第1話 兄の名は、劉備玄徳
「恪。俺が分かるか」
低い声だった。
目を開けると、煤けた梁が見えた。土壁には細かな亀裂が走り、枕元の粗末な卓には、煮詰めた薬草らしい黒い液体が入った椀が置かれている。鼻の奥へ入り込んでくる苦い臭いと、自分の汗が染み込んだ寝具の湿り気まで妙に生々しい。
夢にしては、出来が良すぎた。
寝台の脇には二十代前半と思われる男が座っていた。日に焼けた肌。長い腕。身につけているものは粗末だが、背筋は自然と伸びている。
見覚えなどあるはずがない。
写真どころか、実像を伝える肖像画さえ残っていない時代の人間だ。
それなのに、俺はその男が誰なのか知っていた。
正確には――俺ではない誰かの記憶が、知っていた。
「……兄上」
掠れた声が喉から出た。
男の強張っていた表情が、ほんの少し緩む。
「俺が分かるなら大丈夫だ。三日も熱が下がらなかったんだぞ。母上など、昨夜からほとんど眠っておられん」
そう言って差し出された水を、俺は震える手で受け取った。
男の名は、劉備。
字は玄徳。
後漢末の群雄の一人にして、のちに蜀漢の皇帝となる男。
そして今の俺にとっては――実の兄だった。
◇
水を飲みながら、俺は二つの人生を頭の中で整理した。
俺の名は高瀬修平。四十一歳。
大学で中国古代史を教える准教授だった。
専門は後漢末から三国時代。とりわけ、群雄がどのように兵を集め、地方豪族と結びつき、軍事集団を政権へ変えていったのかを長く研究していた。
最後の記憶も研究室だ。
学生の論文に赤を入れたあと、机の上に広げた史料を読み直していた。時刻は日付が変わったあとだったと思う。
急に、頭の奥を殴られたような痛みが走った。
そこから先はない。
そして、もう一つの記憶。
こちらの名は劉恪。字は季衡。
二十歳。
涿郡涿県の生まれで、父は劉弘。兄は三歳上の劉備玄徳。
父は早くに亡くなり、家は裕福ではない。母と兄が蓆や草履を作り、それを売って暮らしを繋いできた。
劉恪自身は幼い頃から身体が丈夫な方ではなかったが、読み書きは好んだらしい。兄ほど外へ出歩かず、家の手伝いをしながら書物を読むことが多かった。
その劉恪が数日前、突然高熱を出した。
そして、おそらく――死んだ。
代わりに、高瀬修平だった俺が目を覚ました。
「……劉恪」
誰もいなくなった部屋で、自分の名を口にしてみる。
違和感は、不思議なほどなかった。
この身体が覚えている。
母の顔も、家の場所も、井戸までの道順も、幼い頃に兄と殴り合った記憶まで残っている。
言葉にも困らなかった。
俺には古代中国語を日常会話として話す能力などなかったはずだが、劉恪の記憶を経由すれば、考えるより先に言葉が出てくる。文字も同じだった。
ありがたい。
転生だか憑依だか知らないが、言葉の勉強から始めていたら、黄巾の乱が終わってしまう。
そこまで考えて、俺は動きを止めた。
黄巾の乱。
寝台から身体を起こし、戸口へ向かう。
まだ脚に力が入らない。それでも壁に手をつきながら外へ出ると、狭い庭で蓆を束ねていた劉備がこちらを振り返った。
「おい。もう寝ていろ」
「兄上、一つ聞きたい」
「熱が下がったばかりだぞ」
「今は何年だ?」
劉備が怪訝な顔をした。
「頭まで熱にやられたか?」
「念のためだ」
「光和七年だ。それくらい忘れるほどなら、やはり寝ていろ」
胸の奥が冷えた。
光和七年。
西暦でいえば一八四年。
黄巾の乱が起きる年だ。
「月は?」
「二月だ。どうした」
俺は返事をせず、庭先から空を見上げた。
薄曇りの空の下、近所では誰かが薪を割っている。道を挟んだ向こうからは鶏の鳴き声が聞こえ、籠を背負った老人がゆっくり歩いていく。
歴史書の中では、一八四年は一行で済む。
黄巾の乱、起こる。
だが、その一行の中に暮らしている人間たちは、今日も飯を炊き、薪を割り、明日の値段を気にしていた。
「兄上」
「今度は何だ」
「最近、黄色い頭巾を巻いた連中の噂を聞かないか」
劉備の手が止まった。
「太平道か」
「知っているのか」
「知らぬ者の方が少ない。病を治すだの、世を救うだのと言って人を集めている。涿でも信じている者はいるぞ」
やはり。
張角率いる太平道。
史料によれば、張角たちは三月五日の一斉蜂起を企てていた。しかし内通者の唐周が密告したことで計画が露見し、蜂起は前倒しされる。
一八四年二月。
つまり、もう時間がない。
「兄上。今ある銭はどのくらいだ」
「急に何の話だ」
「家に蓄えてある穀物は?」
「恪」
「馬は借りられるか。いや、まず涿県の市へ行きたい。鉄を扱う店と穀物商、それから馬を持っている家を見たい」
劉備の眉間に皺が寄った。
「寝起きの病人が、どうして急にそんなことを言い出す」
