55話 王太子と宰相
王太子の執務室。宰相アーヴィンはガイアスの元を訪ねた。
「結界樹を、王宮へ戻すべきです」
静かな声が部屋へ響く。
報告書を受け取ったガイアスは、一通り目を通すと静かに閉じた。
表情は変わらない。
「理由を聞こう」
アーヴィンは一歩前へ出る。
「理由は明白です。今回、リーヴェ村を襲撃した魔物は推定1000体に及びます。しかも、軍隊と呼ぶべき編成でした。それを退けた最大の要因は、結界樹の覚醒です」
ガイアスは黙って聞いている。
「報告書にもある通り、結界範囲は村だけでなく周辺森林まで拡大。味方への治癒、魔物への弱体化、植物の操作⋯⋯。いずれも従来の結界樹には確認されていない能力です」
アーヴィンは淡々と続ける。
「今や今代の結界樹は、一つの村が管理するには重要すぎる存在となりました。王都へ戻し、国家管理下へ置くべきです」
短い沈黙が流れる。
ガイアスは椅子へ深く腰掛けたまま口を開いた。
「フローラも連れ戻すのか」
「はい」
迷いのない返答だった。
「また結界樹に逃げられても困りますし、管理人を変える必要は無いかと。しかし、警備も研究も医療も、全て王都の方が充実しております。仮に再び魔物が襲撃した場合でも、近衛騎士団以外の騎士団も即応できます。リーヴェ村とは比較になりません」
ガイアスは静かに目を閉じる。
しばらく考えた後、小さく首を横へ振った。
「却下だ」
その一言に、執務室の空気が変わる。
アーヴィンは表情を変えない。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「簡単だ」
ガイアスはゆっくり立ち上がる。
窓際まで歩き、王都を見渡した。
「結界樹——フィルは、自らフローラを追ってリーヴェ村へ行った。フィルにはフローラが絶対的に必要だ。そして、そのフローラはリーヴェ村に居ることを望んでいる」
静かな声だった。
しかし、その言葉には確かな重みがあった。
「私は、その意思を尊重したい」
アーヴィンは一瞬だけ目を伏せる。
「ですが、国家運営において個人の意思だけを優先することは出来ません。結界樹は王国全体を守る存在です。一つの村へ留めておくことは、王国全体を危険へ晒すことにもなります」
ガイアスは振り返る。
その表情は穏やかだった。しかし、決意だけは揺らいでいなかった。
「アーヴィン」
「はい」
「私は、一度フローラを追放した」
静かな言葉だった。
「一部の貴族を御しきれず、会議の流れを変えることができず、王宮から去らせた」
その声には後悔も言い訳もなかった。
ただ、事実を述べているだけだった。
アーヴィンは黙って聞いている。
「私はあの時、フローラの心をグチャグチャにしてしまった。だから直接謝罪し、私は彼女と約束した。フィルの意思を尊重することと、リーヴェ村への滞在を。この私が、王太子ガイアスの名の下に。この意味が分かるな?」
短い沈黙が流れる。
ガイアスの言葉は、重たいものだった。一国の王太子が決めた約束事だ。物によっては国家が揺らぐほどの大きなものである。それを違えよ、というのは宰相であるアーヴィンであっても不敬極まりない言動であった。
「私はもう、あの二人を引き離すつもりはない」
その言葉には、王太子としてではなく、一人の人間としての決意が込められていた。
アーヴィンは静かに口を開く。
「殿下」
「何だ」
「そのお言葉は、王太子としてのご判断でしょうか」
ガイアスは振り返る。
「⋯⋯どういう意味だ」
「失礼を承知で申し上げます」
アーヴィンは一切表情を変えない。
「殿下は、過去のご判断を悔いておられる。そのお気持ちは理解いたします。それに、殿下ほどのお方がされたお約束です。そう簡単に反故にする訳にはいかないでしょう。殿下の名声にも傷がつきます。しかし————」
