3話 お父さん
部屋へ戻ると、私は静かに扉を閉めた。
「⋯⋯⋯⋯」
急に静かになった部屋が、いつもより広く感じる。
ほんの数十分前まで、私は王宮結界樹管理人だった。なのに今は違う。すぐにでも、この部屋も出ていかなければならない。
「荷物、まとめなきゃ」
小さく呟き、部屋を見回す。
私物は驚くほど少なかった。服が数着と、本が何冊か。後はお気に入りのマグカップに、お父さんから譲り受けた園芸道具。
生活のほとんどをフィルのお世話に使ってきたからだろう。仕事以外で欲しい物なんて、あまり無かった。お給料は良かったが、殆ど懐に閉まっていたんだよな。強いて言えば、フィルも好きな焼き菓子を良く買ってたくらいかな。
「⋯⋯これくらいなら、すぐ終わるね」
荷物を鞄へ詰めていく。
すると、机の一番下の引き出しが目に入った。そういえば、ここはもう何年も開けていない。
私はしゃがみ込み、引き出しを開けた。
「——あ」
中には、小さな木箱が一つだけ入っていた。
見覚えがある。⋯⋯お父さんの形見だ。
お父さん——アルフレッド・リーフレットは、私の養父だ。20年前、森に捨てられていた私を拾い、養子として育ててくれた。私にとっては本当のお父さんだ。
しかし、すっかり存在を忘れていた。私は木箱を机へ置くと、そっと蓋を開ける。
中には古びた革手袋や、何度も使い込まれた剪定ばさみなんかが入っていて⋯⋯そして、一冊の分厚い管理日誌が入っていた。
「懐かしい⋯⋯」
革表紙をそっと撫でる。
子どもの頃、お父さんが毎日のように書いていた日誌だ。
ページを開くと、見慣れた字が並んでいた。
『本日も異常なし』
『虫を三匹駆除。特に危険な虫は無し』
『肥料の配合を少し変更』
どのページも仕事の記録ばかりだ。
それでも、読んでいるだけでお父さんの姿が目に浮かぶ。
毎日楽しそうに、フィルの親である先代結界樹とフィルのお世話をしていた。
その横を、小さな私が走り回っていた。
「ふふっ」
自然と笑みが零れた。
そういえばあの頃は、毎日お父さんに付いて歩いていたっけ。
————気付けば、昔の景色が頭の中へ広がっていた。
◆
「お父さーん!」
「こらこら、走ると転ぶぞ」
私は小さな足で王宮の庭を駆け回る。
お父さんは困ったように笑いながら、ゆっくり歩いていた。
傍には、大きな先代結界樹と、お父さんくらいの身長しかない頃のフィルが居た。
「フィルー!」
フィルの幹へ抱き付くと、フィルの葉っぱが嬉しそうに揺れた。
「ほら見て、お父さん!」
「おぉ、今日は随分機嫌が良いな」
「私が来たからだよ!」
「そうかもしれないな」
お父さんは笑った。
私は得意気になってフィルの葉っぱを撫でる。
「今日もいっぱい遊ぼうね!」
枝が揺れる。
返事をしてくれた——私は昔から、そう信じていた。誰に笑われても構わない。フィルはちゃんと返事をしてくれる。
嬉しい時や寂しい時、フィルはちゃんと気持ちを伝えてくれる。
だから私は毎日フィルへ話しかけた。
「今日ね、お父さんに褒められた!」
さわさわ。
「お勉強も頑張ったよ!」
さわさわ。
「でも計算は嫌い!」
ぶんぶん。
「あっ、今笑った!」
思わず笑い声を上げると、お父さんも肩を揺らして笑っていた。
「フィルもそう思ったんだろうな」
「でしょ!」
私は嬉しくなって、もう一度幹へ抱き付いた。
「フィル、大好き!」
葉っぱが、嬉しそうに何度も揺れていた。
お昼になると、お父さんがベンチへ座る。
「休憩にしようか」
「うん!」
籠の中から焼き菓子を取り出す。
王都で一番好きなお店のクッキーだった。
「いただきます!」
もぐっ。
「おいしい!」
「慌てて食べると喉に詰まるぞ」
「大丈夫!」
もう一枚食べようとして、ふとフィルを見る。
葉っぱがゆらゆら揺れている。
「⋯⋯フィルも食べたい?」
私は立ち上がると、クッキーを一枚持って幹へ近付いた。
「はい!」
もちろん食べられるはずなんてない。
そう思っていた、その時だった。
枝がゆっくり伸びてきて、私の手の上のクッキーをそっと包み込む。
「えっ」
そのまま枝は葉っぱの中へクッキーを隠してしまった。
今思うと、あれはあの後地面に落として栄養にしていたとか、そんなだと思うけど。フィルはフィルなりに一緒にクッキーを食べて楽しみたかったんだよね。
「お父さん!」
「はははっ」
驚く私とは対照的に、お父さんは楽しそうに笑っていた。
「また食べられたね」
「またって?」
「フィルは甘い物が好きなんだ」
「木なのに?」
「木だからかなぁ」
「変なの!」
私は声を上げて笑った。
それからというもの、焼き菓子を持ってくる度にフィルは枝を伸ばしてきた。
「また食べるの?」
さわさわ。
「食いしん坊!」
ぶんぶん。
「ふふっ」
毎日が楽しかった。
この時間がずっと続くと思っていた。
そんなある日だった。お父さんが私を呼ぶ。
「フローラ」
「なあに?」
お父さんはフィルを見上げながら、優しく笑う。
「フィルは寂しがり屋なんだ」
「うん」
「だから、一人にしちゃ駄目だよ」
「うん!」
「お父さんも、いつか歳を取る」
「⋯⋯うん」
「その時は、フローラがフィルを守ってあげてくれるか?」
私は迷わなかった。
「もちろん!」
胸を張って答える。
「私がフィルを守る!」
お父さんは嬉しそうに笑って、私の頭を優しく撫でた。
「ありがとう」
その温もりは、今でも覚えている。
◆
「⋯⋯⋯⋯」
気が付くと、私は管理日誌を抱き締めていた。
胸の奥が、じんわり熱くなった。
「約束⋯⋯したのにな」
フィルを守る。
あの日、お父さんと約束した。
でも⋯⋯。私は今日、フィルの側を離れなければならない。また涙が滲みそうになり、私は慌てて目を擦った。
「泣いてる場合じゃない」
私は管理日誌を閉じる。
その時、一枚の紙が日誌の最後からはらりと落ちた。
「⋯⋯?」
拾い上げる。
お父さんの字だった。
『困った時は、リーヴェ村を訪ねなさい。』
『村長のロイド・バークは、お父さんの大切な友人だ。』
『事情を話せば、きっと力になってくれる。』
「リーヴェ村⋯⋯」
聞いたことがない村だった。
でも、王宮を出た私には、もう帰る家がない。頼れる人もいない。家も家族も、ここにしか無かったからだ。
「⋯⋯行ってみよう」
それしか思い付かなかった。
私は管理日誌を大事に鞄へしまい、荷物を持つ。
フィルに会いたい。最後に一言だけでも。
そう思って扉へ手を掛ける。
⋯⋯駄目だ。
速やかに王宮を退去しろ。そう最後に受けた命令が頭をよぎる。今さら我儘なんて言えない。私は静かに手を下ろした。
「ごめんね、フィル」
小さく呟く。
その声が届くことはない。
私は一度だけ部屋を振り返ると、そのまま王宮を後にした。
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