26話 守りたい場所
朝日が昇るよりも少し早く、レオンは村の外れを歩いていた。
村の中ではなく、外周をゆっくりと見回る。森との境界には、交代で警戒に当たる近衛騎士達が配置されている。
「団長」
一人の騎士が敬礼した。
「異常は」
「現在のところありません」
若い騎士はそう答えたあと、少しだけ表情を曇らせる。
「ですが⋯⋯やはり森の様子が妙です」
「⋯⋯続けろ」
「鳥の鳴き声が少なく、獣の気配も薄いように感じます。昨日の遠吠え以降、森全体が静まり返っているようで⋯⋯」
レオンは森へ視線を向ける。
まだ朝靄が残る森は静かだった。それにしても——静かすぎる。ディーンが「嫌な予感がする」と言ったことも、何かの前触れの予感を高める。
「警戒を続けてくれ」
「はっ」
騎士は敬礼すると持ち場へ戻っていく。
レオンは森を見つめたまま、小さく息を吐いた。
異変が起きていることは間違いない。だが、何が起きるのかまでは分からない。だからこそ、備えるしかなかった。
歩きながら自然と剣へ手を添える。
この村へ来てから、その仕草はすっかり癖になっていた。ふと、脳裏に一人の少女の姿が浮かぶ。
まだ一月も経っていない。あの日も、こんな穏やかな朝だった。
◆
レオンが王宮結界樹の庭園へ向かった時、一人の少女が結界樹の世話をしていた。
朝露に濡れた葉を一枚ずつ持ち上げ、裏側まで丁寧に確認する。
枝を見て、幹を見て、根元の土へ水を与える。その動きには一切の迷いがなかった。
何年も、いや十年以上繰り返してきた日課なのだろう。
レオンは少し離れた場所で、その様子を静かに見守っていた。
(この方が、フローラ・リーフレット様か)
名前だけは知っていた。
王宮結界樹を管理する少女。代々リーフレット家が受け継いできた役目を、若くして担っている人物。
だが、実際に会うのは初めてだった。
少女は誰かに見られていることなど気にも留めず、嬉しそうに笑っている。
「今年も綺麗に咲かせようね」
結界樹へ優しく話しかける。
すると、不思議なことに枝葉がさわりと揺れた。
まるで返事をしているようだった。レオンは思わず目を細める。
(まるで家族だな)
そんな感想が自然と浮かんでいた。
だが、その穏やかな時間を終わらせるのが、自分の役目だった。
「フローラ・リーフレット様」
少女が振り返る。
少し驚いたような表情。それでもすぐに笑顔を浮かべた。
「おはようございます」
「おはようございます」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
これから自分が伝えることを思えば、その笑顔はあまりにも眩しかった。
「ガイアス王太子殿下がお呼びです」
少女は不思議そうに目を瞬かせた。
「⋯⋯ガイアス殿下が?」
その反応も無理はない。
結界樹管理人とはいえ、王太子から直接呼び出されることなど滅多にない。
それでも少女はすぐに姿勢を正した。
「分かりました。すぐ向かいます」
「お願いいたします」
レオンは一歩前を歩く。
後ろからは小さな足音だけが聞こえてくる。
ふと振り返ると、少女は結界樹へ向かって微笑んでいた。
「行ってくるね、フィル」
結界樹の枝葉が静かに揺れる。その光景が、何故だか胸に残った。
謁見の間へ着くまで、二人の間に会話は無かった。
必要以上の言葉を交わす立場ではない。
それでも、少女が緊張していることだけは伝わってきた。
大きな扉が開く。
「フローラ・リーフレット様をお連れしました」
レオンは一礼し、一歩下がる。
そこから先は、自分の役目ではない。そう思っていた。だが、その日の光景は、生涯忘れることはないだろう。
ガイアス殿下の苦しそうな表情。
宰相アーヴィンの淡々とした説明。
周囲の貴族達の、どこか嘲るような笑み。
そして。
「本日をもって、お前を王宮結界樹管理人の任から解任する」
その一言で、少女の表情から笑顔が消えた。
