38話 新しい日常
頬へ柔らかな風が触れる。
どこか懐かしい葉擦れの音が耳へ届き、私はゆっくりと瞼を開いた。
ぼやけた視界の向こう。
一番最初に目へ飛び込んできたのは、一本の枝だった。
「⋯⋯フィル」
私が名前を呼ぶと、枝葉が大きく揺れる。
嬉しそうに、安心したように。枝はいつものように私の頭を優しく撫でてくれた。
「⋯⋯ただいま」
思わずそんな言葉が口から零れる。
フィルは待ってましたと言わんばかりに枝葉をぶんぶんと揺らした。
その様子がおかしくて、私は思わず笑ってしまう。
「ふふっ⋯⋯そんなに心配してくれてたの?」
勢いよく枝が上下する。どうやら大正解らしい。
「ごめんね」
私はそっと枝を握る。
「心配掛けちゃったね」
すると、フィルはまるで「もういいよ」と言うように、もう一度だけ頭を撫でてくれた。
その温もりに胸がじんわりと温かくなる。
ああ、本当に終わったんだ。
そう思った瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。
「フローラ様!」
駆け込んできたのはレオンさんだった。
私が目を覚ました姿を見るなり、その表情がほっと緩む。
「良かった⋯⋯」
その一言には、心から安心した気持ちが込められていた。
「レオンさん⋯⋯!」
「お加減はいかがですか?」
「えっと⋯⋯まだ少し身体が重いです」
「無理はなさらないでください」
レオンさんがそう言ったところで、後ろからマーサさんが部屋へ入ってきた。
「お、起きたかい」
「マーサさん」
「目覚めないから、みんな心配したんだよ」
「私、どれくらい寝てました?」
「丸一日は寝てたねぇ」
「えっ!?」
驚いて飛び起きようとした瞬間、身体から力が抜け、そのまま布団へ逆戻りしてしまう。
「あいたっ⋯⋯」
「だから無理するんじゃないよ」
マーサさんは苦笑しながら私の額へ手を当てる。
「熱もないね。魔力も少しずつ戻ってきてる」
「ごめんなさい⋯⋯」
「謝ることじゃないさ」
マーサさんは優しく笑った。
「お前さんが無茶したから村が助かったんだ。むしろ感謝される側だよ」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。
私は何も出来ないと思っていた。でも、少しは役に立てたんだ。
そう思えた。
思ったのも束の間。部屋の外から、何やら慌ただしい足音が聞こえてくる。
「フローラお姉ちゃん起きた!?」
「ほんと!?」
「やったー!」
次の瞬間、リリィちゃん達が勢いよく部屋へ飛び込んできた。
「フローラお姉ちゃん!」
リリィちゃんはそのまま私へ抱き付こうとして——
「こらこら!」
マーサさんに首根っこを掴まれた。
「まだ病人だよ!」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
リリィちゃんは慌てて頭を下げる。
その後ろではルーク君とノア君も、ほっとしたように笑っていた。
「起きてよかった!心配したよー!」
ノア君も小さく頷く。
「⋯⋯よかった」
三人の顔を見ていると、自然と笑みがこぼれた。
⋯⋯というか、こんな小さな子供に心配される私って、一体⋯⋯。
「ありがとう。みんな心配してくれたんだね」
「もちろん!」
リリィちゃんは胸を張る。
「フィルなんてね!」
そう言って窓の外を指差す。
見るとフィルは家のすぐ横に根を下ろしたまま、一本の枝をずっと窓から部屋の中へ伸ばしていた。
「フローラお姉ちゃんが寝てる間、ずーっとここにいたんだよ!」
「一回も動かなかったぞ」
「ごはんもほとんど食べてなかった」
私は驚いてフィルを見つめる。
「⋯⋯そうだったの?」
枝葉が少しだけ揺れる。照れているのだろうか。
「もう⋯⋯」
私は窓際まで歩き、そっと幹へ触れた。
「今度は私が心配する番じゃない」
フィルは嬉しそうに枝葉を揺らし、また私の頭を優しく撫でた。
その様子を見ていたみんなから、小さな笑い声が零れる。
部屋の中には、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
◆
それから数日が過ぎた。
