第2話 桃園の誓いは、四人で
涿県の市へ近づくにつれ、昨日までとは違うざわめきが耳につくようになった。
普段なら野菜や布、農具を広げる商人たちの呼び声が響いているはずの通りで、今日は穀物を買い込もうとする者が列を作り、店仕舞いを急ぐ者もいる。荷車を引く牛の鳴き声に混じって、どこそこで賊が立った、役所が襲われたという話が飛び交っていた。
黄巾蜂起の報せが届いて、まだそれほど時間は経っていない。
それでも、戦乱の気配は何より先に値段へ現れる。
「粟が上がっているな」
店先を見ながら呟くと、隣を歩いていた劉備がこちらを見た。
「昨日よりか?」
「ああ。まだ大きくはないが、このまま騒ぎが広がればもっと上がる」
高熱で寝込んでいた弟が、目を覚ました途端に穀物相場を気にし始めたのだ。劉備が不思議そうな顔をするのも当然だった。
「兵を集める話をしていたが、先に食い物を見るのか」
「先だから見るんだよ、兄上」
俺は行き交う人々を避けながら答えた。
「義勇の兵を百人集めても、その百人を食わせられなければ三日で困る。二百人なら、なおさらだ。戦う前から腹を減らしていたら、どれだけ勇ましくても使いものにならない」
「なるほどな」
劉備は素直に頷いた。
三国志の劉備と聞けば、後世では仁徳の君主、蜀漢の皇帝という姿が先に浮かぶ。
だが今、隣を歩いているのは二十三歳の若者だ。
官職はない。領地もない。兵もいない。
漢王室に連なるという遠い血筋はあっても、それだけで腹が満たせるわけではなかった。
それでも、劉備には人が寄ってくる。
元の劉恪の記憶をたどれば、昔からそうだったらしい。年長者からも同年代からも妙に可愛がられ、困っている者を見れば放っておけず、そのくせ必要以上に自分を飾ろうとはしない。
史料を読んでいた頃から分かっていたことだが、実際に隣を歩くと、その理由が少し見える気がした。
「兄上。中山から来る馬商人に知り合いはいないか」
「馬商人?」
「張世平と蘇双という名に覚えは?」
劉備が足を緩めた。
「ある。北へ馬を売りに来る商人だ。何度か話したこともある」
やはりいた。
張世平と蘇双。
正史にも名が残る商人で、劉備の旗揚げに際して財貨を援助した人物たちだ。
彼らから資金を得たことで、劉備は初めて人を集めることができた。
「今も涿に?」
「昨日まではいたはずだ」
「できれば会わせてもらえないか」
劉備が俺の顔を見た。
「軍資を借りる気か」
「借りるというより、こちらが何を返せるか話してみたい」
「返せるものがあるのか?」
「まだ分からない。だからこそ、まず話してみる」
未来を知っているからといって、商人が無条件で金を出してくれるわけではない。
史書には「大商人が劉備を見込み、財を与えた」と数行で記されているだけだ。
だが実際に銭を出す側からすれば、それは立派な賭けである。
黄巾が各地で蜂起した今、街道は乱れ、馬も荷も奪われる危険が高まる。そんな状況で、官職も兵も持たない若者に財を託すなら、それなりの理由が必要になる。
「兄上の顔を借りたい」
「顔?」
「俺だけで行っても、病み上がりの若造が妙なことを言っていると思われるだけだ。兄上なら少なくとも話を聞いてもらえる」
劉備は少し考えてから笑った。
「弟に使われる兄というのも悪くないか」
「そういう言い方をされると困る」
「では行こう。俺も兵を集めるなら、銭が要ることくらいは分かる」
この辺りの切り替えが早い。
意地を張らず、必要だと思えばすぐ動く。
やはり、ただの人のいい男ではない。
◇
張世平と蘇双は、馬市の北側にある邸にいた。
門の内側には十数頭の馬が繋がれ、荷車も並んでいる。だが使用人たちは皆、どこか落ち着かない様子だった。
黄巾蜂起の報せを受け、今後の商いをどうするか話し合っている最中らしい。
「玄徳殿か」
奥から出てきた男が劉備を見て声を上げた。
張世平だ。
その後ろから、やや細身の蘇双が続く。
「こんな時にどうした」
「お願いがあって参りました」
劉備はすぐに本題へ入らなかった。
まず各地で黄巾が蜂起したこと、涿でも義勇の兵を募る動きが出始めていることを話し、自分も加わるつもりだと伝える。
俺は隣で黙って聞いた。
劉備は交渉が上手い。
大げさな言葉を使わないのに、相手が自然と耳を傾ける。
これは俺にはないものだ。
「玄徳殿も兵を挙げるのか」
蘇双が訊く。
