第12話 四百人は、消えていない
督郵が安喜を去ってから十日ほど経った頃、中山国から一通の文書が届いた。
劉備玄徳を安喜尉として引き続き職務に当たらせる。
文面そのものは簡潔だった。
黄巾討伐の軍功で官を得た者を整理する動きが消えたわけではない。ただ、少なくとも兄上については、安喜で実際に職務を果たしているという督郵の報告が通ったらしい。
俺は文書を二度読んだ。
「季衡」
向かいにいた劉備が笑う。
「そんなに珍しいことが書いてあるか?」
「いや」
珍しいどころではない。
俺が知っている歴史には存在しない文書だった。
安喜尉となった劉備は督郵を縛り上げ、官を棄てる。そこから再び流浪へ向かう。
だが、目の前にいる兄上は官印を持ったまま安喜にいる。
「残ったな」
「ああ」
劉備はそれだけ答えた。
もっと喜ぶかと思ったが、本人にしてみれば、罷免されなかっただけなのだろう。
「それで仕事が減るわけでもない」
「兄上らしいな」
「尉として残されたのに、仕事をしなければ次こそ罷めさせられるぞ」
「その通りだ」
俺が笑うと、劉備は机の上に積まれた木簡へ手を伸ばした。
巡回の報告。
盗賊の記録。
各村から届いた訴え。
兄上が安喜へ来る前から存在した仕事に、俺たちが増やした記録まで加わっている。
歴史を変えた余韻に浸っている暇はなさそうだった。
その時、外から激しい足音が近づいてきた。
「玄徳様!」
戸口から入ってきた男は、北東の村から来た里の者だった。肩で息をし、袴の裾には泥が跳ねている。
「賊が出ました。石梁里の近くです」
劉備の表情が変わった。
「数は?」
「最初に見たのは三十ほどです。ただ、その後ろにもおります。昨日、隣の村から粟と羊を奪いました」
「こちらへ向かっているのか?」
「分かりません。ただ、石梁里へ食料を出せと使いを寄越しました。断れば明日の朝に入ると」
俺は壁際に掛けてある地図を広げた。
石梁里は安喜の中心部から北東。
以前捕らえた盗賊の根城とは反対側だ。
「黄色い布は?」
俺が尋ねる。
「何人か巻いていました。黄巾の残りだと名乗っております」
黄巾を名乗っているから、本当に以前の組織へ属していたとは限らない。
乱が広がれば、その名前だけを使う賊も出る。
「戦える男はどのくらい見た?」
「槍や刀を持っていた者だけなら、五十はいたと思います」
「自分で見た?」
「はい。ただ林の奥までは見ておりません」
良い報告だった。
以前なら「百人くらいいる」という曖昧な話だけで終わっていたかもしれない。
兄上も同じことを感じたらしい。
「よく見てきてくれた」
「ですが玄徳様、明日の朝までしか……」
「間に合わせる」
劉備は立ち上がった。
安喜へ連れてきた人間だけで戦える人数は多くない。
関羽と張飛がいるとはいえ、賊が百人を超えていれば、こちらも相応の人数が必要になる。
俺は地図の周囲に置いていた別の木簡を取った。
「兄上」
「ああ」
劉備も、もう分かっていた。
「試す時が来たな」
◇
黄巾討伐を終えて兵を故郷へ帰す時、俺たちは伍を解かなかった。
誰がどこの村へ戻ったのか。
誰が伍長なのか。
誰が槍を扱え、弓を引け、馬に乗れるのか。
それぞれを記録し、村ごとに連絡役も決めている。
ただし彼らは兄上の私兵ではない。
必要になったからといって、勝手に召集できるわけでもなかった。
俺たちはまず県廷の長官へ事情を伝え、近隣の村へ義勇の助力を求める許しを得た。今回集まった者の食事についても、安喜側で必要分を出すことが決まる。
そこで初めて使者を走らせた。
全員へ知らせる必要はない。
石梁里まで半日ほどで動ける村を選ぶ。
「七つの村でいい」
俺は連絡役の名を書いた木簡を使者へ渡した。
「この人たちを訪ねてくれ。賊が出たこと、安喜尉の劉備が助力を求めていることを伝える。来るかどうかは本人たちに任せる」
「何人必要ですか?」
「まず百。無理にそれ以上集めなくていい」
使者が出ていく。
張飛がその背中を見送った。
「本当に来ると思うか?」
「それを今から確かめる」
「来なかったら?」
「今いる人数でやり方を考える」
俺は楽観していなかった。
