71話 話をしよう
アーヴィンは、フィルを見上げたまま静かに立っていた。
フローラとの会話を終えても、答えは出ない。管理人としての考えは理解した。だが、それでも国家を預かる立場として、自らの結論を変える理由にはならなかった。
風が吹き抜ける。
枝葉がさらさらと揺れ、フィルは穏やかな木漏れ日を村へ落としていた。
その時だった。
村の入口から、馬車の止まる音が聞こえた。
アーヴィンは静かに振り返る。
王家の紋章を刻んだ馬車。
先に数名の近衛騎士が降り立ち、周囲を警戒する。
そして、その後ろから一人の青年が姿を現した。
銀色の髪を揺らし、穏やかな笑みを浮かべながら歩いてくる。
王太子、ガイアス・シュタールだった。
アーヴィンは静かに一礼する。
「⋯⋯殿下」
ガイアスは軽く頷いた。
「急に来てすまない」
「いえ」
ガイアスは後ろの護衛へ視線を向ける。
「私はアーヴィンと話す。ここで待機していてくれ」
「はっ」
護衛たちはその場で足を止める。
ガイアスはそのままアーヴィンの隣まで歩み寄った。
「少し付き合ってくれ」
「承知しました」
二人は並んで歩き始める。
フィルから少し離れた場所まで来ると、ガイアスがゆっくり口を開いた。
「私も、この村を見て欲しかった」
アーヴィンは黙って続きを待つ。
「報告書だけでは伝わらないものがあると思ってな」
「⋯⋯確かに、その通りでした」
アーヴィンは素直に認める。
「調査団の報告に誤りはありません。村はよく整備されております」
「そうか」
「畑も、診療所も、教育も、防衛も。どれも一つの村としては驚くほど高い水準です」
ガイアスは静かに笑った。
「お前からそこまで評価されるとは思わなかった」
「評価すべきものは評価します」
即答だった。
「ロイド・バークは優れた村長です。レオン・アッシュの防衛体制も隙がありません。ミリア・ヴェルデ、エリーゼ・ハルト、セシリア・ノートン、それぞれが己の役割を理解し、村を支えています」
一人ずつ名前を挙げながら、アーヴィンは淡々と続ける。
「そして何より、フローラ・リーフレットです」
ガイアスは視線だけを向けた。
「彼女は決して優れた学者ではありません。軍略にも政治にも長けてはいない」
一拍置く。
「ですが、誰よりも結界樹を理解しています」
その言葉には、偽りのない評価が込められていた。
ガイアスは満足そうに微笑む。
「それを聞けただけでも、来た甲斐があった」
アーヴィンは歩みを止めた。
遠くではフィルが枝葉を揺らし、子どもたちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。
その音へ耳を傾けながら、小さく息を吐いた。
「ですが」
穏やかな空気が、再び張り詰める。
「私の結論は変わりません」
ガイアスも足を止める。
「結界樹は国家最大の戦略資産です」
金色の瞳が真っ直ぐガイアスを見据えた。
「この村が素晴らしいことと、王都で管理すべきという結論は、私の中では別問題です」
ガイアスは静かに頷く。
「⋯⋯そうだろうな」
二人の視線が交わる。
昔からの師弟関係だからこそ分かる。
ここから先は、互いの信念を語る時間になるのだと。
ガイアスは静かに笑った。
「⋯⋯アーヴィン、お前はそれでいい」
アーヴィンは僅かに目を細める。
「お前は王国全体を見ている。簡単に考えを曲げられては、宰相として困る」
その言葉に、アーヴィンは何も答えなかった。
ガイアスは村の方へ視線を向ける。
畑では村人たちが働き、診療所ではエリーゼとマーサが患者の対応をしている。
広場ではセシリアが子どもたちへ勉強を教え、その傍らでミリアはフィルの様子を確認していた。
それぞれが、自分にできる役割を果たしている。
「だからこそ」
ガイアスは続けた。
「私は、お前自身に見てほしかった」
アーヴィンも同じ景色へ目を向ける。
「書類では、人の表情までは伝わらない」
「⋯⋯ええ」
「村人たちが、どんな思いで暮らしているのかもな」
静かな風が吹き抜ける。
アーヴィンはしばらく黙っていた。
やがて、小さく口を開く。
「殿下は、いつ頃からお考えだったのですか」
「何をだ」
「結界樹を、この村へ残すことを」
ガイアスは少しだけ昔を思い出すように目を細めた。
「⋯⋯最初は後悔が始まりだった。フローラを不当に解任してしまったことへの贖罪のつもりで、リーヴェ村に訪れた。しかし——」
そこで言葉を区切る。
「実際にフローラとフィルの姿を見た時、考えを改めた」
あの日の少女を思い浮かべる。
王都を離れ、たった一人で村へ向かった少女。
「彼女は、結界樹を国宝としてではなく、一人の家族として見ていた」
アーヴィンは静かに聞いている。
「私は、それを壊してはいけないと思った。⋯⋯それが何よりフィルの為になり、それが何より王国の為になると思ったのだ」
それがガイアスの真剣な考えだった。
「国家は民のためにある。ならば私は、民が守ろうとするものを尊重したい」
アーヴィンは視線を落とす。
国家と民の順番は、自分とガイアスでは少し違うのかもしれない。
その時、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
「フィルー!」
「もう一回!」
広場ではルーク、リリィ、ノアの三人がフィルの周りを駆け回っている。
フィルは枝を一本ずつ伸ばし、三人の頭を優しく撫でていた。
リリィが嬉しそうに笑う。
ノアは両手で枝を抱き締める。
ルークは照れ臭そうに笑いながらも、その場を離れようとはしない。
枝葉が、さらさらと揺れた。
穏やかで、楽しげな音だった。
アーヴィンはその光景を、ただ静かに見つめる。
そこにあるのは、ごく自然な日常だった。
ガイアスは隣へ並んだまま、小さく笑う。
「良い村だろう」
アーヴィンはすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、静かに頷く。
「⋯⋯ええ」
その返事には、先ほどまでの迷いとは違う色があった。
自らが信じてきた理屈は、今も変わらない。
しかし、その理屈だけでは語れない景色が、この村には確かに存在している。
アーヴィンはフィルを見つめる。
枝葉は子どもたちを包み込むように揺れ、その姿はまるで穏やかに微笑んでいるようだった。
その光景を前にしてもなお、自分の答えは変わらないのか。
アーヴィンはまだ、その問いへの答えを持っていなかった。
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