第78話 魔王の胎動、迫りくる見えざる脅威。
第八章 終焉の胎動、侵食される聖域。
王国と正式な協力関係を結び、わが迷宮はかつてない活気に包まれていた。第1層の広場では、王宮から派遣された技師たちが街道の整備を支援し、テオが陣頭指揮を執る宿泊エリアには、貴族から平民までが肩を並べて安らぎを求めている。
(フム。魔力供給は安定。地脈の循環効率も、当初の予定より15パーセントほど上回っているな。……外部の敵を排除し、内部の秩序を固める。ここまでは、ほぼ完璧な進捗と言っていい)
俺はコアルームから、迷宮内のすみずみまで張り巡らせた知覚網を走らせていた。エルフの国が引き起こした「暴走」の余波もほぼ収まり、今やこの聖域を脅かすものは何一つ存在しないように見えた。
だが、その安寧を切り裂くように、アムネが突然、耳を塞いでその場にうずくまった。
「……っ、いや。こないで……。暗くて、すごく冷たいのが……」
「アムネ!? どうしたの、また精霊たちが泣いてるの?」
そばにいたリナが、慌てて彼女の肩を抱く。アムネの顔からは血の気が引き、その瞳には底知れない恐怖が浮かんでいた。
「ちがう、精霊じゃないの……。もっと、もっと怖くて……世界が壊れるみたいな音が、下の方から……」
(下だと? バカな。現在、第5層より下の未解放エリアには、強力な封印と演算防壁を幾重にも敷いている。……そこに異常があれば、俺が気づかないはずがない)
俺は直ちに、全意識を迷宮の最深部、未だ光の届かぬ暗黒の階層へと集中させた。
しかし、返ってくるのは静寂のみだ。魔物の蠢きすら感じられない、完璧に統制された静寂。俺の演算上では、そこには「何も存在しない」はずだった。
情にほだされず揺るぎない確信を持って、俺は自身のシステムを再点検したが、エラー一つ検出されない。
「アムネ、落ち着け。……地下の封印に異常はない。俺がすべてを観測している。お前の繊細な感覚が、崩壊したユグドラシルの残響を拾っているだけだ」
俺は、彼女の不安を払拭するために、慈しみを込めた穏やかな念話で語りかけた。俺の言葉を聞き、アムネは震えながらも、小さく頷いた。だが、その不安げな視線は、ずっと奈落の底を向いたままだった。
その頃。
俺が「何も存在しない」と断じたはずの、第10層……さらにその奥底にある、虚無の空間。
そこでは、論理や物理法則が一切通用しない「闇」が、音もなく拍動を繰り返していた。
(……心地よい。この迷宮が吸い上げる、純度の高い魔力の残り香。そして、人々の信頼が、いつか絶望に変わる瞬間のために蓄えられた期待感。……実に、熟成が進んでいるではないか)
俺の知覚網が届かない、次元の裏側。
そこに座す黒い影は、魔力を糧にするのではなく、迷宮という「システム」そのものを侵食し始めていた。
影が、白く細い指を伸ばし、空間を切り裂く。
その指先から滴り落ちた一滴の黒い雫が、迷宮の地脈へと染み込んでいく。
「迷宮の主よ。お前は、自分がこの世界のルールを書き換えていると思っているようだが……。……ルールを定めているのは、私だ。お前が完璧に築き上げたこの箱庭を、内側から、腐った果実のように崩してやろう」
影の主……魔王が、静かに、しかし鮮明な殺意を湛えて微笑んだ。
その雫は、迷宮内の魔力循環に紛れ込み、少しずつ、確実に、各層に配置されたスタッフたちの精神へ、あるいは土壌の根幹へと、目に見えぬ呪いを伝播させ始める。
(フム。やはり気のせいだったか。……さて、明日は王都から視察団が来る。迎え入れの準備を万全にしておこう)
俺は、自身が最も信頼しているはずの「完璧な演算」が、すでに狂わされ始めていることに気づかないまま、平穏な朝を迎えようとしていた。
聖域の崩壊。その見えない脅威は、すでに俺の足元まで迫っていたのである。
ご拝読ありがとうございます。これは、もしかしたら、太刀打ちできる相手じゃないかもしれません。なんとも不気味ですね……。
さて次回は、第79話『忍び寄る異変、蝕まれる安らぎへ。』をお送りいたします。お楽しみに!!