「そのつもりです。ただ、闇雲に人を集めても仕方がないので、まず弟と相談しています」
そう言って、劉備がこちらを見る。
視線を受けた俺は、軽く頭を下げた。
「劉恪、字を季衡と申します」
「玄徳殿の弟君か。病で伏せていたと聞いたが」
「ご心配いただき、ありがとうございます。どうやら命拾いしました」
張世平が頷いた。
「それで、兵を集めるための軍資ということかな」
「はい。ただ、お願いするだけでは筋が通りません」
「ほう」
俺は卓上に置かれた茶へ一度目を落としてから、言葉を選んだ。
「黄巾の乱が広がれば、北へ向かう街道も安全ではなくなります。馬や荷を運ぶ商いほど、影響は大きいはずです」
二人の顔から笑みが薄れた。
商人なら、俺が言うまでもなく分かっている。
「俺たちは義勇の兵を募ります。最初から大軍を抱えるつもりはありません。まず百五十、増やしても二百まで。その兵をきちんと食わせ、命令を聞く形に整え、涿周辺の賊徒を討つ」
「二百で足りると?」
「数だけなら足りないでしょう」
俺は正直に答えた。
「ただ、今の黄巾は各地で同時に立ったばかりです。全てが一つの軍として動いているわけではない。こちらまで無秩序に人数だけ増やせば、同じ穴に落ちます」
張世平が腕を組んだ。
「では、何が欲しい」
「馬を何頭か。兵糧。そして武器を整えるための鉄と、当座の銭です」
「簡単に言うな」
蘇双が苦笑する。
「かなりの額になるぞ」
「承知しています」
「返せるのか?」
「すぐに銭で返すとは申し上げられません」
ここで虚勢を張っても意味がない。
「その代わり、俺たちが戦果を上げ、街道の安全に力を貸せるようになれば、その時は必ず張世平殿と蘇双殿の商いを優先して守る。少なくとも、兵を使って商人から奪うような真似だけはさせません」
蘇双がこちらを見る。
「まだ兵もいないのに、ずいぶん先の話をする」
「先まで考えないと、兵を持つ意味がないと思っています」
俺は続けた。
「戦で勝っても、周囲の村や商人に嫌われれば、次は食料も情報も入らなくなる。略奪で一度腹を満たすより、二度目も取引してもらえる方が長く戦えます」
「なるほど」
張世平が少し笑った。
「玄徳殿。弟君は商人のようなことを言うな」
「俺より銭勘定には向いているようです」
「兄上。それは褒めているのか?」
「褒めているとも」
場が少し和らいだ。
俺は内心で息を吐く。
押しつける必要はない。
今の俺には実績がないのだ。
相手に選んでもらうしかない。
やがて張世平が蘇双を見る。
二人は短く相談したあと、こちらへ向き直った。
「馬、穀物、鉄、それに銭。すべて望み通りとはいかないが、出せる分は出そう」
劉備が深く頭を下げた。
「恩に着ます」
俺も続いて頭を下げる。
「必ず無駄にはしません」
「それでいい」
張世平が言った。
「だが覚えておけ。商人は一度損をしても、相手を見て二度目を出すことがある。逆に、信用を失えば二度と出さない」
「肝に銘じます」
史書の中では数行だった出来事。
実際にその場に立つと、人一人の信用と、財を出す側の覚悟が積み重なっている。
最初の一歩は踏み出せた。
だが、銭だけでは軍にならない。
◇
「次は人だな」
邸を出ると、劉備が言った。
「ああ。ただ、人なら誰でもいいわけじゃない」
「心当たりならある」
「本当か?」
「お前が寝ている間に、何度か家へ顔を出した男がいる。声が大きくて、よく目立つ」
それだけで心当たりが一人しかいない。
「名は?」
「張飛。字は益徳」
思わず足が止まった。
劉備が怪訝そうに見る。
「また知っているような顔だな」
「噂を聞いたことがある気がして」
苦しい言い訳ではある。
だが幸い、劉備はそれ以上追及しなかった。
「呼びに行く必要はないと思うぞ」
「なぜ?」
劉備が前方を顎で示す。
通りの向こうから、人混みを割るように大柄な男が歩いてくる。
肩幅が広く、腕も太い。
まだ若いはずなのに、歩いてくるだけで周囲が自然に道を空けていた。
「玄徳殿!」
声まで大きい。
男は近づくなり笑った。
「やはり動いていたか。役所で義兵を募ると聞いたぞ」
「益徳。お前はどうして、まだ決めていないことまで知っている」
「玄徳殿なら動くと思っただけだ!」
「声を落とせ」
劉備が苦笑する。
張飛の視線が俺へ移った。
「弟の季衡か。死にかけたと聞いたぞ」
「危ないところだったらしい」
「らしい?」
