第31話 ギャル、すべてを使う
夜明け前に動いた。
王都の東区は朝の光がまだ届いていない。石畳が暗い。空気が重い。でもいつもの王都の重さとは違う。何かが張っている。張り詰めた空気だ。
クルスが隣を歩いていた。旅装から戦闘装備に変えている。双剣が腰にある。無駄な動きがない。
レオニスが前を歩いていた。いつもより少し歩幅が大きい。集中している歩き方だ。
カトリが「あそこです」と言った。石造りの建物を指した。2階建て。窓に光がない。でも人がいる感触があった。
建物の前に出た瞬間、扉が開いた。
男が出てきた。ぼんやりした目だ。昨夜試した男と同じ種類の目だ。支配下の人間だ。その後ろに、また1人。また1人。続いて出てきた。
カトリが「……10人以上います」と言った。「全員、ゼルダの支配下です」
レオニスが「みるく」と言った。
「分かってる」
体の底に意識を向けた。昨夜試した感触を思い出した。縛っているものをほどく方向で出す。上げるんじゃなく、届ける。
全力で広げた。
体から何かが流れ出た。昨夜より広い。前回の魔物の大規模戦闘でテンアゲを広げた時より、さらに広い。全員に向けて、一気に届けた。
支配下の人間たちの目が変わった。一瞬で変わった。ぼんやりしていた目に焦点が戻った。10人以上が、同時に。
「……ここは」
「俺、なんで」
「体が——」
声が重なった。混乱している。でも自分の声で話している。自分の意志で動いている。
「大丈夫です」とカトリが素早く前に出た。「今、安全な場所にいます。落ち着いてください」
カトリの声が、静かに届いた。計算された言葉じゃない。本当に伝えたいことを言っている声だ。
アタシは体の感触を確認した。
重い。全力で広げた分だけ、体が重くなっていた。消耗している。でも動ける。ゼルダに向ける力は残っている。
「クルス」とアタシは言った。
「分かってる」とクルスが言った。すでに双剣を抜いていた。「行くぞ」
建物の中に入った。
1階に人はいなかった。2階から気配がした。
階段を上がった。扉の前でレオニスが止まった。アタシを見た。
「一緒に入る」とアタシは言った。
レオニスが扉を開けた。
部屋の奥に、男がいた。
50代だ。白い服を着ている。座っていた。こちらを見ていた。驚いていない。来ることを知っていた顔だ。
ギャルズアイを向けた。
層が深い。これまで読んできた誰とも違う質だ。カトリは計算している層だった。マルフォは全部が計算の層だった。
ゼルダは——積み重なっている。長い時間をかけて積み重なった確信だ。自分がやっていることが正しい、という確信が、層の全部を貫いている。
「みるく殿ですね」とゼルダが言った。穏やかな声だった。
「半年間、追いかけてきた子がいました。その子が、仲間を連れてくると思っていました」
「カトリのことを知ってたんだ」
「賢い子です。一人では無理でしたが」ゼルダが少し間を置いた。
「あなたが来たことで、今日が最後になりそうです」
「何のために動いていたの」とアタシは言った。
ゼルダが少し考えた。
「王都を、本当の意味で安定させるためです。意志の弱い人間が重要な場所にいると、街が揺れる。揺れると、多くの人間が傷つく。私は揺れを止めたかった」
「人を支配することが、安定につながると思ってた」
「支配、という言葉は好きではありませんが——そうです。意志を揃えれば、争いが減る。私はそれを30年かけてやってきました」
30年。長い時間だ。
「それで、誰かが喜んだ?」とアタシは言った。「支配された人たちの中で」
ゼルダが少し止まった。「……幸福は、本人が気づかない形でも存在します」
「アンタが決めることじゃないと思う」
ゼルダの層が少し動いた。でもすぐに戻った。確信が深すぎる。言葉で揺らすには、もっと深い場所を読む必要がある。
ゼルダが口を開いた。
「あなたの力は、感情に依存している」
乗ってきた。
カトリの時と同じ種類だ。でも密度が違う。重い。体の奥まで向かってくる。
「感情に依存している」という言葉が、体の中に入ってきた。
「感情は不安定です。怒れば暴走する。悲しめば止まる。そんな力で、私に届くと思っていますか」
足が少し重くなった。3秒、止まった。
これまでで一番長い3秒だった。
レオニスが一歩、前に出た。盾の位置だ。何も言わなかった。でも前に出た。
その動きが見えた瞬間、体が先に動いた。
感情に依存している。本当のことだ。でも——
テンションブーストが動いた。
乗ってくる言葉が、燃料になった。押されている感触が、燃料になった。
消耗が、燃料になった。追い詰められるほど、体の底から火力が上がってくる。
