37話 勝利と小さな違和感
「フローラ様!」
私の身体が崩れ落ちるのと同時に、レオンさんが駆け寄ってきた。
その声は聞こえた気がした。でも、返事をする力はもう残っていなかった。
瞼が重い。
身体から力が抜けていく。
最後に感じたのは、フィルの枝が優しく私へ伸びてくる温もりだった。
◆
「⋯⋯魔力切れだね」
マーサはフローラの手首へ触れたまま、小さく頷いた。
「命に別状はないよ。魔力を一気に使い過ぎたんだ。ゆっくり休ませれば目を覚ますさ」
その言葉を聞き、村のみんなが一斉に安堵の息を漏らした。
レオンも胸を撫で下ろす。
「良かった⋯⋯」
戦場では一切見せなかった表情だった。
フィルも安心したのか、枝葉を小さく揺らす。それでも心配なのだろう。
一本の枝を家の窓からそっと差し入れ、眠るフローラの頭へ優しく添えた。何事もなかったかのように、ゆっくりと頭を撫でる。
「本当に仲の良い家族だねぇ」
マーサは微笑む。
その光景を見た村人達も、自然と笑みを浮かべていた。
ロイドは一度大きく息を吐くと、すぐに表情を引き締める。
「まだ終わっちゃいない」
村長の一言で、その場の空気が変わる。
「魔物が退いたとはいえ、警戒は必要だ。防壁も壊れたままだし、負傷者も多い」
レオンは静かに頷いた。
「警戒は近衛騎士が担当します」
後ろに控えていた騎士達も姿勢を正す。
「夜通し村の周囲を巡回します」
「交代で見張りを続けましょう」
全員が疲労困憊だった。
鎧は傷だらけ。包帯を巻いたまま剣を握る騎士もいる。それでも誰一人として休むとは言わなかった。
「すまない」
ロイドが深く頭を下げる。
「皆さんのおかげで村は守られた」
レオンは静かに首を横へ振った。
「俺達だけでは守れませんでした」
その視線は、ガストンやボルド、ディーン、マーサ達へ向く。
「皆さんが最後まで戦い抜いてくださったからです」
ガストンは照れくさそうに頭を掻いた。
「そんな改まって言われると困るな」
「俺ぁ自分の村を守っただけだ」
ボルドも腕を組んで頷く。
「鍛冶屋が武器を作るのは当然だ」
「飯を食わせるのも当然さ」
少し離れた場所では、ベイク夫妻が早くも大鍋へ火を掛け始めていた。
「みんなお腹空いてるだろうしね。温かいものを食べれば元気も出るよ」
その言葉に、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
戦いは終わった。だけど、傷付いた村を元へ戻すには、まだ時間が必要だった。
レオンは静かにフローラの眠る家を見つめる。
窓から伸びたフィルの枝は、今も優しくフローラの頭を撫で続けていた。
「⋯⋯お疲れ様でした」
誰へ向けた言葉だったのか。
フローラへ。フィルへ。あるいは、この村で戦った全員へ。
レオンは小さく微笑むと、再び剣を腰へ差した。
「では、行きましょう」
近衛騎士達が頷く。
戦いは終わっても、騎士の務めは終わらない。
静まり返った森を見据えながら、一行はゆっくりと村の外へ歩き出した。
◆
日が傾き始める頃には、村の復旧作業も少しずつ落ち着き始めていた。
壊れた防壁には新しい丸太が運ばれ、倒れた柵も一つずつ立て直されていく。
近衛騎士達も鎧を着たまま作業を手伝っていた。
「そこ、もう少し右だ!」
「はい!」
ガストンの掛け声に合わせ、騎士達が丸太を持ち上げる。
「さすが騎士様だ!力があるな!」
「ガストンさんには敵いませんよ」
思わず笑いが起きる。
つい数時間前まで命を懸けて戦っていたとは思えないほど、村には少しずつ穏やかな空気が戻り始めていた。
その頃。ディーンは一人、森の中を歩いていた。
弓を背負い、辺りを静かに見回す。魔物が本当に退いたのか。森に異変が残っていないか。
それを確かめるためだった。
「⋯⋯静かだな」
あれほど暴れていた魔物達の気配は、もうどこにもない。
聞こえるのは風が葉を揺らす音と、小鳥のさえずりだけ。
まるで何事も無かったかのようだった。ふと、ディーンは足を止める。
足元には、討伐されたオークが横たわっていた。
「悪く思うなよ」
小さく呟き、その亡骸を見下ろす。
その時だった。
「⋯⋯ん?」
オークの身体から、黒い靄のようなものがゆっくりと立ち上った。
煙にも、魔力にも見える。靄は風に乗ることなく、意思を持つように空へ昇っていく。
「何だ⋯⋯?」
ディーンは眉をひそめる。
目を凝らしているうちに、その靄は空気へ溶け込むように消えてしまった。
幻だったのか?——そう思った時。
「ディー坊。見えたかい」
後ろから声が掛かった。
振り返ると、薬籠を持ったマーサが立っていた。
「マーサさん⋯⋯ディー坊は止めてくれ。俺も父親なんだ」
「ハッ。アタシからすりゃ、ディー坊もルー坊もガキンチョさね」
「⋯⋯はぁ、まぁ良い。それで、マーサさんも見たか?」
「⋯⋯あぁ」
マーサは、オークの亡骸を見下ろす。
「昔は、こんなもの見たこと無かったよ」
「⋯⋯やはりか」
「何十年もこの森を見てきたけど、魔物を倒してこんな靄が出たことなんて一度も無いさ」
ディーンは腕を組む。
「俺も初めて見た」
森で生きてきた自分ですら知らない現象。
それが妙に胸へ引っ掛かる。
「何かの病気かねぇ」
「いや⋯⋯違う気がする」
説明はできない。
だけど、胸騒ぎだけは消えなかった。そこへ、森の見回りを終えたレオンが歩いてくる。
「何かありましたか?」
ディーンは一瞬迷い、空を見上げた。
もう黒い靄はどこにも無い。
「⋯⋯いや」
小さく首を横へ振る。
「気のせいかもしれねぇ」
レオンも倒れたオークを一瞥する。
「異常は見当たりませんね」
「そうだな」
ディーンは短く答えた。
けれど。森で暮らしてきた勘が、静かに警鐘を鳴らしていた。これは終わりじゃない。何かが始まっている。
そんな気がしてならなかった。
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