黄巾討伐の最中ならともかく、兵たちはもう家へ帰っている。
畑もある。
商いもある。
家族もいる。
一度一緒に戦ったからといって、劉備が呼べば何度でも喜んで駆けつけるなどと思う方が危ない。
だからこそ、結果を見る必要があった。
◇
最初の十五人が到着したのは、日が傾くよりかなり前だった。
俺たちと最初から戦ってきた者たちである。
「玄徳殿」
先頭の男が劉備へ頭を下げた。
「呼ばれたと聞きました」
「家の方は大丈夫なのか?」
「二、三日なら。それ以上になるなら一度知らせを出したいですが」
「分かった。長引かせるつもりはない」
男たちは、言われなくても以前の伍ごとに集まっていた。
それを見た瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
十五人を一から組み直す必要がない。
誰が誰の隣に立つのか、もう分かっている。
その後も人が来た。
二十二人。
さらに十八人。
暗くなる頃には六十四人まで増えていた。
全員が揃ったわけではない。
家族に病人がいる者。
遠出している者。
どうしても仕事を離れられない者もいる。
それでいい。
「季衡」
関羽が集まった兵を見ながら言った。
「思ったより早かったな」
「俺もそう思う」
四百人を抱え続ければ、毎日食料が要る。
給金も要る。
家族や畑から人を引き離し続けることになる。
だが、必要な時だけ助力を求めるなら、平時にはそれぞれの暮らしへ戻れる。
もちろん弱点もある。
遠くへ行った者は呼べない。
急な襲撃なら間に合わない。
何年も放っておけば訓練したことも薄れる。
万能ではない。
それでも、四百人は消えていなかった。
「今夜のうちに石梁里へ向かいたい」
劉備が兵たちへ告げる。
「疲れている者はいるか?」
夕方に駆けつけた者もいる。
無理に夜通し歩かせれば、着いた頃には戦えなくなる。
そこで出発を二刻ほど遅らせ、食事と休憩を取った。
先に斥候だけを出す。
張飛は待ち時間に集まった兵の武器を見ていた。
「槍先が錆びてる奴がいるぞ」
「家に帰って十日ほどだぞ、益徳」
「十日あれば錆びる」
「確かに」
張飛は文句を言いながらも、自分で砥石を持ってきた。
「次に呼ばれた時は、武器を見てから来い。戦場で折れたら俺でも助けられん」
「分かりました、益徳様」
兵が真面目に答える。
少し前までなら張飛は、強い者だけを集めればいいと考えていたかもしれない。
今は武器の状態まで見るようになっている。
俺が変えているだけではない。
三人も、それぞれ勝手に変わっていた。
◇
夜半前、斥候が戻ってきた。
「石梁里の南西、一里ほどの林際に賊がいます」
「数は?」
「見えた範囲で九十ほどです。火が十ほど。林の奥にも人がいますが、二百はいないと思います」
「見張りは?」
「北と南に二人ずつ。東側は川で、西から道が入っています」
「明日の朝に村へ向かう気配は?」
「荷をまとめています。羊も連れていました」
俺は地図へ位置を書き込んだ。
相手は百前後と見てよさそうだ。
こちらは安喜から来た者を合わせて九十ほど。
関羽と張飛がいる以上、正面から戦っても負ける相手ではないと思う。
ただ、こちらの兵の半分以上は、家から呼び戻したばかりだ。
必要以上に危険へ晒す理由はなかった。
「村へ入られる前に止めたいな」
劉備が言う。
「ああ。ただ、敵の野営地へ夜襲するのは避けたい」
「なぜだ?」
張飛が訊いた。
「暗い林の中で敵味方が混ざったら、せっかく伍を揃えた意味が薄れる。それに俺たちの目的は皆殺しじゃない。石梁里から離れさせればいい」
関羽が地図を指した。
「なら、西の道を押さえるか」
「そこを使いたい」
林の東側には川がある。
南と北は開けているが、荷車や奪った家畜を連れて動くなら西の道が一番使いやすい。
「明け方前に、雲長兄が三十人で北へ。益徳は三十人で南へ回ってほしい」
「挟むのか?」
「完全には塞がない」
俺は南東側を指した。
「ここは空けておく。逃げる者まで無理に止めない」
張飛が納得した顔になる。
「武器を持って村へ向かう奴だけ止めるわけだな」
「そうだ。兄上と俺は西の道に残る。村へ行くなら俺たちを突破しないといけない形にする」