「クルス、レオニス」とアタシは言った。「護衛を頼む。ゼルダに近づかせないで」
クルスが動いた。レオニスが動いた。ゼルダの護衛が2人いた。クルスが1人を受けた。レオニスが1人を受けた。
アタシはゼルダの正面に立った。
ギャルズアイを向けた。層の奥まで読んだ。
確信の起点を探した。怒りじゃない。欲じゃない。
もっと深い場所だ。30年間、自分がやっていることは正しいと思い続けてきた。
その確信の一番深い場所に——孤独がある。誰にも理解されなかった30年間の孤独だ。
正しいと思っているのに、誰も分かってくれない。だから支配することで揃えようとした。
読めた。
「アンタが正しいと思ってることは分かる」とアタシは言った。「30年間、ずっとそう思ってきたんでしょ。誰にも分かってもらえなくても」
ゼルダが止まった。
その一瞬を逃さなかった。孤独の層に向けて、真っ直ぐ届けた。
「でも——アンタがやってきたこと、誰も望んでなかったよ!」
口撃の全力だった。
ゼルダの確信の層が、表面まで崩れた。30年間積み重なってきた層が、一瞬だけほどけた。
その一瞬をレオニスが逃さなかった。
護衛を制圧したレオニスが、ゼルダの背後に回っていた。ゼルダが動けなくなった。
静かになった。
クルスが「……終わったか」と言った。息が上がっていた。でも怪我はない。
「終わった」とアタシは言った。
体が重かった。全力で使い切った感触だ。でも立っていられる。
カトリが部屋に入ってきた。外で支配が解けた人間たちを落ち着かせていた。
「……終わりましたか」
「終わった」
カトリが少し下を向いた。しばらく黙っていた。「……半年間、追いかけてきました」と言った。「今日、終わりました」
「終わったね」とアタシは言った。「よく一人で追いかけてきた」
カトリが顔を上げた。「……みるくさんが来てくれたから、終わりました」
「カトリが半年間続けてたから、終わった」とアタシは言った。「どっちも本当のことだよ」
カトリが「……そうですね」と言った。今度は泣いていた。声は出さなかったが、泣いていた。
アタシは何も言わなかった。言わなくていい場面だった。
ガレードの部屋に戻って報告した。
「終わりました」
「見ていた」とガレードが言った。「テンアゲで一気に解放した。口撃の全力も出した。全部使ったな」
「全部使いました」
「怪我は」
「消耗してます。怪我はないです」
ガレードが少し間を置いた。「やはりお前が必要だったな」
「王都に来るたびに事件があるんですけど」とアタシは言った。
「お前がいるから解決するんだ」
「……それはそうかもしれないですけど」
ガレードが少し笑った。「次は自分で来い」
「自分で選んで来ます」とアタシは言った。「前にそう言いました」
「覚えている」
廊下に出ると、クルスが壁に背をもたせかけていた。
「……強くなったな」とクルスが言った。
「前より?」
「前より。王都で会った時より、さらに」
アタシは少し考えた。「アンタも強くなった」
「負けたのに?」
「負けてない。今日は味方だったから」
クルスが「……そうか」と言った。少し間を置いた。「次は敵として来る」
「依頼として出してくれたら考える」
「……ケチ」
「ただの冒険者だから」
クルスが笑った。今日2回目の笑いだった。最初の笑いより、少し力が抜けていた。
「また来ていいか」とクルスが言った。
「来てくれたら嬉しい」とアタシは言った。
クルスが少し止まった。「……今日はそう言うんだな」
「今日は素直な気分」
クルスが「……そうか」と言った。また笑った。
レオニスが来た。
「怪我は」とアタシは聞いた。
「問題ない」
「見せて」
「今日は本当に問題ない」
「ならいい」
レオニスが「……消耗しているだろう」と言った。
「してる」
「無理をするな」
「してない。全力を出しただけ」
レオニスが少し間を置いた。「……全力を出し切ることを、無理とは言わないのか」
「言わない。やりきったから」
レオニスが「……そうか」と言った。少し間を置いた。「今日、レオニスに盾を頼んだ」
「そうだよ」
「……前に出た時、少し怖かった」
アタシはレオニスを見た。「怖かった?」
「ゼルダの護衛が、想定より速かった。でも——」レオニスが少し間を置いた。「頼まれていたから、前に出た」
「ありがとう」とアタシは言った。
レオニスが「……俺の方こそ」と言った。それだけだった。
廊下の窓から、王都の朝の光が入ってきた。夜明け前に動いて、今は朝になっていた。終わった。全部、終わった。
帰れる、とアタシは思った。