私の体調もすっかり回復し、いつものようにフィルのお世話を再開していた。
「はい、お水だよ」
根元へ水を撒くと、フィルは嬉しそうに枝葉を揺らす。
「ふふっ。元気そうだね」
戦いで折れてしまった枝へ目を向ける。
あの日芽吹いた小さな新芽は、少しだけ大きくなっていた。
まだ枝と呼ぶには幼い。
それでも確かに前へ進んでいる。私はそっと新芽へ触れた。
「ゆっくりでいいからね」
焦らなくていい。私も一緒だから。
そんな気持ちを込めて撫でると、フィルは少し照れたように葉っぱを揺らした。
「さて、お仕事頑張ろうか」
私は立ち上がり、村の中を歩き始める。
壊れていた防壁は、ほとんど修復されていた。ガストンさんが大きな丸太を担ぎ上げる。
「おーい! そっち支えてくれ!」
「はい!」
返事をしたのは近衛騎士さん達だった。
鎧姿のまま丸太を運び、村人達と一緒に汗を流している。
今回の防衛戦を通じ、すっかり仲間意識が芽生えた近衛騎士さん達は、復興作業があるのもあるが、当たり前のように村に常駐し始めていた。
「騎士様達がいると仕事が早いな!」
ガストンさんが豪快に笑う。
「ガストンさんほどではありません」
「何言ってんだ!俺ぁ二本しか運べねぇが、お前ら四本持ってるじゃねぇか!」
周囲から笑いが起きる。
もう村人も近衛騎士さん達を特別扱いしていない。
自然と一緒に働き、一緒に笑っていた。
少し歩くと、ボルドさんの工房から金槌の音が聞こえてくる。
「よぉ、フローラ。元気そうだな」
「こんにちは!」
「見てみろ」
ボルドさんはぶっきらぼうに——しかし嬉しそうに、新しい鍬を見せてくれた。
「戦いで壊れた農具は全部作り直しだ」
「大変ですね」
「ふん。何言ってんだ」
ボルドさんは笑う。
「壊れたってことは、みんな生きて帰ってきたってことだ。それなら何本作ったって大変じゃねえさ」
その笑顔に、私も自然と笑顔になる。
広場ではベイク夫妻が大きな鍋をかき混ぜていた。
「今日のお昼はシチューだよー!いっぱい食べてね!」
その匂いに誘われた子供達が一斉に集まってくる。
リリィちゃん達もその中にいた。
「あっ!フローラお姉ちゃん!フィルにお水あげるの終わったの?」
「うん!」
「じゃあ一緒に遊ぼ!」
元気いっぱいな笑顔。
その姿を見ているだけで、胸が温かくなる。
村は元の姿へ戻りつつあった。戦いの傷跡はまだ残っている。
それでも、笑顔は確実に増えている。
私はフィルを振り返る。黄金色の結界はもう見えない。
でも、村全体がどこか以前より活気に満ちているような気がした。
ふと足元を見る。
「あれ?」
季節外れの小さな花が咲いている。
一輪だけじゃない。
気が付けば道端のあちこちに、小さな花が顔を出していた。
「綺麗⋯⋯」
しゃがみ込んで眺めていると、後ろからディーンさんが歩いてきた。
「気付いたか」
「はい。この時期に咲く花でしたっけ?」
「いや」
ディーンさんは森の方へ視線を向ける。
「森も同じだ」
「同じ?」
「木も草も、全部元気になってる」
言われてみれば、森の木々は以前より葉の色が濃く、生き生きとしているように見える。
「戦いで疲れたはずなのに、不思議ですね」
「たぶん」
ディーンさんは小さく笑った。
「フィルが森まで元気にしちまったんだろ」
私はフィルを見上げる。
「そうなの?」
枝葉が少しだけ揺れる。
どこか照れくさそうなその仕草に、思わず笑みがこぼれた。
「ありがとう」
その一言に応えるように、フィルは嬉しそうに枝葉を揺らしていた。
◆
その日の夕方。
村の広場には、村人全員が集まっていた。
戦いを乗り越えた祝いも兼ねて、小さな宴が開かれることになったのだ。
ベイク夫妻が作った料理が並び、子ども達は広場を元気いっぱいに走り回る。
笑い声が絶えない。
つい数日前まで魔物の大群と戦っていたとは思えないほど、穏やかな時間が流れていた。
やがてロイドさんが立ち上がる。
「みんな、少しいいか」
広場が静まり返る。
ロイドさんはゆっくりとレオンさんの方を向いた。
「今回、この村がこうして笑っていられるのは、誰のおかげか」
村人達も自然とレオンさんを見る。
「もちろん、誰か一人のおかげじゃない」
ロイドさんは笑う。
