36話 結界樹の奇跡
フィルの幹へ両手を当てたまま、私は魔力を送り続けていた。
身体は重く、視界も少し霞んでいる。それでも手だけは離さなかった。
「まだ⋯⋯大丈夫」
自分へ言い聞かせるように呟く。
フィルもまた、静かに枝葉を揺らした。
私の魔力とフィルの魔力。二つの流れが幹の中で重なり合い、ゆっくりと巡っていくのが分かる。
こんな感覚は初めてだった。
まるで私自身が、フィルの一部になったような、不思議な感覚。
その時だった。
フィルの幹の奥から、今まで感じたことのない温かな魔力が溢れ出す。
「⋯⋯え?」
私は目を開いた。
枝先に付いた一枚の葉が、淡く黄金色へ染まっている。
今度は見間違いじゃない。
その輝きは少しずつ周囲へ広がり、二枚、三枚と黄金色の葉が増えていく。
「フィル⋯⋯?」
返事をするように枝葉が大きく揺れた。
その瞬間、村中へ優しい風が吹き抜ける。風は温かく、どこか懐かしい。頬を撫でられた瞬間、身体の疲れが少しだけ軽くなった気がした。
異変に気付いたのは私だけじゃない。
「この風⋯⋯」
マーサさんが思わず空を見上げる。
ガストンさんも丸太を支えたまま目を丸くした。
「なんだ?」
ディーンさんは木の上から森を見渡している。
レオンさんも剣を構えたまま、ほんの一瞬だけこちらを振り返った。
フィルの黄金色の輝きは止まらない。
幹から枝へ。枝から葉へ。そして、村全体を包む結界までもが、半透明の緑色から、淡い黄金色へ変わり始めた。
「結界の色が⋯⋯」
私は思わず息を呑む。
こんな結界、見たことがない。管理人として教わった記録にも載っていなかった。
黄金色へ染まった結界は、ゆっくりと空へ広がっていく。
村の外れまでだった結界は、そのまま森の中へ。
さらに奥へ。
木々を包み込みながら、どこまでも広がっていった。
「そんな⋯⋯」
結界の範囲が広がっている。
いや、それだけじゃない。森の木々が、一斉に枝葉を揺らし始めた。
風は吹いていない。それなのに、一本。また一本。まるで誰かへ応えるように、森中の植物が揺れている。
私はその光景から目を離せなかった。ずっと一緒に居た私だから分かる。フィルが命令してるわけじゃない。これは——応えているんだ。
フィルの想いに。
家族を守りたい。この村を守りたい。その願いへ、森そのものが応え始めている。
ディーンさんが驚いた声を上げた。
「森が⋯⋯動いている⋯⋯?」
森の奥。
巨大な木々の根がゆっくりと地面を押し上げる。
無数の蔦が土の中から姿を現し、草花までもが一斉に魔物達の足元へ伸びていく。
その光景は、まるで森全体が一つの生き物になったようだった。
私はフィルの幹へ額を預け、小さく微笑む。
「ありがとう。一緒に守ろう」
その言葉へ応えるように、フィルは今までで一番大きく枝葉を揺らした。
黄金色へ染まった結界から、柔らかな光が村中へ降り注ぐ。
「⋯⋯あれ?」
近衛騎士さんの一人が、自分の腕を見つめた。
先ほどまで血が流れていた傷口が、ゆっくりと塞がっていく。
「傷が⋯⋯」
隣で戦っていた騎士さんも目を見開く。
「身体まで軽い⋯⋯!」
重くなっていた腕が動く。乱れていた呼吸が整う。
尽きかけていた力が、身体の奥から少しずつ湧き上がってきた。
「隊長!」
その声へ応えるように、レオンさんも静かに剣を握り直す。
肩の傷は残っている。疲労も消えてはいない。
それでも、さっきまで鉛のように重かった身体が嘘のようだった。
「フィル様⋯⋯いえ」
レオンさんは結界の中心を見つめる。フィルへ寄り添う、小さな背中。
「フローラ様も⋯⋯」
二人の想いが、この奇跡を起こしている。そう確信した。
「まだ戦える⋯⋯!」
レオンさんは剣を構え直す。
「全員、反撃の時間だ!」
「はっ!」
近衛騎士さん達の返事には、先ほどまでとは違う力強さが宿っていた。
一方、魔物達には異変が起きていた。
走っていたウルフの足が急に鈍る。
ゴブリンは武器を握る手に力が入らず、苛立ったような叫び声を上げる。
オークでさえ、棍棒を振り上げる動きが明らかに遅くなっていた。
「効いてる⋯⋯!」
ディーンさんは木の上からその変化を見逃さなかった。
すぐに弓を引き絞る。
「今なら落とせる!」
放たれた矢は一直線に空を裂き、ジャイアントクロウへ騎乗していたゴブリンを射抜く。