「賊がそのまま南東へ逃げれば?」
「追わない」
劉備が即答した。
もう俺が説明する必要もなかった。
◇
空が白み始める前、俺たちは動いた。
呼び戻した兵たちは、思っていた以上に静かだった。
一度家へ帰ったことで緩んでいるかと心配していたが、伍ごとに移動させれば以前の感覚をすぐ取り戻している。
もちろん黄巾討伐の最中ほどではない。
歩調の乱れる者もいる。
合図を一度聞き逃す者もいた。
それでも、初めて槍を持った百八十二人とはまるで違う。
経験は残っている。
東の空が赤くなり始めた頃、賊の野営地が騒がしくなった。
火が消される。
荷車が動く。
やがて先頭の男たちが、西の道へ姿を見せた。
その数、およそ二十。
俺たちを見つけて足を止める。
劉備が前へ出た。
「安喜尉、劉玄徳だ」
ざわめきが走った。
「石梁里から食料を出せと要求したそうだな」
返事の代わりに、後ろから男が一人出てきた。
黄色い布を腕に巻いている。
「俺たちは黄巾だ。官の犬に指図される覚えはない」
張飛がここにいれば、犬という一言で前へ出たかもしれない。
兄上は動かなかった。
「黄巾を名乗るかどうかは好きにすればいい。だが安喜の村から奪うなら、俺の仕事になる」
「たかが数十人で何ができる」
男が笑った。
その直後、林の北側で鳥が一斉に飛び立った。
関羽が配置についた合図だ。
少し遅れて南側からも、人の動く気配がする。
張飛たちも回り込んだ。
賊の男が笑うのをやめた。
「俺たちは村へ入らせない」
劉備が続ける。
「武器を捨てて南東へ去る者は追わない。奪った物と家畜は置いていけ」
「ふざけるな!」
男が刀を抜いた。
後ろの数十人も武器を構える。
だが、全員ではない。
林の奥で迷っている者がいる。
奪った羊の縄を握ったまま、周囲を見ている者もいる。
こちらは九十人ほど。
人数だけなら互角に近い。
しかし向こうから見れば、どこに何人いるのか分からない。
そしてこちらの兵は、一度この形で戦ったことがある。
「構えろ」
劉備の声で槍が揃った。
家から呼び戻された兵たちが、同じ動きで穂先を前へ向ける。
その瞬間だった。
賊の後ろから一人が飛び出し、武器を地面へ投げた。
「俺は降りる!」
続いて二人。
三人。
男が怒鳴る。
「戻れ!」
一人の肩を掴もうとしたところで、北側から関羽が姿を見せた。
「武器を捨てた者には手を出すな!」
低い声が林へ響く。
今度は十人近くが離れた。
南では張飛が道を塞いでいるが、南東側だけは開いている。
逃げ道が見えている。
だから死ぬまで戦う必要がない。
黄布の男がそれに気づいた時には、もう遅かった。
「行くぞ!」
残った二十数人を率いて、こちらへ突っ込んでくる。
「前へ出るな!」
劉備が兵を止める。
槍列で受ける。
最初の男が穂先を避けようとして足を止め、後ろとぶつかった。
そこへ左右から圧がかかった。
関羽が北側から。
張飛が南側から。
ただし二人とも奥へ突っ込まない。
敵を中央へ寄せるだけだ。
黄布の男は劉備を見つけると、刀を振り上げて走ってきた。
「兄上!」
俺が叫ぶより早く、劉備が動いた。
真正面には立たない。
身体を半歩外し、刀の軌道から抜ける。
合気術で繰り返してきた体捌きだった。
男の刃が空を切る。
劉備は腕を取って投げようとはしなかった。
そのまま相手の横へ抜け、剣の柄で手首を打つ。
刀が落ちた。
次の瞬間には、周囲の兵が男を地面へ押さえ込んでいた。
「兄上」
「何だ?」
「今の、かなり良かった」
「戦いが終わってからにしろ」
以前、俺が張飛へ言った言葉を、そのまま返された。
少し離れた場所で張飛が笑っている。
戦いは長く続かなかった。
◇
賊のうち、抵抗を続けた者だけを捕らえた。
武器を捨てて逃げた者は追っていない。
奪われた羊と穀物、布は残された。
捕らえた中に、周辺の村で人を殺した者がいるかどうかは、これから調べる。
全員を一括して扱うつもりはなかった。
「玄徳殿」
戦いが終わったあと、呼び戻した兵の一人が近づいてきた。
「俺たちは、これで帰っていいんですか?」
「ああ。安喜まで来てもらう必要はない」
