70話 それぞれの答え
フローラとの話を終えたあとも、アーヴィンはすぐには馬車へ戻らなかった。
村の中をゆっくりと歩き、一つひとつの景色を静かに見つめていく。
畑では村人たちが笑顔で働き、子どもたちは広場を元気に走り回っている。
誰も無理に取り繕っている様子はない。
昨日も今日も、きっと同じような日常を過ごしているのだろう。
「宰相閣下」
アーヴィンの後ろから落ち着いた声が掛かる。
振り返ると、レオンが一礼して立っていた。
「少々、お時間をいただけますでしょうか」
「構わん」
二人は村の外れへ歩き始める。
少し先には、新しく設置された見張り台が見えていた。
アーヴィンは見張り台を見上げる。
「よく整備されている」
「ありがとうございます」
レオンは静かに頭を下げた。
「魔物襲撃を受けてから、防衛体制を全面的に見直しました」
「報告書にも目を通した」
アーヴィンは見張り台へ視線を向けたまま続ける。
「監視、警鐘、避難経路、騎士の配置。どれも合理的だ」
「お褒めいただき、光栄です」
「⋯⋯だが」
アーヴィンはゆっくりとレオンを見る。
「一つ聞こう」
「はい」
「お前は何を守るために剣を振るう」
レオンは一瞬だけ目を伏せた。
しかし、迷うことなく顔を上げる。
「人々を守るためです」
「⋯⋯人々」
「はい」
レオンは静かに頷いた。
「王都に住む方も、辺境の村に住む方も、俺にとっては等しく守るべき民です」
アーヴィンは黙って耳を傾ける。
「近衛騎士となった日から、その考えは変わっておりません」
「では聞こう」
アーヴィンの声は変わらず穏やかだった。
「仮に王国全体を守るため、一つの村を切り捨てねばならぬ状況になったとする。その時も同じ答えか」
風が静かに吹き抜ける。
レオンはすぐには答えなかった。
しばらく空を見上げ、小さく息を吐く。
「⋯⋯難しい問いです」
その言葉に嘘はなかった。
「ですが、俺は騎士です」
真っ直ぐアーヴィンを見つめる。
「俺の剣は、目の前の命を守るためにあります」
アーヴィンは何も言わない。
レオンは続けた。
「王国とは、民の集まりです。一人ひとりの命を守ることが、結果として王国を守ることに繋がると俺は信じています」
「理想論だ」
静かな一言だった。しかし責める響きはない。
レオンも落ち着いたまま頷いた。
「そうかもしれません」
その返事に、今度はアーヴィンが僅かに眉を動かす。
レオンは穏やかな表情で続ける。
「しかし————俺は一人の騎士です。宰相閣下のように国全体を見る立場ではありません」
少しだけ視線を村へ向ける。
ロイドが村人たちと話し、エリーゼとマーサは診療所の前で薬草を干している。
ミリアはフィルの根元で何かを書き留め、セシリアは子どもたちの教材をまとめていた。
「だから俺は、自分に出来ることをするだけです」
レオンは静かに言った。
「目の前で笑っている人を守る。それが俺の役目です」
アーヴィンはその横顔を見つめる。
騎士学校へ入学した頃から知る青年だった。
実直で、不器用で、己の信じる道を曲げない男。あの頃から、本質は何一つ変わっていない。
「⋯⋯そうか」
短く答え、アーヴィンは歩き出した。レオンも黙ってその隣へ並ぶ。
二人の間に、それ以上言葉はなかった。
価値観は違う。
それでも互いの信念だけは、十分に伝わっていた。
レオンと別れたアーヴィンは、一人で村の広場へ足を運んだ。
特に目的があったわけではない。
ただ、もう少しだけこの村を見ておきたい。そんな気持ちが、自分の中に芽生えていることを感じていた。
広場では、子どもたちの笑い声が響いている。
「フィルー!こっちこっち!」
ルークが大きく手を振る。
フィルは枝葉を楽しそうに揺らしながら、一本の枝をゆっくりと伸ばした。
「届くかなー!」
リリィが枝へ飛び付こうとすると、フィルは悪戯っぽく枝を持ち上げる。
「あっ!逃げた!」
子どもたちが一斉に追い掛ける。
枝は絶妙な距離を保ちながら揺れ動き、捕まりそうになると少しだけ離れる。
「待てー!」
「今度こそ!」
広場いっぱいに笑い声が広がった。
その様子を、アーヴィンは少し離れた場所から静かに見つめていた。
枝の動き一つひとつに、子どもたちが笑う。
子どもたちが笑えば、フィルもまた枝葉を大きく揺らす。
まるで一緒になって遊んでいるようだった。
アーヴィンは無言のまま、その光景を見つめ続ける。
結界樹。王国最高の戦略資産。
王都では、そのように教えられてきた。
国境を守る存在。王国を支える礎。それは間違っていない。
だが、目の前にいるフィルはどうだ。
子どもたちと遊び、笑い合い、フローラに頭を撫でられると安心したように枝葉を揺らす。
まるで、一人の人間のようだった。
「見て見て!」
リリィが嬉しそうに声を上げる。
フィルが枝先へ小さな花を咲かせたのだ。
「わぁ⋯⋯!」
子どもたちが目を輝かせる。
ルークがそっと花へ触れると、フィルは嬉しそうに枝を揺らした。
その姿を見て、ノアも自然と笑顔になる。
フィルも、フィル自身が楽しんでいるように見えた。
アーヴィンは静かに目を閉じる。
フローラは言っていた。
『フィルは、私の大切な家族です』
レオンは言っていた。
『目の前で笑っている人を守る。それが俺の役目です』
二人とも、国家という言葉より先に、人を見ていた。
それは宰相である自分とは違う景色だった。
間違っているとは思わない。
だが、自分には選べない考え方でもあった。
その時、小さな足音が近付いてくる。
「こんにちは!」
リリィだった。
アーヴィンは視線を落とす。
「どうした」
「フィルのお花!」
リリィは小さな花を大事そうに両手で持っていた。
「きれいでしょう?」
「ああ」
自然と言葉が漏れる。
「綺麗だ」
リリィは満足そうに笑うと、そのままフィルのもとへ駆け戻っていった。
フィルはその姿を見送り、優しく枝葉を揺らす。
その揺れを見つめながら、アーヴィンはゆっくりと息を吐いた。
調査団の報告書には書かれていなかった。
管理記録にも載っていない。
理論でも説明できない。
この村へ来なければ、決して見ることの出来なかった光景。
アーヴィンは静かにフィルを見上げる。
大きく枝葉を広げたその姿は、王都で見ていた頃よりも、どこか生き生きとして見えた。
風が吹く。枝葉が心地良さそうに揺れる。
その姿は、笑っているようにも見えた。
「これを⋯⋯」
小さく呟く。
その先の言葉は、誰に向けたものでもない。
「王都へ連れて帰るのか」
答えは、まだ出ない。
だが、これまで一度も揺らぐことのなかった心に、小さな迷いが生まれていることだけは、アーヴィン自身が誰よりも理解していた。
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