騎手を失ったジャイアントクロウは大きく体勢を崩した。
近くの木の枝が大きくしなり、その翼を絡め取る。
「⋯⋯!」
ジャイアントクロウは必死にもがく。しかし、さらに別の枝。そのまた別の枝。森中の木々が一斉に翼を捕らえ、そのまま地面へ叩き落とした。
「森が⋯⋯」
ディーンさんは思わず笑みを浮かべる。
「そうか⋯⋯。お前らも、一緒に戦ってくれるんだな」
地上でも同じだった。
オークが前へ踏み出そうとした瞬間、足元から太い根が飛び出す。
その巨体を絡め取り、地面へ縫い止めた。
「今だ!」
ガストンさんは丸太を思い切り押し出す。
勢いよく転がった丸太が、動けなくなったオークをまとめて吹き飛ばした。
「助かったぜ!」
ガストンさんは豪快に笑う。
蔦はゴブリン達にも容赦なく巻き付き、その動きを封じていく。
村人の大人たちはその隙を逃さず、一体、また一体と確実に討ち取っていった。
それは命令された動きではない。しかし、この森に生きる植物達すべてが、自らの意思でフィルへ応えていた。
村を守りたいという願いは、もうフィルだけの願いではなかった。
レオンさんは深く息を吸い込み、正面のオーガを見据えた。
残る魔物達の中でも、一際大きな体躯。
巨大な戦斧を握り締め、その赤黒い瞳がレオンさんを睨み付けている。
互いに一歩も動かない。
先に動いたのはオーガだった。怒号と共に戦斧が振り下ろされる。その一撃は大地を砕き、土砂を巻き上げた。
しかし、レオンさんの姿はそこにはない。
既に懐へ潜り込んでいた。鋭い斬撃が脇腹を裂く。
それでもオーガは怯まない。巨腕を振り回し、レオンさんを吹き飛ばそうとする。だが————オーガの足へ一本の蔦が絡み付いた。
ほんの一瞬。たったそれだけ体勢が崩れる。
レオンさんはその隙を見逃さなかった。
「⋯⋯ありがとう」
誰へ向けた言葉だったのか、私には分からない。フィルか、森か。あるいは、この村のみんなか。
レオンさんは剣を両手で握り締める。
「これで⋯⋯終わりだぁぁぁぁぁ!」
渾身の一撃。
銀色の軌跡が空を裂き、オーガの胸を深く貫いた。
巨体が大きく揺れる。
そして、そのまま音を立てて倒れた。
それが最後のオーガだった。
村には、数百のゴブリン、100近いウルフとジャイアントクロウ、70を超えたオーク、そして約30体ほどのオーガ。それら全てが倒れていた。
静寂が訪れる。
さっきまで戦場だったとは思えないほど、村は静かだった。
誰もが辺りを見回す。
信じられない。本当に終わったのか。
その沈黙を破ったのは、ロイドさんだった。
「⋯⋯勝った」
その一言に、村中の空気が弾ける。
「勝ったぞー!」
「助かった!」
「生きてる!」
歓声が村中へ響き渡った。
近衛騎士さん達も剣を下ろし、大きく息を吐く。
ディーンさんは木から飛び降りると、フィルを見上げて帽子を軽く持ち上げた。
「ありがとな」
ガストンさんは豪快に笑いながら丸太へ腰を下ろす。
「腰が抜けそうだ!」
「あとで診てあげるから待ちな!」
マーサさんはそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
私はゆっくりとフィルへ近付く。
黄金色だった結界は、少しずつ元の柔らかな緑色へ戻り始めていた。
フィルも疲れたのだろう。
枝葉の揺れは、とても穏やかだった。
「フィル」
私は幹へそっと手を添える。
「お疲れさま」
その一言に応えるように、一本の枝が私の頭を優しく撫でた。
その動きは、いつもと何も変わらない。私は思わず笑みを浮かべる。
「ふふっ⋯⋯本当に頑張ったね」
何気なく折れた枝のあった場所へ目を向ける。
「あっ⋯⋯」
そこには、小さな新芽が顔を覗かせていた。
まだ指先ほどしかない、小さな命。だけど確かに、未来へ向かって芽吹いている。
「良かった⋯⋯」
安堵と嬉しさが込み上げ、涙が零れる。
フィルは少し照れくさそうに枝葉を揺らすと、もう一度だけ私の頭を優しく撫でてくれた。
私はその温もりを感じながら、静かに空を見上げる。
どこまでも澄み渡る青空が、リーヴェ村を優しく包み込んでいた。
⋯⋯と。
ここまでで私の意識は途切れた。
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