42話 セシリア・ノートン
私はフィルのお世話を終えると、昨日書きかけだった管理記録を机へ広げた。
「えーっと⋯⋯昨日は葉っぱの色が少し濃くて⋯⋯」
羽ペンを持ったまま首を傾げる。
「⋯⋯どのくらい濃かったんだろう」
困った⋯⋯。
見れば分かる。でも、それを文字にするのが難しい。
「魔力も多かった気がするし⋯⋯」
気がする、じゃ駄目だよね。うーん⋯⋯と悩んでいると。
「失礼いたします」
静かな声と共に扉が開いた。
「おはようございます、フローラ様」
「おはようございます、セシリアさん」
セシリアさんはいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべ、私の向かいへ腰を下ろす。
「管理記録ですか?」
「はい。でも⋯⋯」
書きかけの帳面を見せると、少し恥ずかしくなった。
「昔から、こんな感じで書いていたので⋯⋯」
セシリアさんは否定することなく、ゆっくりと帳面へ目を通す。
「⋯⋯なるほど」
「何か変でしょうか?」
「いいえ」
セシリアさんは優しく首を横へ振った。
「とても大切な記録です」
ほっと胸を撫で下ろす。
「ですが」
やっぱり続きがあった。
「もう少しだけ、他の方にも分かる書き方へ変えてみませんか?」
「他の方にも⋯⋯?」
「はい」
セシリアさんは新しい紙を取り出し、羽ペンを走らせ始める。
『葉色:濃緑(前日比、やや濃い)』
『樹皮:異常なし』
『魔力循環:安定』
『結界範囲:村全域(変化なし)』
「⋯⋯すごい」
思わず声が漏れた。
「同じ内容なのに、とても見やすいです」
「ありがとうございます」
セシリアさんは柔らかく微笑む。
「記録は、自分のためだけではありません。未来の誰かが読むためにも残すものです」
「未来⋯⋯」
「例えば10年後、あるいは100年後。その時の管理人が、この記録を読んでも同じ景色を思い浮かべられるように書くのです」
その言葉に、私ははっとした。
今までそんなこと、一度も考えたことがなかった。
お父さんへ報告するため。自分が忘れないため。そのくらいの気持ちで書いていた。
「だから、フローラ様の知識はとても貴重です。私は、それを誰でも読める形へ整えるお手伝いをしたいと思っています」
私は思わずセシリアさんを見る。
「私の知識を⋯⋯?」
「はい」
「決して書き直すのではありません。フローラ様の言葉を、未来へ残すためのお手伝いです」
胸の奥がじんわり温かくなった。
私が積み重ねてきたことは、無駄じゃなかったんだ。
「ありがとうございます、セシリアさん」
「こちらこそ」
セシリアさんは一礼する。
「これからよろしくお願いいたします」
セシリアさんとの会話が一段落すると、部屋の外から元気な声が聞こえてくる。
「フローラお姉ちゃん!」
リリィちゃんだった。
続いてノアくんの少し眠そうな声も聞こえる。
「⋯⋯お姉ちゃん、遊びに来た」
私は思わずセシリアさんを見る。
セシリアさんは優しく微笑みながら立ち上がった。
「では、今日からもう一つのお仕事を始めましょうか」
居間へ向かうと、リリィちゃんとノアくんが仲良く机へ座っていた。
「おはよう、フローラお姉ちゃん!」
「⋯⋯おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう、二人とも」
するとセシリアさんが優しく二人へ微笑みかける。
「あなたたちが、リリィさんとノアさんですね」
「うん!」
リリィちゃんは元気よく返事をする。一方、ノアくんは少しだけ首を傾げた。
「⋯⋯誰?」
「私はセシリア・ノートンと申します。本日から、みなさんのお勉強をお手伝いさせていただきます」
「お勉強?」
リリィちゃんとノアくんが顔を見合わせる。そこへ、ルークくんも勢いよく飛び込んできた。
「おはよー!」
部屋へ入るなり、セシリアさんを見て固まる。
「⋯⋯あ」
「ルークくん、おはよう」
「お、おはよう、フローラお姉ちゃん」
ルークくんは私へ挨拶を返すと、小声で尋ねてきた。
「この人も王都の人だよね?」
「うん。今日から村で一緒に暮らすんだよ」
「へぇー」
ルークくんは興味津々でセシリアさんを見る。
「じゃあ先生?」
セシリアさんは小さく頷いた。
「そうですね。みなさんがよければ」
「やった!」
リリィちゃんが嬉しそうに手を叩く。
「私、お勉強好き!」
「⋯⋯ぼくも」
ノアくんも静かに頷いた。
「えぇー⋯⋯」
一人だけ、ルークくんが肩を落とす。
「勉強かぁ⋯⋯」
「嫌いですか?」
セシリアさんが微笑みながら尋ねる。
「嫌い!」
即答だった。思わず私は吹き出してしまう。
「ルークくんらしいね」
「でも剣なら誰にも負けないぞ!」
胸を張るルークくんへ、セシリアさんは優しく問い掛ける。
「では質問です」
「うん?」
「騎士になるためには、剣だけでよいのでしょうか」
「え?」
「地図は読めますか?」
「うっ⋯⋯」
「魔物の特徴は覚えていますか?」
「えっと⋯⋯」
「報告書は書けますか?」
「⋯⋯⋯⋯」
ルークくんは見る見るうちに小さくなっていく。
セシリアさんは責めることなく、穏やかな声で続けた。
「レオン様も、剣だけでは近衛騎士にはなれませんでした。読み書きも、計算も、歴史も、戦術も⋯⋯。たくさん勉強されたはずです」
「兄ちゃんも⋯⋯?」
「はい」
ルークくんは驚いたように目を丸くした。
「レオン様は、とても努力家ですから」
しばらく黙っていたルークくんだったが、不意に拳を握る。
「⋯⋯じゃあ、俺もやる。兄ちゃんみたいな——立派な騎士になりたいもん」
その言葉に、セシリアさんは満足そうに微笑んだ。
「では、少しずつ始めましょう」
机へ紙を並べる。
文字を書く練習、簡単な計算、村の地図。
どれも遊びを交えながら進めていくので、子どもたちは楽しそうだ。
私も隣で見ているだけだったのに、いつの間にか一緒に問題を考えていた。
「あっ」
思わず間違える。
リリィちゃんがくすっと笑った。
「フローラお姉ちゃんも間違えた」
「えへへ⋯⋯」
少し照れていると、セシリアさんが優しく微笑む。
「大丈夫です。学ぶことに、年齢は関係ありません」
「フローラ様も、ご一緒に学んでいきましょう」
「⋯⋯はい!」
自然と笑顔で返事をしていた。
植物のことなら誰にも負けない。でも、それ以外はまだまだ知らないことばかり。そんな私を責める人は、この村には一人もいなかった。
みんなが支えてくれて、教えてくれる。だから私は、また一歩前へ進める。——そう思えた一日だった。
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