一拍置く。
「これは、もはやそのような事を言っていられるような事態ではありません」
執務室の空気が静かに張り詰める。
「結界樹は王国の宝です。その価値は、一人の娘や一つの村とは比較になりません。⋯⋯それはガイアス殿下。失礼ながら、貴方様の約束があったとしても、釣り合わないものです」
「ほう⋯⋯言ってくれるじゃないか、アーヴィン」
アーヴィンの言葉に、滅多に感情を表に出さないガイアスが、怒気を孕んだ言葉を投げる。彼の氷のような青い瞳が、鋭くアーヴィンの金の瞳を捉えた。
しかし、アーヴィンは引かない。
「万が一、再び同規模の襲撃が起きればどうなりますか?他国がその存在へ目を付けたら?国家として考えるならば、答えは一つです」
アーヴィンは言葉を区切ると、改めて提言した。
「王宮で管理すべきです」
ガイアスは静かにアーヴィンを見つめる。
アーヴィンは、ガイアスの師匠だ。ガイアスは小さい時から王太子としての教育をアーヴィンに施され、アーヴィンに勝るとも劣らない合理的な考え方ができる。
だからこそ分かる。
アーヴィンはフローラを嫌っているわけでも、フィルを奪いたいわけでもない。
ただ、宰相として、合理的な最善を口にしているだけだ。
ガイアスも前まではそうだった。
しかし————リーヴェ村で見た様々な光景が、合理以外の道理をガイアスの中に作っていた。
「アーヴィン」
「はい」
「お前の言うことは正しい」
アーヴィンは何も答えない。
「王国だけを考えるなら、お前の案が最善だろう」
ガイアスはゆっくり報告書へ手を置いた。
「だが。私は、やはり許可できない。それにリーヴェ村には、私の人選した少数精鋭を既に送り込んでいる」
「レオン騎士団長達ですか」
「ああ。私は、彼らを——フィルにフローラ、リーヴェ村の全員を信じている」
迷いのない声だった。
「彼らは、この国を守るために戦った。ならば今度は、王都が彼らを信じる番だ」
アーヴィンは静かに目を閉じる。
数秒の沈黙。
やがて小さく息を吐いた。
「⋯⋯承知いたしました」
反論はしない。
王太子が決断した以上、それに従うのも宰相の務めだった。
しかし。
「一つだけ、ご提案があります」
「聞こう」
「管理状況を確認するため、王宮より調査団を派遣させてください。現地を見ずに判断することは、私にも出来ません」
ガイアスは少しだけ考え、小さく頷いた。
「⋯⋯この辺りが譲歩できる限界か。⋯⋯良いか、正式な帰還命令は出さない。調査のみだ」
「承知いたしました」
アーヴィンは一礼する。
互いに意見は変わらない。
だが、それでも信頼は揺るがなかった。
「⋯⋯信頼、ですか」
「む?なんだ?」
「⋯⋯いえ、坊ちゃんも言うようになったなと」
「⋯⋯坊ちゃんは止めろ」
アーヴィンの言葉に、ガイアスは気まずそうな顔をした。
「殿下。信頼というのは、合理性の無い極めて不確実なものです」
「⋯⋯」
「ですので、私はしっかり見定めさせていただきます。その上で、リーヴェ村が管理体制として不適当であると判断すれば、強制的にでも結界樹と管理人達を全員王宮に連れ戻します」
「⋯⋯その時は、私が止めるさ」
ガイアスとアーヴィンの視線は、火花を散らすようにぶつかった。
アーヴィンは一礼し、王太子の執務室を出る。
アーヴィンが去った部屋で、ガイアスは独りごちる。
「⋯⋯本当に敵に回したくない男だ。⋯⋯レオンに連絡しなければ」
一方、執務室を出た廊下で、アーヴィンもまた独りごちる。
「⋯⋯坊ちゃんの頑固さ、お変わりありませんね」
こうして、リーヴェ村にアーヴィン宰相主導の調査団が派遣されることが決定した。
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