それでも必死に涙を堪え、理由を尋ねる姿を、レオンはただ見守ることしかできなかった。
王太子の決定に、近衛騎士が口を挟むことなど許されない。だからこそ、何もできない自分が歯痒かった。
謁見が終わると、フローラ様は静かに一礼し、謁見の間を後にした。
その背中は、小さく見えた。
先ほどまで結界樹の前で笑っていた少女と、同じ人物とは思えないほどに。
レオンは命じられた通り、その後ろを歩く。長い廊下には二人の足音だけが響いていた。
やがて、ぽたり、と床へ雫が落ちる音がした。————涙だった。
フローラ様は立ち止まらない。
振り返りもしない。ただ前だけを見て歩いている。それでも肩は小さく震えていた。
レオンは胸が締め付けられる思いだった。
せめて何か言葉を掛けられれば。だが、どんな言葉も今の彼女を慰めることは出来ない。
だから懐からハンカチを取り出し、静かに差し出した。
「フローラ様。こちらを」
一瞬だけ足が止まる。
「あ、ありがとうございます⋯⋯大丈夫です」
少女は袖で涙を拭き、小さく頭を下げた。
「本当に、大丈夫ですから。ありがとう、ございました」
そのまま歩き出す背中を、ただ見送ることしか出来なかった。
あの時の自分は、近衛騎士として正しかったのだろう。
だが、一人の人間としては何も出来なかった。その無力さだけが、今も胸に残っている。
◆
レオンは小さく息を吐き、意識を現在へ戻した。
目の前には、穏やかな朝のリーヴェ村が広がっている。
ロイドは畑へ向かい、鍬を肩へ担いで歩いていた。
トーマスはベイク亭から焼き立てのパンを運び出し、エマが店先を掃除している。
マーサは薬草を干しながら鼻歌を歌い、ガストンは朝から薪を割っていた。
少し離れた場所では、ルークが木剣を振っている。教えた構えを、毎朝欠かさず練習しているらしい。
「レオンお兄ちゃん!」
ルークがこちらへ気付く。
「今日も稽古してよー!」
「⋯⋯ああ。朝食を食べた後始めようか」
「やった!」
その声を聞いたリリィも駆け寄ってくる。
「レオンお兄ちゃん!今日は鬼ごっこもしようね!」
「分かった分かった。ちゃんと仕事が終わってからな」
「約束だからね!」
子ども達は笑いながら走っていく。
そんな姿を見ていると、自然と口元が緩んだ。王宮では、こんな風に笑うことは少なかった気がする。
ふと庭へ目を向ける。
そこではフローラ様が、今日もフィルへ水をあげていた。
「おはよう、フィル」
優しく幹を撫でる。
フィルも嬉しそうに枝葉を揺らし、一本の枝で彼女の頭をそっと撫で返した。
「もう、くすぐったいよ」
楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
あの日、王宮で見た笑顔とは違う。今の笑顔は、心から安心している人の笑顔だった。
レオンは思う。
あの日、自分は彼女の笑顔を守れなかった。だが今は違う。今なら守れる。いや、守りたい。
それは王太子の命令だからではない。護衛任務だからでもない。この村で過ごした日々の中で、気付けば全員が自分にとって大切な存在になっていた。
その時、フィルの枝葉がぴたりと止まる。レオンも反射的に森へ視線を向けた。
風は吹いている。だが、森は静かだった。嫌な予感が胸をよぎる。
レオンは腰の剣へ手を添えた。遠く、森の奥から低い遠吠えが響く。
ウォオオオオォ——。
村人達はまだ気付いていない。
気付いているのは、自分とディーン、そしてフィルだけだ。
レオンは静かに剣の柄を握り締める。
(もう二度と、あの日のような思いはさせない)
あの朝、笑顔だった少女を泣かせてしまった。
何も出来なかった自分とは違う。今は剣がある。守るべき場所がある。守りたい人達がいる。
レオンは森を真っ直ぐ見据え、小さく、それでも揺るぎない声で呟いた。
「この村は、俺が守る」
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