72話 宰相の答え
翌朝。
リーヴェ村は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
畑では村人たちが鍬を振るい、子どもたちは広場を走り回る。
パンを焼く香りが風に乗り、鍛冶屋からは金属を打つ音が響く。
王国宰相が滞在しているとは思えないほど、穏やかな時間が流れていた。
その村を、一人の男が静かに歩いていた。
アーヴィン・クロムウェル。
護衛も伴わず、誰にも声を掛けず、ただ一人で歩く。
村人たちはその姿に気付くと会釈をする。
アーヴィンもまた、静かに会釈を返すだけだった。
やがて、その足は自然と村の中央——ロイド家の庭で止まる。
目の前には、大きく枝葉を広げた結界樹フィル。
アーヴィンは何も言わず、その姿を見上げた。
昨日、自分はこの樹へ触れた。
温もりを感じた。警戒し、安心し、人を選ぶ姿も見た。
理屈では説明できないものが、この樹には確かに存在していた。
それでも、国家を預かる者としての答えは変えられない。
そう考えていた。
静かな風が吹き抜ける。
枝葉がさらさらと揺れ、木漏れ日が地面へ落ちた。
その時、フィルの枝がゆっくりと動いた。
昨日のようにフローラを探すわけでもない。
子どもたちへ伸びるわけでもない。
真っ直ぐ、アーヴィンへ向かって伸びてくる。
アーヴィンは動かなかった。
枝はその目前で止まる。
まるで、相手の反応を待っているようだった。
アーヴィンは静かに右手を上げる。
枝先へ触れると、昨日と同じ温もりを感じた。
しかし今日は、それだけでは終わらなかった。
フィルは枝を引かない。拒みもしない。
ただ静かに、その手を受け入れていた。
しばらく沈黙が流れる。
風だけが枝葉を揺らしていた。
やがてフィルは、ゆっくりと枝を戻す。
アーヴィンはその動きを目で追った。
枝は幹へ戻り——そのまま下へ。地面へ向かって伸びていく。
枝先が土へ触れると、土が小さく脈打った。
盛り上がるわけでも、光を放つわけでもない。しかし、ほんの僅かに——大地そのものが呼吸をしたような感覚。
アーヴィンは目を細める。
土の下に深く張り巡らされた根が、静かに息づいている。その根は力強く、リーヴェ村の大地を掴んでいる。
それはまるで——ここから離れたくない、と言っているようだった。
アーヴィンは、ゆっくりとフィルの絵だから手を離した。
視線はなおも地面へ向けられている。
フィルの根は、この村の土を深く掴んでいた。
数か月という短い時間で、この樹は自らの居場所を見つけていた。
アーヴィンは静かにフィルを見上げる。
フィルもまた、枝葉を揺らしながらアーヴィンを見つめ返していた。
言葉はない。
それでも、不思議と伝わるものがあった。
この樹は、自分でここを選んだ。その事実だけは疑いようがなかった。
アーヴィンは小さく息を吐く。
視線を村へ移した。
畑では村人たちが笑いながら働いている。子どもたちは広場を走り回り、時折フィルへ駆け寄っては枝へ触れて笑っていた。
フィルも枝を揺らし、その様子を静かに見守っている。
結界樹は、王国最大の戦略資産。
それは間違いない。だが⋯⋯目の前にあるのは、ただ管理される存在ではなかった。
この村で暮らし、人と共に生きている一つの命だった。
アーヴィンは目を閉じる。
国家とは何か。民とは何か。
その答えは変わらない。
王国を守ることが、自分の責務であることも変わらない。
だが、その王国は何によって成り立っているのか。
地図の上に描かれた領土ではない。数字として並ぶ人口でもない。————そこに暮らす人々の日常だ。
その日常を守るために、結界樹は存在している。
そして今、その結界樹自身が、この村で生きることを望んでいる。
アーヴィンはゆっくりと目を開いた。
フィルへ近付き、その幹へ静かに手を添える。
「⋯⋯理解した」
短い一言だった。
フィルの枝が、小さく揺れる。
アーヴィンはその動きを見届けると、静かに頷いた。
「お前は、ここで生きると決めたのだな」
枝葉がゆっくりと揺れた。
アーヴィンは手を離す。
その表情に大きな変化はない。けれど、その瞳から迷いは消えていた。
「ならば」
静かに村を見渡す。
ロイドが守ってきた村。フローラが支えてきた日々。レオンたちが築いた防衛。ミリア、エリーゼ、セシリアが整えた管理体制。
そのすべては、この樹が安心してここで生きられる環境を作るためのものだった。
誰か一人の力ではない。
リーヴェ村全体が、結界樹を支えていた。
そして、その結界樹もまた村を支えている。
アーヴィンは静かに踵を返す。
もう確かめることはなかった。
答えは、自分の中で出ていた。
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