「本人は熱で覚えていない」
「それもそうか!」
笑いながら、張飛が俺の肩を叩こうと手を伸ばしてきた。
反射的に半歩ずれる。
掌が空を切った。
「お?」
張飛が面白そうに目を細める。
「病み上がりにその手は重そうだったので」
「悪い悪い。癖なんだ」
合気道の技というほどではない。
相手の肩と腰の動きを見て、触れられる前に間合いを外しただけだ。
それでも、この身体は前世で覚えた動きに思った以上についてくる。
鍛え直せば、少なくとも乱戦で身を守る程度には使えそうだった。
「それで、益徳」
劉備が話を戻す。
「俺たちは義兵を募る」
「なら俺も加えてくれ。家に蓄えもある。人も集められる」
願ってもない話だった。
ただ、俺から条件を突きつけるような言い方は避けた。
「ありがたい。ただ、一つだけ俺からお願いしてもいいか」
張飛が俺を見る。
「何だ?」
「俺たちは小勢から始めるつもりだ。戦場では、兄上が退けと言った時には一度退いてほしい」
「敵が目の前にいてもか?」
「そうなることもある」
張飛の眉がわずかに動く。
「理由は?」
「その場で説明できればする。ただ、矢が飛んでくる中で長話はできない。だから、まず兄上の指示に従ってもらいたい。その後で『あの判断は間違っていた』と思ったら、遠慮なく言ってくれ」
少しだけ沈黙が落ちた。
張飛は俺を睨むというより、品定めするように見ていた。
「季衡は、玄徳殿の言うことなら何でも聞くのか?」
「いや」
俺が答えると、劉備が横で笑った。
「こいつは昔から、納得しなければ俺にも言う」
「兄上。それを今言うか」
「本当のことだ」
張飛が豪快に笑った。
「ならいい! 俺も言いたいことは言う。その代わり、戦場では玄徳殿に従う!」
「助かる」
俺は素直に頭を下げた。
張飛益徳。
後世では猛将の代名詞のように語られる人物だ。
だが今はまだ、劉備の呼びかけに応じようとしている一人の若者にすぎない。
未来の名声を知っているからといって、最初からこちらが使う側に立ってはいけない。
力を借りる。
まずは、それでいい。
「それと兄上」
「まだ何かあるのか」
「河東から来た男で、背が高く、髭を蓄えている者を見なかったか」
劉備と張飛が顔を見合わせた。
張飛が先に口を開く。
「それならさっき馬市で見たぞ」
「本当か?」
「ああ。三人ほどに囲まれていたが、一人も斬らずに転がしていた。ありゃ腕が立つ」
胸の奥がわずかに高鳴った。
「どこへ行った?」
「まだ近くにいると思う」
「兄上。会いに行ってもいいか」
劉備は何も訊かず、頷いた。
「お前がそこまで言うなら、見てみよう」
◇
男は馬市の外れにいた。
壊れた荷車の車輪を持ち上げ、困っている商人を手伝っている。
張飛とは違う種類の大柄さだった。
身体に無駄な力みがなく、動きが静かで、それでいて一つ一つが重い。
そして髭。
後世の絵ほど長くはないが、若者としては目につく。
荷車を下ろした男がこちらを見る。
鋭い眼差しだった。
研究者として、何度その名を読んだか分からない。
曹操が手元に置こうとした男。
劉備が兄弟同然に扱った男。
そして後に荊州で死に、その死が天下の流れを大きく変える男。
だが、未来を知っているのは俺だけだ。
今の彼は、故郷を離れて涿郡へ流れてきた一人の若者にすぎない。
劉備が先に声をかけた。
「先ほど騒ぎを収めたのは、あなたですか」
「大したことではありません」
低い声だった。
「怪我人が出そうだったので止めただけです」
「河東の方とお見受けしました」
男の目が少しだけ細くなる。
「……なぜそう思われる」
「言葉です。気を悪くされたなら申し訳ない」
劉備は自然に頭を下げる。
「俺は劉備。字を玄徳といいます。こちらは弟の劉恪、字は季衡。それに張飛、字は益徳」
「張飛だ」
今度は先ほどより少し声を落として名乗った。
男の口元がほんのわずかに動く。
「私は関羽。字は雲長」
その名を聞いた瞬間、心の中で何かが静かに繋がった。
関羽雲長。
本当に目の前にいる。
俺は一歩だけ進み、頭を下げた。
「お会いできて嬉しい」
「私を?」
しまった。
関羽が不思議そうにこちらを見る。
「兄上から、腕の立つ人を探していると聞いていたので」
咄嗟に言い直す。
劉備は何も言わなかった。
張飛だけが少し面白そうにこちらを見ている。
劉備は黄巾蜂起と義兵の話をした。
