58話 準備:管理記録
まずは管理記録から手をつけることにし、居間の机へ管理記録を広げていた。
「これが、今までの記録です」
机の上には何冊もの帳面が並ぶ。
お父さんからフィルを任されて以来、毎日欠かさず書き続けてきたものだ。
セシリアさんは一冊ずつ丁寧にページをめくっていく。
「⋯⋯改めて、本当に素晴らしいですね」
「そうですか?」
「はい」
優しく微笑みながら頷く。
「ここまで継続して記録を残せる人は、そう多くありません」
少しだけ照れくさくなる。
「でも、お父さんから『毎日書きなさい』って教わっていたので」
「その教えが、今のフローラ様を支えているのですね」
セシリアさんは帳面を閉じると、一枚の紙を机へ置いた。
「では、始めましょう」
「はい!」
私は羽ペンを握る。
セシリアさんは最初の記録を開いた。
「こちらの日ですが、水やりの量が普段より少なくなっていますね」
「あ、それは前の日に雨が降ったからです」
「なるほど」
さらさらとメモを書き留める。
「その理由も記録へ残しましょう」
「理由もですか?」
「はい」
セシリアさんは頷いた。
「数字だけでは、後から見返した時に『なぜ減らしたのか』が分かりません。ですが、理由が書かれていれば、その判断が適切だったことまで伝えられます」
「なるほど⋯⋯!」
私は思わず感心する。
確かに、私自身は覚えていても、何年も経てば忘れてしまうかもしれない。
「では、こちらはどうでしょう」
次のページを開く。
「春先から肥料を少し増やしていますね」
「はい。暖かくなって、新芽がたくさん出始めたので」
「それも大切な情報です」
セシリアさんは優しく微笑む。
「季節によって管理方法を変えていることが分かれば、調査官の方々も管理の意図を理解できます」
セシリアさんのアドバイスを受けながら、私は羽ペンを走らせる。
お父さんから教わったこと。
毎年当たり前のようにやってきたこと。
今までは、それをわざわざ書く必要はないと思っていた。
でも、それは私が知っているだけだった。
「フローラ様」
「はい」
「フィル様の覚醒後、管理方法が変わったことはありますか?」
私は少し考え込む。
「えっと⋯⋯水やりの量は、少しだけ増えました」
「理由は?」
「フィル自身が必要とするご飯が増えたからだと思います」
「『思います』ではなく、そう判断した根拠はありますか?」
「あります!」
私はすぐに答えた。
「以前と同じ量のお水だと、夕方になる頃には葉っぱの元気が少し無くなってしまうんです。でも、今の量に増やしてからは、ずっと元気で」
そこまで話して、私は口を閉じた。
「あ⋯⋯」
今の説明。
今まで一度も記録へ書いたことがなかった。
セシリアさんは嬉しそうに微笑む。
「そうです。私がお聞きしたかったのは、その理由です。
フローラ様の管理は、決して感覚だけではありません。
長年積み重ねてきた経験から、一つ一つ判断されています。
その経験を、言葉として残しましょう」
私は大きく頷いた。
「はい!」
お父さんから受け継いだ知識。
私だけの中に留めておくのではなく、誰が読んでも分かる形へ。
調査団が来るまで、残された時間はあとわずか。
だからこそ私は、一文字一文字を大切に書き進めていった。
それから私たちは、管理記録を一冊ずつ見直していった。
「こちらの日は、結界範囲が広がっていますね」
セシリアさんが記録を指差す。
「はい。この日は、村の外れまで結界が届いていました」
「距離は測っていますか?」
「えっと⋯⋯」
私は少し考える。
「ルークくんたちが、結界の境目まで歩いて確かめてくれました。その時、おおよその距離も測っています」
「でしたら、その数値も記録しましょう」
私は頷き、帳面へ書き加える。
今までは『広がった』だけで済ませていた。
でも、『どのくらい広がったのか』まで残せば、誰が見ても変化が分かる。
「次はこちらです」
セシリアさんは別のページを開いた。
「魔力量が増えている、とありますね」
「はい。でも、正確な数値は私には分からなくて⋯⋯」
「それで構いません」
セシリアさんは優しく首を横へ振る。
「数値はミリアさんが補ってくださいます。フローラ様には、フローラ様にしか分からないことを書いていただきたいのです」
「私にしか分からないこと⋯⋯」
「はい」
セシリアさんは微笑む。
「例えば、『今日は少し嬉しそうだった』『葉の揺れ方が普段と違った』など、そういったことです」
私は思わず目を丸くした。
「そんなことまで⋯⋯?」
「もちろんです。調査官の方々には見えない情報ですから」
その言葉に、私ははっとする。
フィルと一緒に暮らしてきた私は、枝の揺れ方や葉っぱの音だけでも、その日の機嫌や体調が何となく分かる。
でも、それは私にとって当たり前すぎて、書こうと思ったことは一度もなかった。
「それも、立派な管理記録なんですね」
「ええ」
セシリアさんは静かに頷く。
「数値だけでは分からないことがあります。そして、感覚だけでも伝わらないことがあります。両方揃って、初めて一つの記録になるのです」
私は自然と笑顔になった。
「なんだか、管理記録って奥が深いですね」
「そうですね」
セシリアさんも柔らかく微笑む。
「ですが、ここまで積み重ねてこられたからこそ、あと少しで完成します」
それからも私たちは何冊もの帳面を見直し続けた。
水や肥料を与えた理由。
覚醒後に変わった管理方法。
周辺の植物へ現れた変化。
結界範囲の推移。
私が経験から判断してきたことを言葉にし、セシリアさんが誰にでも伝わる文章へ整えていく。
気付けば、窓から差し込む日差しはすっかり高くなっていた。
「⋯⋯できました!」
最後の一行を書き終え、私は大きく息を吐く。
セシリアさんは完成した管理簿をゆっくり閉じた。
「素晴らしい出来です」
「本当ですか?」
「はい」
穏やかな笑顔で頷く。
「これなら調査団の方々にも、フローラ様がどれほど丁寧にフィルを管理してきたのか、きっと伝わります」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
まだ不安はある。
でも、私にできる準備は、一つ終えることができた。
「ありがとうございました、セシリアさん」
「いいえ」
セシリアさんは優しく微笑む。
「次は、ミリアさんの番ですね」
フィルの状態を、もっと詳しく調べるために。
私は完成した管理簿を大切に抱え、ミリアちゃんの待つ庭へ向かった。
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