「村のみんなが戦った。フィルも戦った。フローラちゃんも命懸けだった。近衛騎士の皆さんも最後まで戦い抜いてくれた」
そして。
「その中心に居たのは、あんただ」
レオンさんは目を見開いた後、静かに首を横へ振る。
「俺だけでは——」
「分かってる」
ロイドさんはその言葉を遮った。
「だからこそだ」
一歩、レオンさんの前まで歩く。
「近衛騎士団長としてじゃない。レオンという一人の男として聞きたい」
広場が静まり返る。
「これからも、この村で一緒に暮らしてくれないか」
一瞬だけ沈黙が流れた。
レオンさんは驚いたように周りを見渡す。村人達は皆、笑顔だった。
ガストンさんが腕を組む。
「断る理由なんて無ぇだろ?」
「そうそう!」
「家ならいくらでも直してやる」
「お兄ちゃん、このまま村にいてよ!」
レオンさんは少しだけ困ったように笑った。
そして深く頭を下げる。
「⋯⋯ありがとうございます。未熟者ですが、これからもよろしくお願いいたします」
その瞬間、大きな拍手が広場を包んだ。
近衛騎士さん達も嬉しそうに笑っている。
「隊長、おめでとうございます!」
「これで本当に村人ですね」
「お前達まで⋯⋯」
レオンさんは照れくさそうだった。
その姿を見て、私も思わず笑ってしまう。
宴は夜まで続いた。
子ども達は遊び疲れて眠り、大人達も少しずつ家へ帰っていく。
広場に残ったのは、私とレオンさん、それからフィルだけだった。
夕焼けはいつの間にか星空へ変わっている。
「今日は楽しかったですね」
私がそう言うと、レオンさんも穏やかに頷いた。
「はい」
「王宮では、こんな賑やかな宴はありませんでした」
「そうなんですか?」
「ええ」
レオンさんは夜空を見上げる。
「みんなが自然に笑っている光景は⋯⋯とても良いものですね」
私は少しだけ照れながら笑う。
「リーヴェ村の自慢なんです」
しばらく二人でフィルを見上げる。
風が優しく吹き抜け、枝葉が心地よい音を立てた。
「レオンさん」
「はい」
「改めて⋯⋯ありがとうございました。命を懸けて、この村を守ってくださって」
レオンさんは少しだけ目を丸くする。
そして優しく微笑んだ。
「こちらこそです。俺も守られました」
「え?」
「フローラ様とフィル様がいなければ、この村は守れませんでした」
その言葉に胸が温かくなる。
私は少しだけ照れながら笑った。
「それなら⋯⋯お互い様ですね」
「そうですね」
二人で顔を見合わせる。なんだか照れ臭くて、二人とも笑みが零れた。
その時だった。
フィルが一本の枝を私の肩へ、もう一本をレオンさんの肩へそっと乗せる。
私とレオンさんは同時にフィルを見る。
「ふふっ」
「どうしました?」
「なんだか⋯⋯フィルが喜んでるみたいで」
レオンさんも少しだけ笑う。
「そうですね。俺まで歓迎していただけたようです」
ぶわっ。
フィルが勢いよく枝葉を揺らした。
「ふふっ。本当に分かりやすいね」
私が笑うと、レオンさんも小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間。胸が少しだけ高鳴る。
どうしてだろう。
その理由は、まだ自分でも分からなかった。
だけど——この人となら。
これから先も、一緒に笑っていられる気がした。
◆
誰も足を踏み入れない、深い森。
静寂だけが支配するその場所へ、黒い靄が一つ、また一つと集まってくる。
魔物達の亡骸から立ち昇った、不気味な魔力。
それらは一か所へ吸い寄せられるように集まり、一人のローブ姿の人物の足元で静かに消えていった。
顔は見えない。
年齢も、性別も分からない。
やがて最後の靄が消えると、その人物は小さく呟く。
「⋯⋯目覚め始めたか」
その声は森の闇へ溶けるように消えていく。
まだ誰も知らない。
この小さな村で起きた奇跡が、やがて世界を大きく動かすことになることを。
今回で 第一章:根を下ろす場所 完結です!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
第二章でまたお会いしましょう!
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