54話 アーヴィン・クロムウェル
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王都——王宮中央棟、王国宰相執務室。
黒を基調とした長衣へ金糸の刺繍が施された礼装を纏う一人の男が、静かに机へ向かっていた。
銀の混じった黒髪を整然と後ろへ流し、切れ長の金色の瞳は山のように積まれた書類だけを見つめている。
王国宰相。アーヴィン・クロムウェル。
王国の政務、その全てを統べる男だった。
机へ積まれた書類は、どれも王国全土から届いた重要案件ばかりだ。
各領地の税収、騎士団の補給、街道整備、魔物出現報告。一枚読み終える度に、次の書類へ手が伸びる。
迷いはなく、止まることもない。まるで最初から内容を知っているかのような速度で、次々と決裁が下されていく。
そんな中、静かな執務室へ控えめなノックが響く。
「入れ」
短い返事だ。扉が開くと、一人の文官が入室した。
「失礼いたします」
その腕には、一冊の分厚い報告書が抱えられていた。
「リーヴェ村魔物襲撃事件の調査報告書がまとまりました」
ほんの一瞬、アーヴィンの手が止まる。
「そこへ置け」
「はっ」
文官は恭しく机へ報告書を置いた。
表紙には、大きく題名が記されている。
『リーヴェ村魔物襲撃事件 調査報告書』
アーヴィンは表紙を一瞥すると、静かに頁を開いた。
「概要を読め」
「はっ」
文官は報告書を開く。
「今回、リーヴェ村を襲撃した魔物は、推定総数800体です」
部屋の空気が僅かに張り詰める。
しかし、アーヴィンの表情は変わらない。
「内訳は」
「ゴブリン500、ゴブリンライダー100騎、飛行型魔物へ騎乗したゴブリン100騎に、オーク70。⋯⋯そして、オーガ30です」
そこで初めて、アーヴィンの視線が文官へ向いた。
「⋯⋯オーガが30⋯⋯?確かか?」
「はい。現地調査隊による、確かな確認結果です」
静かな沈黙が流れる。
アーヴィンは再び報告書へ目を落とした。
「ゴブリン、オーク、オーガ⋯⋯」
一つずつ口にする。
「さらに騎兵に飛行兵か⋯⋯」
報告書へ視線を落としたまま、小さく呟く。
「⋯⋯もはや軍隊だな」
「我々も同様の見解です」
文官は頷いた。
「通常、魔物は種族ごとに群れを形成します。ここまで統率された混成部隊は、王国の記録にもほとんど例がございません」
「⋯⋯となると、指揮個体は?」
「⋯⋯それが、確認できませんでした。ですが、戦闘中も部隊行動を維持し、撤退まで統率されております。偶然とは考えられません」
アーヴィンは戦況図へ目を落とした。見れば見るほど、まるで人間の軍隊そのものだった。
「⋯⋯興味深い」
感情の見えない声だった。
しかし、その一言だけで文官の背筋はさらに伸びる。
アーヴィンが「興味深い」と口にする時。それは決して良い意味ではないことを、王宮で働く者なら誰もが知っていた。
アーヴィンは静かに報告書を一枚めくる。
「続けろ。リーヴェ村は、この軍勢をどう退けた」
文官は一枚頁をめくる。
「リーヴェ村は、壊滅を免れております。戦死者はおりません」
アーヴィンの視線が止まる。
「⋯⋯ふむ。続けろ」
「戦闘開始から少し、結界樹に異変が発生したとのことです。結界が村全域から周辺森林まで拡大したそうです」
「ほう」
「さらに、結界内の味方へ治癒効果を確認。魔物に対しては身体能力の低下を確認しております」
文官は慎重に言葉を選びながら続けた。
「加えて、周辺植物が魔力へ反応⋯⋯。魔物への拘束、進軍阻害、視界妨害など、複数の現象が確認されました」
執務室が静まり返る。
アーヴィンは無言のまま報告書を読み進めた。
「⋯⋯植物を操ったのか」
「正確には、結界樹の魔力へ植物が共鳴したものと推測されております」
「推測か」
「申し訳ございません⋯⋯。前例がなく、断定には至りませんでした」
アーヴィンは謝罪へ反応を示さない。
報告書をさらに読み進める。
戦闘経過、被害状況、結界の変化、調査隊の見解。
一枚、また一枚と頁をめくっていく。
やがて最後の頁へ辿り着くと、小さく口を開いた。
「⋯⋯覚醒、したな」
その一言だけだった。
しかし文官は、その言葉の重みを理解していた。
「宰相閣下も、そのようにお考えになりますか」
「数百年に渡る王宮結界樹の記録は全て読んでいる。だが、このような事例は存在しない」
アーヴィンは静かに立ち上がり、大きな窓の前まで歩き、王都を見下ろした。
城壁の向こうには広大な街並みが広がっている。
王国の中心、百万人を超える民が暮らす都——王都。
「結界樹は国家を守る存在だ」
独り言のような静かな声だった。
「一つの村だけを守る存在ではない」
文官は黙って耳を傾ける。
「覚醒した結界樹は、もはや国宝などという言葉では足りん」
アーヴィンは窓へ映る自らの姿を見つめる。
「国家最重要戦力だ」
静かな断定だった。
国家を預かる宰相として、この現状だけは看過できなかった。
覚醒した結界樹。
その管理が、人口数百人にも満たない小村へ委ねられている。
万一、再びあの規模の襲撃が起きたら。
万一、結界樹が何らかの理由で制御を失ったら。
万一、他国がその存在へ気付いたら。
その全てが、王国存亡の危機へ直結する。
アーヴィンは報告書を閉じた。
「ガイアス殿下は執務室か」
「はい」
「今も政務中でございます」
「そうか」
アーヴィンは報告書を手に取る。
「行くぞ」
「はっ」
執務室を出る。
静かな廊下を一定の歩幅で進み、やがて王太子執務室の前で足を止めた。
護衛騎士が扉を開く。
アーヴィンは一歩、部屋へ踏み入れた。
「殿下」
ガイアスが顔を上げる。
アーヴィンは報告書を静かに差し出した。
「結界樹を、王宮へ戻すべきです」
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