30話 眠れない夜
襲撃を退けたあと、リーヴェ村には重い空気が残っていた。
勝った。誰も命を落とさなかった。フィルの結界も村を守り切ってくれた。
それなのに、村人達の顔に明るい笑顔は戻っていない。オーク2体とオーガ1体。
あの巨体が村へ迫ってくる光景は、きっと誰の目にも焼き付いてしまったのだと思う。
「はい、次はこっち」
マーサさんはロイドさんの家で、怪我をした村人達の手当てをしていた。
幸い、大きな怪我をした人はいない。ほとんどが転んだ時の擦り傷や、倒木を運ぶ時にできた切り傷だ。
それでも、マーサさんの表情はいつもよりずっと険しかった。
「レオンさんも、腕を見せてください」
「俺は大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、あたしが決めるんだよ」
マーサさんに睨まれ、レオンさんは静かに腕を差し出した。
袖が少し裂けている。よく見ると、腕には浅い切り傷があった。
「⋯⋯怪我してるじゃないですか」
「掠っただけです」
「それを怪我って言うんです!」
思わず声が強くなってしまった。レオンさんは少し驚いたように私を見る。
「申し訳ありません」
「謝らないでください。心配してるんです」
「⋯⋯はい」
レオンさんは小さく頷いた。
マーサさんが手早く薬を塗り、包帯を巻く。
「無茶しすぎるんじゃないよ」
「気を付けます」
「本当かねぇ」
マーサさんは疑わしそうに目を細めた。
私は何も言えなかった。
今日、レオンさんが前に出てくれなければ、村は守れなかった。ディーンさんが矢で援護してくれなければ、オーガは倒せなかった。フィルが結界を張ってくれなければ、子ども達も村人達も危なかった。
みんながそれぞれ役割を果たしたから勝てた。
だからこそ、怖かった。誰か一人でも欠けていたら、どうなっていたのだろう、と。
————夜になっても、村は落ち着かなかった。
ロイドさんは地図を広げ、ディーンさんとレオンさんは森の位置や村の入口を確認している。
ガストンさんとボルドさんは壊れた防壁を直す相談をしていた。
ベイク夫妻は避難している子ども達へ温かいスープを配っている。
誰も大きな声では話さない。けれど、誰も休もうとはしなかった。
私はフィルのもとへ向かった。
「フィル」
幹へ手を当てる。
いつもならすぐに枝が伸びてきて、私の頭を撫でてくれる。でも今日は、反応が少し遅かった。
弱々しく枝が揺れる。
「疲れたよね」
フィルは一日中、村全体を覆う結界を維持してくれていた。
枝は折れていない。幹にも傷はない。だけど、葉の色がいつもより少し薄い。力を使いすぎたのかもしれない。本来、国を守る結界は地面に張り巡らされている魔術経路を使っているため、フィルの疲労は少ない。今回はそういった下地が無い状況で結界を張っていたため、はるかに疲れているのだろう。
「ごめんね。たくさん頑張らせちゃって」
幹を撫でると、フィルは小さく枝葉を揺らした。まるで「大丈夫」と言っているみたいだった。
「大丈夫じゃないでしょ」
私は苦笑する。
「フィルはすぐそうやって我慢するんだから」
さわさわ。
「してないって?」
さわっ。
「嘘だぁ」
少しだけ笑えた。
フィルと話していると、不安が少しだけ軽くなる。でも、森の方を見ると、胸の奥がまた重くなった。
今日の魔物達は、普通じゃなかった。
ウルフに乗ったゴブリン。
空から襲ってくるジャイアントクロウ。
防壁を壊すオーク。
そして、あのオーガ。
あんなものがまた来たら。もっとたくさん来たら。⋯⋯考えたくないのに、頭から離れない。
◆
夜更け。
ロイドさんの家に戻っても、私は眠れなかった。
布団の中で目を閉じても、オーガの咆哮が耳の奥に残っている。レオンさんが斧を避けた瞬間、ディーンさんの矢が弾かれた音、フィルの結界が淡く揺れた光景。そういったものを何度も思い出してしまう。
私はそっと布団を抜け出し、外へ出た。夜風が頬を撫でる。村は静かだった。
でも、完全に眠っているわけではない。
家の明かりはいくつか残っていて、遠くでは近衛騎士さん達が外周を見回っている。
フィルも眠っていなかった。
夜空を見上げるのではなく、森の方をじっと見つめている。
「フィルも眠れないの?」
幹へ寄り掛かる。フィルはそっと枝を伸ばし、私の肩へ添えた。
「怖いね」
声に出すと、胸の奥にあったものが少しだけ形になった。
「私、怖い」
誰にも聞かれないように、小さく呟く。
「また魔物が来たらどうしよう。誰かが怪我をしたらどうしよう。レオンさんやディーンさんが戻ってこなかったら⋯⋯」
言葉にした瞬間、喉が詰まる。フィルの枝が私を包むように寄り添ってくれた。
「ごめんね。私が不安がってたら駄目だよね」
「そんなことはありません」
振り返ると、レオンさんが立っていた。
鎧は外していない。夜警の途中なのだろう。
「レオンさん⋯⋯」
「眠れないのですか」
「はい。少しだけ」
「俺もです」
レオンさんは私の隣まで歩いてくる。
フィルが枝を少しだけ動かし、レオンさんのために場所を空けた。
「ありがとうございます」
レオンさんはフィルへ軽く頭を下げる。その姿を見て、少しだけ笑ってしまった。
「フィル、気が利くね」
フィルは得意そうに枝葉を揺らした。レオンさんは森へ視線を向ける。
「今日の襲撃は、普通ではありませんでした」
「やっぱり、そうなんですか」
「はい。魔物の種類が多すぎます。あれほど違う種が、同じ方向へまとまって進むことは通常ありません」
「⋯⋯誰かが操っているんでしょうか?」
「⋯⋯分かりません」
レオンさんは正直に首を横へ振った。
「ですが、偶然とは考えにくい」
私は両手を握り締める。
「また、来ますか?」
「来ると思います」
迷いのない答えだった。
怖い。でも、嘘をつかれなかったことに少しだけ安心した。
「フローラ様」
「はい」
「必ず守ります」
レオンさんは真っ直ぐ私を見る。
「貴女も、フィル様も、この村も」
その言葉は、きっと私を安心させるためのものだ。
だけど、レオンさんの腕には今日の傷がある。包帯を巻いたばかりの傷だ。
「⋯⋯無茶はしないでください」
「はい」
「本当にですよ」
「はい」
「約束です」
レオンさんは少しだけ目を細めた。
「約束します」
私はようやく小さく頷いた。
レオンさんはもう一度森を見てから、静かに言う。
「俺は巡回へ戻ります。フローラ様も、少しでも休んでください」
「はい」
「フィル様、フローラ様をお願いします」
フィルは任せてと言うように枝葉を揺らした。レオンさんは軽く頭を下げると、夜の村へ歩いていく。
その背中が見えなくなるまで、私は黙って見送った。
◆
森の奥。
誰もいない暗闇の中で、処理しきれず残ったゴブリンの死体がぴくりと揺れた。
命が戻ったわけではない。
死体の口元から、黒い靄のようなものが細く漏れ出している。
それは一筋だけではなかった。
ウルフやゴブリンに、ジャイアントクロウ。
倒れた魔物達の身体から、同じ黒い靄がゆらゆらと滲み出す。
靄は風もないのに、森のさらに奥へ向かって流れていく。
木々の間を縫い、地面を這い、音もなく闇の中へ消えていく。
それを見ている者は誰もいない。ただ森だけが、静かに黒い魔力を飲み込んでいた。
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