劉備が答える。
「食事をしてから帰ってくれ。今回の助力については県廷にも名を残しておく」
「また呼ばれますか?」
兄上は少し考えた。
「呼ばずに済むなら、その方がいい」
兵が笑った。
「確かに」
「ただ、必要になった時には頼む」
「その時は、また同じ五人で来ますよ」
男は仲間のところへ戻っていった。
俺はその背中を見送る。
六十四人。
すべてではない。
四百人全員が戻ったわけでもない。
それでも、連絡を出したその日のうちに六十四人が集まり、一度訓練した形で動いた。
何より、一から集め直す必要がなかった。
伍も。
号令も。
誰が何をできるかも。
すでに残っていたからだ。
「季衡」
関羽が隣へ来た。
「上手くいったな」
「ああ。ただ、課題も見えた」
「課題?」
「武器だ。家へ帰したあと、手入れの状態がかなり違っていた。それに、全員へ知らせが届いたわけでもない」
関羽が頷く。
「なら、次までに直せばよい」
「そのつもりだ」
張飛も戻ってくる。
「月に一度くらい集めて鍛えればいいんじゃないか?」
「全員を毎月呼ぶのは難しい。畑も仕事もある」
「では村ごとならどうだ?」
俺は張飛を見る。
意外なところから答えが出た。
「それは使えるかもしれない」
伍ごと、あるいは近隣の村ごとに、農作や仕事を邪魔しない範囲で短い確認だけ行う。
武器の手入れ。
号令。
伍の顔ぶれ。
連絡役が変わっていないか。
それなら全員を安喜まで集める必要はない。
「益徳」
「何だ?」
「今のはかなりいい案だ」
「今のは、とは何だ」
「普段も頼りにしてる」
「ならいい」
張飛は満足そうに頷いた。
関羽が横で笑っていた。
◇
安喜へ戻ると、俺は今回の動きを記録へ加えた。
使者を出した時刻。
知らせた村。
到着した人数。
到着までにかかった時間。
来られなかった理由が分かった者についても残す。
六十四人を集められた、で終わらせない。
どの村ならどれほど早く応じられるのか。
どの道が使えるのか。
どこからなら翌日になるのか。
次に必要なのは、そこだった。
老主簿が木簡を眺めながら唸った。
「兵を家へ帰したのに、以前より扱いやすくなっておりますな」
「毎日ここにいる方が扱いやすいですよ。ただ、それだけ食わせ続けることになります」
「それは安喜には無理です」
「だから、これくらいがいいと思っています」
必要な時に集める。
終われば帰す。
そして、次に集まった時も最初からやり直さない。
現代の制度をそのまま持ち込んだわけではない。
この時代にある伍と村の繋がりを、少し使いやすくしただけだ。
それでも違いは出る。
机の向こうで、劉備が新しく届いた文書を読んでいた。
「季衡」
「今度は何だ?」
「中山国からだ」
一瞬、また督郵かと思った。
だが違った。
「近隣でも黄巾の残党や盗賊が増えている。各県に街道の警戒を強めるよう命が出た。それと――」
劉備がもう一枚の木簡を持ち上げる。
「安喜でのやり方について、報告を出せと言われている」
「何のやり方?」
「巡回と、兵の集め方だ」
俺は言葉を止めた。
「誰が聞いてきた?」
「督郵の報告を読んだ者がいるらしい」
兄上が笑う。
「季衡。お前の細かい記録が、とうとう余所へまで行くらしいぞ」
俺は机の上を見た。
伍の名簿。
地図。
巡回記録。
村ごとの連絡役。
呼び出してから到着するまでの時間。
どれも戦場で華々しく敵将を討つ話ではない。
だが、こういうものが軍を残す。
兄上が土地を得た時、その土地を次の戦まで持たせる。
俺がずっと欲しかったものだ。
「なら、出そう」
「全部か?」
「いや」
俺は木簡を取り上げた。
「使える形にまとめてからだ。読む人間に百枚渡しても嫌われる」
劉備が吹き出した。
「督郵の時と同じだな」
「あの時に役立ったからな」
歴史はもう、俺の知る道から外れ始めている。
それでも不安より、今は楽しみの方が少し大きかった。
兄上は安喜を失わなかった。
四百人も失わなかった。
そして俺たちが安喜で始めた小さな仕組みが、今度は県の外へ出ようとしている。
一度得たものを、積み上げていく。
その最初の形が、ようやくでき始めていた。




