。
今回は伏兵ではない。
正面からだ。
しかし敵の方がすでに崩れている。
関羽は最もまとまって抵抗している一団へ向かい、張飛は逃げる兵を斬るのではなく、その一団と別の集団の間へ突っ込んだ。
黄巾側を一つにさせない。
それだけでいい。
「兄上、中央を頼む!」
「ああ!」
劉備が兵を進める。
俺もその後ろについた。
敵の中心では、大きな黄色い旗の下に三十人ほどが固まっている。
周囲の兵が逃げても動かない。
あれが中核だ。
「雲長兄! 大旗のところだ!」
声が届いたのか、関羽がこちらを一度見てから進む方向を変えた。
その動きに気づいた黄巾側も、十数本の槍を前へ向ける。
だが関羽は止まらない。
正面の槍を自分の槍で払い、隙ができたところへ踏み込む。周囲の兵が続き、大旗の前で激しい衝突が起きた。
その反対側から張飛が回り込む。
「そこが頭だな!」
声だけで場所が分かる。
大旗の下にいた男が、周囲へ何か叫んだ。
直後、十人ほどが張飛へ向かう。
「益徳、右からも来る!」
「見えてる!」
長矛が横へ走った。
一人が倒れ、二人目が足を止める。その間に張飛の後ろから兵が追いつき、敵を押し返した。
こちらの兵も倒れる。
黄巾側も倒れる。
だが前回ほど長くは続かなかった。
関羽が大旗の根元へ辿り着く。
槍が一閃した。
旗を持つ男が崩れ、大きな黄色い旗が地面へ傾く。
それを見た瞬間、周囲の黄巾兵の動きが目に見えて鈍った。
「旗が倒れたぞ!」
誰かが叫ぶ。
「頭目がやられた!」
本当に頭目が死んだのかどうか、まだ俺たちにも分からない。
だが戦場では事実より、そう見えたことの方が早く広がる。
張飛がさらに声を張った。
「武器を捨てろ! 逃げる奴は追わん!」
先ほどまで抵抗していた者が、槍を落とした。
一人が落とせば、隣も落とす。
中にはそのまま南へ走る者もいる。
俺は止めなかった。
「追うな! 武器を捨てた者は通せ!」
劉備も同じ命令を出す。
最後まで抵抗したのは、大旗の周囲に残った百人にも満たない一団だけだった。
そこは鄒靖の官軍と、関羽、張飛が潰した。
降れという声にも刃を向け続ける者まで助ける理由はない。
やがて大旗が完全に引き倒され、黄巾側の抵抗は終わった。
◇
「千二百が、こうなるか」
戦いが終わったあと、鄒靖は村の外に座り込む捕虜たちを見ながら呟いた。
実際に刃を交えた敵は、千二百人には遠く及ばなかった。
夜のうちに抜けた者。
開戦直前に黄色い布を捨てた者。
戦いが始まってから南へ逃げた者。
結果として、最後までまとまって抵抗したのは三百人ほどだった。
「千二百を三百にした、ということか」
鄒靖に言われ、俺は首を横に振った。
「向こうが最初から千二百の軍ではなかっただけです。そこを突いただけですよ」
「それを見抜くことを、策と言うんだろう」
返す言葉に少し困った。
横から張飛が笑う。
「褒められているんだから、素直に受け取っておけ」
「益徳に言われるとは思わなかった」
「何だと?」
「褒めている」
「そうは聞こえんぞ」
関羽が小さく笑った。
劉備もつられたように笑う。
初陣の後より、ずいぶん空気が軽い。
それでも、やることは残っている。
捕虜をどうするか。
奪われた穀物をどう返すか。
負傷者の治療。
逃げ散った黄巾が別の集団へ合流しないよう、周辺の村へ知らせる必要もある。
俺が村に積まれていた穀物の量を確認していると、劉備が隣へ来た。
「季衡」
「どうした、兄上」
「お前が最初に言っていた意味が少し分かった」
「何の話だ?」
「勝った後を考えろ、という話だ」
劉備は捕虜になった男たちへ目を向けた。
「ここで全員殺せば、今日の敵はいなくなる。だが家族や村の者は、次に官軍が来た時、死ぬまで抵抗するかもしれない」
「俺もそう思う」
「だからといって、何でも許すわけにもいかない」
「ああ。村を襲って人を殺した者や、頭目として蜂起を率いた者は別だ。そこを曖昧にすると、今度は被害を受けた側が納得しない」
劉備が頷いた。
誰も殺さないことが仁徳ではない。
何も罰しないことも違う。
生かした方が得な人間は生かし、斬るべき人間は斬る。その線をどこへ引くかが、これから兄上が何度も向き合うことになる仕事なのだろう。
「兄上」
「何だ?」
「面倒な時代に生まれたな」
劉備は一瞬きょとんとしてから、笑った。
「今さらか」
「今さらだ」
夕方になる頃、黄巾の頭目たちについて調べた結果が出た。
村人を殺し、略奪を指揮した者は鄒靖の命で拘束され、それ以外の捕虜は個別に調べられることになった。
俺たちが戦った大旗の主も生きて捕らえられていた。
郭大方。
李安が名前を挙げていた男だった。
両腕を縛られた郭大方が、連行される途中で足を止める。
「お前が、劉季衡か」
俺は少し驚いた。
「なぜ知っている」
「戻ってきた百姓どもが名前を口にしていた。劉玄徳の弟に捕まったが、飯まで食わせて返されたとな」
郭大方は血の混じった唾を地面へ吐いた。
「甘い男だと思っていた」
「そう見えたか」
「だが違った」
郭大方の目が細くなる。
「逃げる奴を逃がして、残った者だけを殺した。最初から、俺たちを一つの軍として見ていなかったんだな」
否定する必要はなかった。
「千人集めただけでは、千人の軍にはならない」
俺が答えると、郭大方は何も言わなくなった。
兵に引かれていくその背中を見送りながら、俺はふと周囲の視線に気づいた。
鄒靖の兵。
他の義勇軍。
こちらを見て、小声で何か話している者がいる。
耳を澄ませる必要もなかった。
「劉玄徳の弟だ」
「最初の戦でも策を出した奴らしい」
「千人の賊を、戦う前に半分にしたって?」
少しずつ話が大きくなっている。
俺は頭を掻いた。
「兄上」
「何だ」
「噂というのは怖いな」
「いい噂なら、使わせてもらえばいい」
劉備は何でもないことのように答えた。
「お前が言ったんだろう。得たものは次へ残せと」
言われて、俺は笑った。
なるほど。
勝って得るものは、土地や兵糧だけではない。
名もまた、次の戦いで使える。
黄巾の乱が始まって、まだそれほど日が経っていない。
史書の中では、劉備はこの乱で功を立て、やがて官職を得る。
だが俺の知っている歴史には、劉玄徳の傍らで策を練る実弟など存在しなかった。
その存在が、少しずつ周囲に知られ始めている。
歴史の流れはまだ大きく変わっていない。
けれど、水面に落とした小石の波紋は、もう広がり始めていた。