当然の疑問だった。
俺は口を開きかけて、閉じた。
三国時代の研究者が未来から来た。
そんな説明をして信じてもらえるとは思わない。
「嫌な予感がする」
「予感?」
「太平道だ。人を集めすぎている」
「だから何だ」
「宗教だけなら、あれほど各地に人を置く必要はない。信徒をまとめ、連絡役を置き、方ごとに組織している。あれは祈るための形じゃない」
劉備の表情から、弟を心配する色が少し消えた。
「何の形だ」
「兵を動かす形だ」
庭に風が抜けた。
吊るしてあった蓆の端が揺れる。
劉備はしばらく俺を見ていたが、やがて束ねかけていた蓆を地面へ置いた。
「続けろ」
俺は内心で息をついた。
これが劉備玄徳か。
突拍子もない話を笑い飛ばさず、まず聞く。
「もし各地で同時に騒ぎが起きれば、官軍はすぐには動けない。郡県の兵だけでは足りず、いずれ各地で義勇の兵を募ることになる」
「それで穀物と鉄か」
「兵を集めるなら、先に食わせる算段がいる。武器もいる。百人集めてから、百人分の飯がありませんでは話にならない」
「まだ兵を集めると決まったわけでもないぞ」
「決まってからでは遅い」
劉備が小さく笑った。
「熱で寝込む前のお前なら、そんな言い方はしなかったな」
一瞬、心臓が跳ねた。
だが劉備は疑う様子ではなく、どこか面白がっていた。
「死にかけたからな」
俺はそう答えた。
「少し考え方が変わった」
「それなら、悪い変わり方ではなさそうだ」
劉備は立ち上がると、家の中へ声をかけた。
「母上。恪を連れて市へ行ってきます」
「待て、兄上。俺はまだ歩けるとは――」
「言い出したのはお前だろう」
そう言って笑う顔に、後世の皇帝らしい威厳などまだない。
ただの二十三歳の青年だった。
それでも俺は知っている。
この男は、これから何度も負ける。
何度も領地を失う。
徐州を得て失い、呂布に背後を突かれ、曹操に敗れ、袁紹を頼り、荊州へ流れ、四十を過ぎてもなお自前の地盤を持てない。
関羽と張飛という天下級の武将がいても、だ。
俺は研究者として、何度も考えた。
もし劉備に、もっと早く軍事と政治の両方を支える人間がいたなら。
戦場で勝つことだけではなく、勝ったあとに兵と土地と人材を残す人間がいたなら。
三国志は、どう変わったのか。
机の上では、答えの出ない問いだった。
だが今は違う。
目の前に劉備がいる。
俺は、その実の弟になっている。
ならば試せる。
◇
市へ向かう途中で、空気が変わった。
最初に気づいたのは劉備だった。
「騒がしいな」
道の向こうから、馬を飛ばしてくる男がいた。
通行人が慌てて道を空ける。男は泥を跳ね上げながら市の方角へ駆け抜け、その後ろから別の男たちが走ってくる。
「何があった!」
劉備が声を張る。
一人が足を止めた。
「賊だ!」
「どこの賊だ」
「太平道だ! 黄色い布を巻いた連中が役所を襲った! 幽州だけじゃない、各地で一斉に立ったらしい!」
頭の中で、日付が崩れた。
俺の知識では、張角たちは三月の決起を計画していた。
だが歴史書は、後から出来事を並べたものだ。
この瞬間、どの県で何時に誰が走り出したかまで教えてくれるわけではない。
「恪」
劉備が俺を見る。
さっきまでの兄の顔ではなかった。
「お前の言った通りになったぞ」
「……半分だけだ」
「半分?」
「俺が思っていたより早い」
喉が乾いた。
未来を知っているから勝てる。
そんな甘い話ではない。
史料に残った歴史と、今ここで起きている現実の間には、いくらでも隙間がある。
それでも。
大きな流れは知っている。
黄巾は蜂起する。
朝廷は討伐軍を出す。
幽州でも兵が募られ、劉備は義勇兵を率いて戦いへ入る。
そして、その劉備の傍らには――本来なら、俺はいない。
「兄上」
「何だ」
「さっきの話、変更だ」
「どう変える」
「穀物と鉄だけじゃ足りない」
道の向こうでは、役人らしい男が声を張り上げていた。
賊徒蜂起。
義勇の士を募る。
人々が足を止め、ざわめきが広がっていく。
歴史が動き始めた。
「人を探す」
「誰をだ?」
俺は涿郡の地名と、これから劉備の傍らへ現れる二人の男を思い浮かべた。
一人は河東解県の出身。
もう一人は、この涿郡の人間。
後世、万人敵とまで称される二人。
「兄上と一緒に戦える男だ」
劉備が目を細める。
「心当たりがあるのか?」
「あるかもしれない」
まだ会ったことはない。
だが名前だけなら、二千年近く後の時代まで残るほど知っている。
関羽。
張飛。
そして劉備。
本来なら三人から始まる物語だ。
俺は人混みの向こうを見ながら、静かに息を吐いた。
三人にはさせない。
この時代に来た以上、俺も最初から席につく。
桃園の誓いは――四人で結ぶ。