関羽は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「一つ伺っても?」
「もちろん」
「兵を集めて、何をなさるおつもりですか」
劉備は少し考えた。
「賊を討つ。それは当然です」
そこで一度、周囲を見た。
「ですが、そのために民まで苦しめるつもりはありません。この辺りで暮らす者が、明日も暮らせるようにしたい」
「漢室のためではなく?」
「漢が乱れれば民が苦しむ。なら、漢を助けることにも意味はあるでしょう」
「功名は?」
「立てられるなら立てたいと思っています。功がなければ、守れるものも増えませんから」
綺麗事だけではない。
欲がないわけでもない。
だが、その欲が自分だけに向いていない。
関羽はしばらく劉備を見ていた。
やがて静かに頭を下げる。
「同行させていただけるなら、力を貸したく思います」
張飛が嬉しそうに笑った。
劉備も表情を緩める。
俺は知らないうちに息を吐いていた。
揃った。
劉備。
関羽。
張飛。
本来なら、この三人から始まる。
その隣に、今は俺がいる。
◇
夕刻、張飛の家へ場所を移した。
敷地の奥には桃の木が何本も植えられていた。
まだ満開には少し早い。それでも淡い花が枝先を彩り、風が吹くたびに花弁がちらちらと庭へ落ちる。
「どうせ一緒に命を張るなら、形にしておかんか」
張飛が言い出した。
劉備と関羽も異を唱えなかった。
俺だけが少し離れたところから、桃の木と三人を見ていた。
桃園の誓い。
正史に記された出来事ではない。
後世の人々が作り、そして愛し続けた物語。
研究者だった頃なら、そう説明しただろう。
だが今はどうでもいい。
目の前に桃がある。
劉備がいる。
関羽がいる。
張飛がいる。
「季衡」
劉備が俺を呼んだ。
「お前も来い」
「俺は兄上とは、もともと兄弟だ」
「だから入らないという理由にはならんだろう」
「それでは俺と雲長だけ損ではないか」
張飛が言う。
「玄徳兄者と季衡は初めから兄弟なのだぞ」
関羽が小さく息を吐いた。
「ならば今日から、四人とも同じと考えればよい」
「それだ」
張飛はあっさり納得した。
俺も笑って三人のもとへ歩いた。
香を焚き、天地へ誓う。
劉備玄徳。
関羽雲長。
劉恪季衡。
張飛益徳。
生まれた日は違う。
血の繋がりも違う。
それでも志を同じくし、助け合い、力を合わせる。
誓いの言葉を聞きながら、俺は三人の横顔を順に見た。
関羽がどこで死ぬのか知っている。
張飛が誰に殺されるのかも知っている。
劉備が二人を失った後、何をするのかも知っている。
かつての俺にとって、それらは千八百年以上前の出来事だった。
今は違う。
三人ともここにいて、息をしている。
ならば、未来はもう決まっていない。
誓いを終えると、劉備が俺たちを見渡した。
「明日から兵を集めよう」
張飛が嬉しそうに頷く。
「何人だ?」
「季衡。どう思う」
劉備に問われ、俺は少し考えた。
「張世平殿たちから受け取れる兵糧を確かめてからだが、まず百五十ほどがいいと思う。多くても二百までにしたい」
「少なくないか?」
関羽が尋ねる。
「黄巾の数と比べれば少ない。ただ、最初から大勢を抱えて動けなくなるより、指示の通る兵を作る方が先だと思う」
「その二百でどう戦う?」
張飛が訊く。
俺は三人を見る。
ここで格好をつける必要はない。
まだ俺自身、戦場で一度も結果を出していない。
「地形と敵を見てから決めたい」
そう答えた。
「ただ、関羽殿と益徳が前で戦い、兄上が兵をまとめてくれるなら、俺は三人が一番力を出せる場所を考える」
張飛が笑った。
「随分控えめだな」
「初陣もまだだからな。口だけで勝てるとは言いたくない」
関羽が静かに頷いた。
「その方が信用できる」
劉備も笑う。
「では、まず一度勝ってから大きなことを言え」
「そうさせてもらうよ、兄上」
風が吹き、桃の花びらが一枚、卓の上へ落ちた。
後世に伝わる桃園の誓いは、三人のものだった。
だがこの世界では違う。
劉備、関羽、張飛。
そして、史書には存在しなかった劉備の実弟。
まだ何も成し遂げてはいない。
それでも、歴史がわずかに違う道へ入り始めたことだけは分かる。
俺が知っている三国志が、どこまで通用するのか。
そして、兄たちをどこまで勝たせることができるのか。
その答えを出す最初の機会は、もう目の前まで来ていた。




